15話
ミルズは蒸気の隙間を縫い、イワンの巨体へと肉薄した。
対するイワンは、その巨体に似合わぬ速さで突進し、コンクリートを砕くはずの先端を、ミルズの頭部目掛けて突き出した。
「……ッ、相変わらず芸がねえな!」
ミルズは頭部をかすめる先端を見切り、沈み込むように身を屈めた。
イワンの懐に潜り込み、その死角となる横腹へ、最短距離で拳を突き立てる。あいにく、手応えは最悪だった。防弾プレートによるものか、肉の弾力は一切なく、ただミルズの拳の骨が悲鳴を上げるような、無機質な硬質感に阻まれる。
狙い通りの一撃を文字通り「無視」し、イワンは即座に削岩機を横に薙いだ。
ミルズは咄嗟に深く膝を折ってその暴威を潜り抜けると、剥き出しの右壁を強く蹴りつけた。
反動を利用して斜め後方へと滑り込み、イワンの正面から最短距離で離脱する。
先端が配管を次々と粉砕し、逃げ場のない通路に高圧蒸気が荒れ狂う。
(……クソ、派手に暴れやがって! このまま主幹パイプをいわせられたら、バルブを閉じる前に地下ごと吹き飛ぶぞ……!)
視界を真っ白に染め上げる熱気の中、着地したミルズは、痺れる右拳を固く握り直す。
焦燥を押し殺して標的を探る。
「どうした!守るべき『豚共』が上にいるから、思い切って戦えんか!」
「……あの上品な豚共と、俺が仲良しに見えたかよ。」
低く着地した姿勢のまま、伏せられた睫毛の隙間から、剣呑な光を孕んだ瞳がイワンを射抜いた。その色は、熟しすぎた果実のようにどろりと濃く、昏い。
床を揺らす削岩機の震動が、背後の壁で悲鳴を上げる「冷却水配管」の限界を告げていた。
一歩踏み出すごとに意識が飛びそうになる。それを奥歯が砕けるほど噛み締めて繋ぎ止め、ミルズは標的を見据えた。もう、何度も動き回る予備の体力など残っていない。次の一撃にすべてを懸ける。
継ぎ手を一瞥するなり、ミルズは弾かれたように地を蹴った。
それを見下ろし、イワンが醜悪な笑みを浮かべて吐き捨てる。
「死に急ぎおって……!」
迎撃に動く肉壁を、ミルズは独楽のように滑り抜けて背後へ。狙いは、限界を告げていた冷却水のジョイントだ。全体重を乗せた掌打が、震える鉄を真っ向から撃ち抜いた。
――バキィィィン!!
破裂した配管から超低温の冷却が噴き出し、狂った蒸気とイワンの削岩機へ降り注ぐ。
「――何ッ!?」
ジュゥゥゥッ!!!
鼓膜を刺す悲鳴が地下に轟き、爆発的な白煙が視界を奪い去った。
熱せられた鋼が悲鳴を上げ、急激な冷却に駆動部がガチリと噛み合う。
全力で振り抜こうとした削岩機が急停止し、イワンの巨躯は凄まじい慣性に引きずられるように、前方のめりに出た。その隙を、ミルズは見逃さない。
突進してくるイワンの腕を捕らえ、その勢いを利用し、進路だけを強引にバルブへと逸らす。
制御を失った人間ハンマーと化したイワンを、ミルズはそのまま叩きつけた。
ガツゥゥゥン!!
