最終話
蒼白い朝霧が立ち込める街角。パン屋の裏口の扉が開き、香ばしい小麦の香りと共にフェリクスが姿を現した。
片腕に自分たちの朝食用に譲り受けた、焼きたてのパンが入った袋を大切そうに抱えている。
裏口のそばでは、店主が空の粉袋をまとめていた。フェリクスに気づくと、彼は手慣れた様子でそれを脇へ置き、顔を上げた。
「お疲れ様、フェリクス君。今日も助かったよ。君の捏ねる生地は本当に筋が良いね。」
声をかけられ、フェリクスは足を止めて穏やかに会釈した。空いている方の手で、エプロンを外した後のシャツに白く残っていた粉を、丁寧に払い落とす。
「ありがとうございます。……『耳』を澄ませば、生地がいつ焼き上がりたいか教えてくれますから。」
「はは、職人らしい台詞だ。さあ、妹さんが待ってるだろう。早く帰ってやりなさい。」
店主に促され、彼は紙袋の温もりを腕の中に感じながら、足早に「家」……ミルズとフェイの待つ時計店へと向かった。
フェリクスは時計店の裏口から入り、オイルの匂いが染み込んだ一階の作業場を音もなく通り抜けた。
表の店舗フロアへ足を踏み入れると、そこには外の朝霧を撥ね退けるような、研ぎ澄まされた静謐が広がっている。
壁一面に並んだ古い柱時計たちが、馴染み深い秒針の刻み音だけが支配する空間。
その最奥、表通りに面したガラス窓から差し込む青白い光をうけて、店主のミルズがカウンターに深く腰掛けていた。
片目に拡大鏡を食い込ませ、ピンセットの先で砂粒ほどのネジを慎重に追い詰めている。その背中は、開店前のこの時間だけが、彼が「時計師」として呼吸できる唯一の聖域であることを物語っていた。
フェリクスは作業を邪魔せぬよう、カウンターの傍らで静かに待った。やがて、カチリと小さな金属音が響き、ミルズがふう、と深く息を吐く。
片目に嵌めていた拡大鏡を外した瞬間、窓から差し込む無遠慮な陽光に、彼は苦悶げに眉を寄せ、目を細めた。
しばし、強張った瞼を指先で押さえていたが、やがて傍に置いていたサングラスを手に取り、逃げ込むようにその奥へ瞳を隠す。
「お疲れ様。……三階では、もうフェイが動いてるみたいだよ。シチューの匂いに釣られて起きたのか、さっきから機材の起動音が階段まで降りてきていた。」
ブリッジを指で押し上げ、ミルズはようやく親友へと顔を上げた。そこには徹夜明け特有の鋭さと、親友の顔を見た時だけに見せる、毒気のない安堵が混じった瞳――それを隠す黒いレンズがあった。
「… ……あいつ、いつの間にか三階に籠もりきりだ。火を入れておいたシチューも手をつけてねえんだよ。……冷める前に、さっさと食わせたかったんだがな。」
ミルズは手元のピンセットをトレイの端へ静かに寄せると、苦笑いを浮かべた。時計の精密な歯車を操るその手も、煮炊きとなると途端に不器用になることを、彼は誰よりも自覚している。
その時だ。
ガツン、ガツンと鉄芯入りのブーツを響かせた足音が階段を駆け下りてくる。
「おかえり、お兄ちゃん!」
赤白の横縞シャツのフェイがパッと顔を出した。ポケットからはペンやドライバーが覗いている。
「ちょうど今、モニターの繋ぎ込みが終わったところよ。……わあ、すごくいい匂い! 今日はクロワッサンも焼けたの?」
「ああ。店主が、よく働く妹さんによろしくって、おまけしてくれたよ。」
フェリクスが穏やかに笑って紙袋を差し出すと、フェイは「やったあ!」と目を輝かせて受け取った。
「フェイ。」
ミルズはレンズ越しにフェイの活発な様子を眺めながら、不機嫌そうな声をわざと作った。
「そんな物騒な履き物で、店内の大理石を傷つけるなと言っただろう。……だが、そのパンに免じて、一度だけ見逃そう。さっさと二階へ運べ。」
サングラスの奥の目は、妹の無邪気な笑顔に絆されて、わずかに細められていた。
「すまない、ミルズ。……さあ、フェイ。少しは休憩してくれ。三階に籠もりきりじゃ体に毒だ。」
