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第16話 井戸、完成する

 イサが「できた」と言ったのは、昼前だった。


 井戸の縁に立って、桶を引き上げる縄を手に持ったままだった。深さは七メートルを超えた。壁面は石を積んで崩落を防ぎ、土が脆い箇所には骨甲板を当てて補強した。


「水は十分あります。一日に三十人が使っても尽きない量が出ます」


「ありがとうございます」


 穴の縁に手をかけて、周囲を見渡した。それから空を見上げた。


「もっと早くできたかもしれない」


 声は低かった。


「十分です。二ヶ月で水が出れば十分すぎるくらいです」


「……そうか」


 それ以上は言わなかった。でも、何かが終わったような顔をしていた。


「確認してください」


 桶を穴に下ろした。縄を繰り出していくと、底で水の音がした。引き上げると、桶に水が入っていた。色がなかった。


「飲めますか、これ」


「試してから飲んだほうがいい」


 近くで待っていたかのように口を開いた。


「僕が試します」


「試してない水を飲まないこと」


 遮る。リュウが何を言うか、もう全部読めている顔だった。


「でも試さないと生で飲めるかどうかわからないので——」


「今日は沸かします。沸騰させれば確実に飲めます。生で飲めるかどうかは、少量を数日かけて試してから判断します」


 その日の昼、煮沸した井戸水を全員で飲んだ。ナル川の水と味が違った。少し深みがあった。


「おいしいです。ナル川より少しまろい。深いところから来る水は違うんですね」


「料理に使えます」


 顔を上げた。いつもより少しだけ表情が明るかった。


「拠点に水が出た」


 その一言に、誰も何も加えなかった。全部入っていた。



※



 夕方、少し豪華な食事を作った。豪華といっても、乾燥肉と野菜の煮込みに、米を加えた。いつもは麦か豆だったので、白い米の粥は全員に好評だった。


「何かお祝いの言葉は」


「えっと」


 少し困った顔をした。


「井戸が完成しました。これで水の心配が一つ減りました。ありがとうございます」


「短いですね」


「短くていいと思います」


「もっと感動的なほうが良かったですか」


「いい」


 椀を手に取る。


「飯が食えればいい」


「ガンさんはいつもそうですね」


 笑いをこらえた。


「感動的な場面でも、まず飯の話をします」


「悪いか」


「悪くないです。わかりやすくて助かります」


「お前は何でも実況するな」


「実況しないとガンさんが素直なのが伝わらないので」


「俺は素直じゃない」


「今も素直に言いましたよ」


「うるさい」



※



 食後、スズが「ドンに報告したい」と言った。


「水汲みではもう来なくなるって伝えたほうが……」


「報告する必要はありません」


「鰐には伝わりません」


「ドンには顔を覚えてもらっていると思うので」


「顔を覚えているかどうかはどうでもいいです」


「目が合います、いつも。水汲みの時に」


「それは鰐が岸に近づくものを警戒しているだけです」


 苦笑した。


「ミコトさんはロマンがないですね」


「違います」


「……違いますか」


 珍しく「違います」と言ったので、少し驚いた声になった。


「ロマンが『ない』のではなく、確認できないことを言わないだけです」


「どんぐりの背比べみたいな違いです」


「違います。確認できないことを確認したと言わない。それが地図を作る上で一番大事なことです」


「……それはそうですね。でも行ってもいいですか。報告ではなく、挨拶として」


「止めません。ただし一人では行かないこと」


「カイさんが一緒に来てくれますか」


「分かった」



※



 翌朝、カイとスズでナル川に来た。


 必要だから来ていた場所に、その必要がなくなった。不思議な感覚があった。


 石の上に立った。水面を見た。しばらく待って。


「ドン、いますか」


 声を抑えた。


 しばらく何もなかった。水面の石が動いた。ゆっくりと頭を上げた。青黒い、幅広い頭。目が水面に出た。


「見てます」


「そうですね」


「水汲みではもう来なくなる。お世話になりました」


 動かなかった。水面に頭だけを出したまま、岸の二人を見ていた。


「返事はしないね」


「しませんね」


「でも聞こえてると思う」


「そうかもしれません」


 「さようなら」と言った。沈んだ。波紋が広がって消えた。地元の脅威との、静かな卒業式であった。



※



 その日の夕方、クワが「見張り台を高くします」と言った。


「どのくらい」


「今の二倍。四メートルから八メートルに」


「理由は」


「四メートルでは北西の丘陵の稜線の向こうが見えない。八メートルあれば、カネヅカ方向の地形が少し見える可能性があります」


「材料は」


「ケンと相談します。二週間かかります」


「わかりました。進めてください」


 そういう決定が、自然な流れで行われるようになっていた。誰かが問題を見つけて、解決策を提案して、了承を取って動く。


 夕方、全員が食堂の小屋に集まった夜の報告で、ガンが地図を広げた。口調はいつもと変わらなかったが、少し背筋が伸びていた。


「ここ数日の巡回の報告をする。ミナシロ方向、南東の草地に設置した誘引罠の餌が今日も食べられていた。ここ三日、連続している。足跡の数と方向から、群れが農地の方向ではなく罠のある方向に移動している可能性がある」


「可能性、というのはまだ確定ではないということですか」


「断言はできない。ただ方向は悪くない。三日続けて同じ動きなら、群れの習慣が変わりつつある」


「わかりました。経過観察を続けてください」


「それから」


 地図を指した。


「東の捕縛蔦の群生域が先週より少し広がっていた。巡回ルートを一箇所迂回させる。リュウが確認済みだ」


「はい。三メートルほど東に拡張しています。今日の時点では巡回路に干渉していませんが、雨の後は活性化するので要注意です」


「南の森の縁は変化なし」


 カイも報告を継いだ。


「針鼠狼の声は聞こえなかった。先週と同じ方角から、縄張りの声が一度だけあった。距離は変わっていない」


 帳簿に書きつける。


「ありがとうございます」


 それだけの会話だった。特に大きな変化はなかった。でもそれが、今日も安全に一日が終わったということだと思った。


 拠点がゼロから始まって、初めて「敷地内に水がある」という状態になった。


 それだけのことが、なぜか全員を少し、穏やかにした。

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