激突の衝撃が地下を揺らし、イワンの巨躯が、真鍮の軸をへし折らんばかりの勢いでバルブを押し込んだ。二度と開かぬほど、歪んだ金属同士が噛み合い固く閉ざされる。
同時に、配管の奥で渦巻いていた圧力が逃げ場を失い、断末魔のような音を立てて静まり返った。
「……ガ、はあぁッ……!!」
正面からバルブに叩きつけられたイワンが、膝から崩れ落ちる。へし折れた継ぎ手から、残滓のような蒸気が力なく足元を這った。
地上の拡声器へと続く「狂気の供給」が、完全に断たれた瞬間だった。
「……過去の亡霊は、地下で眠ってな」
ミルズは息を切らしながら、意識を失ったイワンをワイヤーで拘束し、壁際の配管へと縛り付けた。
指先がガタガタと震え、視界はどろりと濁っている。アドレナリンで麻痺させていた感覚が、一秒ごとに剥がれ落ちていく。
ふと、思い出したように胸ポケットへ手をやる。
布越しに「それ」の無事を確かめると、一度だけ深く、安堵を飲み込むように頷いた。
(……壊れてねえか。ならいい)
彼は震える手でポケットからサングラスを取り出すと、わずかに歪んだ蔓を慎重に正し、馴染みのある暗闇をまとうように顔にかけた。
耳朶を挟むテンプル(蔓)の先から、微かな電子音と、待機状態を示すごく小さなノイズが鼓膜へ伝わってくる。
外界の光を遮る黒いレンズが、戦いを見届けた昏い瞳を覆い隠す。彼は一度だけレンズの奥で目を閉じ、それから脇腹の痛みに顔を歪めて立ち上がった。
「……ッ、……食らった代償が、高くついたな。」
削岩機のあの一撃。防弾繊維越しに、少しは衝撃を殺せたつもりだったが、肋骨の一本や二本は持っていかれたらしい。呼吸を深く吸い込もうとすると、肺が圧迫されるような鈍い痛みが走り、思うように力が入らない。
ミルズは溢れそうになる脂汗を乱暴に拭うと、壁に手をついて身体を支えた。身体を丸めていればまだマシだが、直立して歩くとなればこの痛みは厄介だ。
彼は脇腹を庇うように抱え、一歩ずつ、確実に地上の出口へと足を進めた。
辿り着いた階段の登り口。手摺りの隙間に、見覚えのある「樫」の木目が挟まっている。
(爆風でここまで飛ばされたのか。……まあ、今の俺にはちょうどいい「足」だ)
ミルズはそれを引き抜き、突き立てた。
これがあれば、少しは速度を上げられる。
彼は杖に体重を預け、痛みを意識の底へ追いやりながら、一気に地上への階段を駆け上がり始めた。
「……待ってろ、フェリクス。……俺が行くまで、勝手にくたばるんじゃねえぞ。」
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世界から、音が消えた。
暴力的な嵐が去った後のホールで、マエストロは宙を舞うタクトをぴたりと止めたり
返ってくるのは、耳を刺すような、あまりにも無機質な静寂だけだった。
「…………あぁ。音が、死んだ。」
彼は祈るように、再びゆっくりとタクトを振り下ろした。だが、そこからはフェリクスの脳を焼く高周波も、大気を震わせる衝撃も放たれない。
地下の心臓部をミルズが物理的に叩き壊したことで、マエストロの「旋律」は、永遠にその呼吸を止めたのだ。
「なぜだ。……なぜ、終止線の前に、神は沈黙を選んだ……?」
乱れた白衣も気に留めず、彼はただ、音の消えた空間を虚ろな瞳で見つめた。
それは心血を注いだ楽譜を、目の前で真っ白に塗り潰された芸術家のような、完成された絶望だった。
ホールを支配していた絶対的な秩序が、音もなく、砂の城のように崩れ去っていく。
『――お兄ちゃん!! 繋がった……! ミルズさんが、心臓部を止めてくれたよ!』
鼓膜を削っていた暴力的な音に代わって流れ込んできたのは、涙に濡れた妹の叫びだった。
フェリクスは血を吐き捨て、歪んだ口元をわずかに吊り上げる。
「……ああ、聞こえてるよ。フェイ。」
フェリクスは、熱を帯びたリューズから自らの意志で指を離した。
もう、怪物をその身に留め続ける必要はない。
ノックスが暴れ回った後の肉体は、焼き切れた回路のように熱く、重い。
三半規管をかき回す音響攻撃の残響と、先ほどまで自分の腕に宿っていた「殺意」の感触が、吐き気を催すほど生々しく残っている。
だが、ミルズが命懸けで繋いだ「静寂」が、彼の魂を現世へと繋ぎ止めている。
「……音楽の時間は終わりだ、博士。」
マエストロはよろめき、何も掴めぬまま空を掻いて、床に膝をついた。理想の音が消え去った静寂の中で、彼の瞳からは急速に光が失われていく。
「……ええ。実に、耐え難いーー静音だ。」
マエストロは、音を失った抜け殻のような瞳で、フェリクスを見ることさえやめた。
