第16話 井戸、完成する
イサが「できた」と言ったのは、昼前だった。
井戸の縁に立って、桶を引き上げる縄を手に持ったままだった。拠点設立から二ヶ月近く、毎日少しずつ掘り続けてきた穴だった。深さは七メートルを超えた。壁面は石を積んで崩落を防ぎ、土が脆い箇所には骨甲板を当てて補強した。縄と滑車を使った桶の上下装置をつけ、最後に口の周りを石柱で囲った。水脈に達してからは何日も繰り返し桶で汲み出し続けて、今朝ようやく澄んだ水が上がるようになっていた。
「水は十分あります」とイサは、井戸の縁を一度撫でながら続けた。「一日に三十人が使っても尽きない量が出ます」
「ありがとうございます」とドウが返した。
イサが穴の縁に手をかけて、周囲を見渡した。石柱の囲い、縄と滑車の装置。それから空を見上げた。
「もっと早くできたかもしれない」とイサはつぶやいた。
「十分です。二ヶ月で水が出れば十分すぎるくらいです」とドウが返した。
「……そうか」
それ以上は言わなかった。でも、何かが終わったような顔をしていた。
イサが「確認してください」と言った。
ドウが桶を穴に下ろした。縄を繰り出していくと、底で水の音がした。引き上げると、桶に水が入っていた。色がなかった。
「飲めますか、これ」とドウが、桶の中の水を覗き込みながら聞いた。
「試してから飲んだほうがいい」とセリが、近くで待っていたかのように答えた。
「僕が試します」とリュウが申し出た。
「試してない水を飲まないこと」とセリが遮った。リュウが何を言うか、もう全部読めている顔だった。
「でも試さないと生で飲めるかどうかわからないので——」
「今日は沸かします。沸騰させれば確実に飲めます。生で飲めるかどうかは、少量を数日かけて試してから判断します」
その日の昼、煮沸した井戸水を全員で飲んだ。ナル川の水と味が違った。少し深みがあった。
「おいしいです」とスズが言った。「ナル川より少しまろい。深いところから来る水は違うんですね」
「料理に使えます」とハナが顔を上げた。いつもより少しだけ表情が明るかった。
「拠点に水が出た」とガンが言った。誰も何も加えなかった。その一言に、全部入っていた。
夕方、ハナが少し豪華な食事を作った。豪華といっても、乾燥肉と野菜の煮込みに、米を加えた。米は物資支援で届いたミナシロの米だった。いつもは麦か豆だったので、白い米の粥は全員に好評だった。
全員が食堂の小屋に集まって食べた。十二人が並んで、狭い食堂にぴったり入った。
「何かお祝いの言葉は」とスズがドウに聞いた。
「えっと」とドウが少し困った顔をした。「井戸が完成しました。これで水の心配が一つ減りました。ありがとうございます」
「短いですね」とスズが返した。
「短くていいと思います」とカイが続けた。
「もっと感動的なほうが良かったですか」とドウが聞いた。
「いい」とガンが答えた。「飯が食えればいい」
「ガンさんはいつもそうですね」とスズが続けた。「感動的な場面でも、まず飯の話をします」
「悪いか」
「悪くないです。わかりやすくて助かります」
「お前は何でも実況するな」
「実況しないとガンさんが素直なのが伝わらないので」
「俺は素直じゃない」
「今も素直に言いましたよ」とスズが返した。ガンが「うるさい」と言いながら米粥を受け取った。
それで食事が始まった。
食後、スズが「ドンに報告したい」と言った。「水汲みではもう来なくなるって伝えたほうが……」
「報告する必要はありません」とミコトが、椀を置きながら返した。「鰐には伝わりません」
「ドンには顔を覚えてもらっていると思うので」
「顔を覚えているかどうかはどうでもいいです」
「目が合います、いつも。水汲みの時に」
「それは鰐が岸に近づくものを警戒しているだけです」
スズが「ミコトさんはロマンがないですね」と苦笑した。
「違います」とミコトが返した。
「……違いますか」とスズが聞いた。珍しくミコトが「違います」と言ったので、少し驚いた声になった。
「ロマンが『ない』のではなく、確認できないことを言わないだけです」
「どんぐりの背比べみたいな違いです」
「違います。確認できないことを確認したと言わない。それが地図を作る上で一番大事なことです」