フェリクスが苦笑しながら妹の背中を見送る。
だが、その視線がふとカウンターへと戻ったとき、そこには一週間前から時が止まったままの、忌々しい見出しが踊っていた。
『狂気の指揮者、死響の果てに沈む ―― 闇に消えた"銀の死神"の正体とは』
ミルズは鼻を鳴らし、カウンターに広げられていたその新聞を、まるで汚物でも払うかのように無造作に押し除けた。
「どいつもこいつも、真実より面白い嘘の方が好物らしい。」
「……俺の正体が、あのデタラメな記事の中に埋もれてくれて助かったよ。これなら、明日も安心して小麦粉を捏ねていられる。」
フェリクスが自嘲気味に、だがどこか安堵したように呟く。すると、ミルズはカウンターでいじっていた「それ」を不意に手渡した。
「そうだ、フェリクス。……これ、お前が無くしてたものだ。……お互い、夢が叶った記念にな。」
差し出されたのは、昨晩一度預けた銀時計。それはかつて、二人がまだ泥にまみれた兵士だった頃、「いつか最高の時計を仕立ててやる」「その時は僕が一番客だ」と語り合った約束の結晶――ミルズが初めて調整し、フェリクスに贈った、あの日の時計だった。
ミルズは照れくさそうにそっぽを向く。
フェリクスは無言でその時計を握りしめた。掌から伝わるリズムが、戦場に置き去りにしてきた魂を、現在の平穏へと繋ぎ止める錨のように感じられた。
(……反吐が出るほど退屈で、最高の朝だな、相棒)
脳の深層から、あの鋭い声が響く。
かつての「怪物」は、今やフェリクスの感覚の一部となり、日常を守る冷徹な警備員としてそこにいた。
(ああ、全くだ)と、フェリクスは心の中で苦笑混じりに応じる。
耳朶を打つ時計の重なり合う秒針の音と、階段の上から響く愛おしい喧騒。
この静かな時間を守り抜くことこそが、自分たちに課せられた、何よりも困難で幸福な任務だった。
「おーい! 二人とも、シチューが冷めちゃうわよ!」
店舗奥、ドアのない仕切りの先にある作業場から、階段の前に立つフェイが声をかけた。
だがその直後、カランと激しくドアベルが鳴り響き、店舗の正面扉が勢いよく開く。
入ってきたのは、組織の連絡員だ。血相を変えた彼はカウンターの二人に深々と頭を下げ、暗号化されたディスクを差し出した。
「ミルズさん。……例の『マエストロ』の残党が動きました。場所は旧市街の廃工場です。」
仕切りのない空間に、その切迫した報告が冷たく突き刺さる。階段にいたフェイの表情が、最高に難解なパズルを前にした子供のように、不敵な輝きを帯びる。 彼女の思考は、戦場を導く「ナビゲーター」へと切り替わった。
「了解。三階のモニターと通信を即座に同期させるわ!」
フェイは作業場の奥にある上層へと反転し、猛烈な勢いで駆け上がる。
その彼女の足取りは、先ほどまでの軽やかさとは様変わりしていた。鉄芯が段板を叩く硬質な音が、出撃を告げる号砲のように店内に降り注ぐ。
「……お兄ちゃん、最短ルートの索敵はノックスに投げて!ミルズさんは、入り口の警備員を無力化し次第、退路の封鎖をお願い!」
その指示は、二階の踊り場を通過する瞬間に凛として通る。フェイは足を止めることなく、手すり越しに階下の二人へ声を張り上げているのだろう。
「私は地図を片手にサポートするから。……気をつけて、行ってらっしゃい!」
言い終えるや否や、三階の扉が静寂を断ち切り、彼女の気配が途切れる。
店舗に残されたミルズの口元から、先ほどまで笑みが消える。目の奥の気配が瞬く間に「戦場」へと研ぎ澄まされ、低く短く頷く。フェリクスは何も言わず、ただ静かに、仕込みナイフの感触を掌で確かめた。
不揃いな鼓動を刻む三人と、その影に潜む一人の怪物が、大切な「我が家」の裏側へと駆け出していく。
世界を救う英雄ではない。けれど、彼らが通った後には必ず、静かで正しい「時」の音が戻るのだ。