スズが「……それはそうですね」と言って少し考えた。「でも行ってもいいですか。報告ではなく、挨拶として」
「止めません」とミコトが答えた。「ただし一人では行かないこと」
「カイさんが一緒に来てくれますか」
「分かった」とカイが答えた。
翌朝、カイとスズでナル川に来た。
川岸に立つと、水面がよく見えた。昨日まで毎日来ていた場所だが、「水汲みではもう来なくていい」と思うと、不思議な感覚があった。必要だから来ていた場所に、その必要がなくなった。
スズが川岸から少し離れた石の上に立った。水面を見た。
しばらく待って、スズが「ドン、いますか」と言った。
しばらく何もなかった。
水面の石が動いた。ゆっくりと頭を上げた。青黒い、幅広い頭。目が水面に出た。スズを見た。
「見てます」とスズが、声を抑えてつぶやいた。
「そうですね」とカイが返した。
「水汲みではもう来なくなる。お世話になりました」
ドンは動かなかった。水面に頭だけを出したまま、岸の二人を見ていた。
「返事はしないね」
「しませんね」
「でも聞こえてると思う」
「そうかもしれません」
スズが「さようなら」と言った。ドンが水面に沈んだ。波紋が広がって消えた。
帰り道、カイはナル川の上流方向を見た。川は丘の間を縫って流れている。水源がどこにあるのかは、誰も知らない。地図に書いてあるのは「ナル川」という名前と、大まかな流れの方向だけだ。川がどこから来て、どこへ行くのかは、まだ誰も確かめていない。
この世界には、地図に書いてない場所のほうが多い。
石柱の遺物に刻まれていたB7も、その一つだった。標塔は誰でも見ているのに、標塔と同じ光沢を持つものが足元に埋もれていることを、誰も地図に書いていない。見えているものと、まだ見えていないものは、同じ世界にある。
カイはそう思いながら歩いた。
その日の夕方、クワが「見張り台を高くします」と言った。
「どのくらい」とドウが、見張り台の方を見ながら聞いた。
「今の二倍。四メートルから八メートルに」
「理由は」
「四メートルでは北西の丘陵の稜線の向こうが見えない。八メートルあれば、カネヅカ方向の地形が少し見える可能性があります」
「材料は」
「ケンと相談します。二週間かかります」
「わかりました。進めてください」
そういう決定が、自然な流れで行われるようになっていた。誰かが問題を見つけて、解決策を提案して、了承を取って動く。建設要員がいた頃の混乱とは違っていた。全員が少しずつ、自分の役割を理解していた。
夕方、全員が食堂の小屋に集まった夜の報告で、ガンが地図を広げた。
「ここ数日の巡回の報告をする」とガンは切り出した。口調はいつもと変わらなかったが、少し背筋が伸びていた。「ミナシロ方向、南東の草地に設置した誘引罠の餌が今日も食べられていた。ここ三日、連続している。足跡の数と方向から、群れが農地の方向ではなく罠のある方向に移動している可能性がある」
「可能性、というのはまだ確定ではないということですか」とドウが聞いた。
「断言はできない。農地の方向への足跡がないだけで、被害がゼロかどうかはこちらからは確かめようがない。ただ方向は悪くない。三日続けて同じ動きなら、群れの習慣が変わりつつある」
「わかりました。経過観察を続けてください」
「それから」とガンが続けた。「東の捕縛蔦の群生域が先週より少し広がっていた。巡回ルートを一箇所迂回させる。リュウが確認済みだ」
「はい」とリュウが答えて、自分の地図メモを確認した。「三メートルほど東に拡張しています。今日の時点では巡回路に干渉していませんが、雨の後は活性化するので要注意です。来週また確認します」
「南の森の縁は変化なし」とカイが続けた。「針鼠狼の声は聞こえなかった。先週と同じ方角から、縄張りの声が一度だけあった。距離は変わっていない」
「ありがとうございます」とドウが帳簿に書きながら返した。
それだけの会話だった。特に大きな変化はなかった。でもそれが、今日も安全に一日が終わったということだとカイは思った。
ドウが「わかりました」と締めた。
拠点がゼロから始まって、初めて「敷地内に水がある」という状態になった。
それだけのことが、なぜか全員を少し、穏やかにした。