彼は取り憑かれたような手つきで懐から小型拳銃を抜き放つと、迷うことなくその銃口を自らの顎下へと突き付けた。
「この不協和音だらけな世界で生きるくらいなら、君たちの届かない『完璧な静寂』へ先に行くとしましょう。……私の人生の、――終止符です。」
引き金にかけられた指が、ゆっくりと絞られる。
その刹那。
「……勝手に、終わらせるな……っ!」
視界を覆う血を拭う暇もなく、フェリクスは地面を這うようにして飛び出した。
重い鉛のような体を無理やり動かし、マエストロの細い手首を掴み取る。
焼き切れた神経が、脳に「拒絶」の悲鳴を上げた。 自らの指先を焦がし、魂を削り取っていくような錯覚に襲われる。
「……ぐ、ぁ……っ」
激痛に顔を歪めながらも、フェリクスは離さなかった。無理やりその腕を捻り上げ、拳銃を床へと叩き落とす。
カラン、と虚しい音を立てて銃が遠ざかるのと同時に、フェリクスはマエストロを床にねじ伏せるようにして、その胸ぐらを掴み寄せた。
視界はひどく歪み、吐き気を催すほどの眩暈が襲う。それでもフェリクスは、至近距離でマエストロの顔を捉えて離さなかった。
「死んで逃げるなんて、……そんな終わり方は、貴方には相応しくない。」
フェリクスは血の混じった息を吐き出し、一文字ずつ、逃げ場を断つための呪いとして告げる。
「……不協和音だらけのこの世界で、その罪を数えながら、死ぬまで生きてください。……それが、僕が貴方に与える罰だ。」
マエストロが驚愕に目を見開いた。
それは慈悲などでは断じてない。「死による完成」を何よりの美徳とする芸術家から、その幕引きを永遠に奪い去る、残酷なまでの刑罰の宣告だった。
フェリクスは残された全ての力を拳に込め、震える右拳で老人の顎を打ち抜いた。
それはかつての「人殺しの道具」としての洗練された一撃ではなく、ただ泥臭く、必死な、「人間」としての拒絶だった。
脳を揺らされたマエストロの瞳が、急速に焦点を失い白濁し、糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。
静かになった大理石の床の上、フェリクスは赤く腫れた自分の拳を、慈しむように見つめた。
じくじくと脈打つその熱だけが、狂気の霧が晴れた後のホールに、彼を繋ぎ止めていた。
フェリクスはゆっくりと拳を解き、熱を帯びた掌を床についた。
――もう、大丈夫だ。
その時、ホールの隅にある地下階段の扉が重く軋んだ。
フェリクスが顔を向けるより早く、煤と油にまみれたミルズが、脇腹を抱えながら現れる。
「……フェリクス!」
階段脇の柱に手を突き、荒い呼吸を整えながら、ミルズは相棒の背中を視界に捉えた。
その瞬間、脇腹を焼くような鈍痛も、引きずるような足の重さも、意識の端へと追いやられた。
彼は杖を強く突き、前のめりになりながら一歩ずつ、確実に距離を詰めていく。
「おい、フェリクス! 無事か……ッ!」
相棒のすぐ側まで辿り着いた瞬間、支えにしていた杖が床に転がった。
ミルズは耐えきれなくなったようにその場に膝をつき、倒れ込むような勢いでフェリクスの肩を掴んだ。
掌から伝わる激しい鼓動と体温。それに触れて初めて、ミルズは自分の肺がまともに空気を吸い込めるようになったのを感じた。
「ああ、ミルズ。……君こそ、ひどい怪我だ」
フェリクスは小刻みに震える腕で床を支え、ゆっくりと顔を上げた。耳からはまだ血が滲み、琥珀色の瞳は焦点が定まっていない。それでも彼は無理に微笑もうとして頭に顔をしかめた。
「……止めてくれたんだね。助かった、ありがとう」
その鋭い「痛み」こそが、自分が「怪物」と共犯関係を結び、生身の人間としてここに踏み止まっている証だった。
肺が酸素を求め、極限まで使い果たした身体の細胞が、悲鳴のような乾きを訴え始める。
「最悪だ。……猛烈に、腹が減った」
その一言に、ミルズは呆れたように鼻を鳴らした。
「……違いねえ。シチューでも食わなきゃやってられん。……フェイ、聞こえるか? 『英雄』様のご帰還だ。夕飯の準備は任せる。」
『――うん!! お兄ちゃん、ミルズさん、おかえりなさい!!』
通信機越しに響く、泣き笑いが混じった、不揃いな歓喜の声。
フェリクスは、ミルズが差し出した無骨な手を取り、軋む身体を無理やり引き起こした。
立ち上がった瞬間、ミルズの顔が苦痛に歪み、身体がわずかに右側へと傾く。骨折した脇腹が、容赦なくその肉体を悲鳴の渦へと引きずり込もうとしていた。
ミルズは吐き出すような溜息をつくと、足元に転がっていた杖を拾い上げ、震える手でそれを強く握った。だが、杖一本で支えられる限界はとうに超えている。
それを見透かしたように、フェリクスが迷わずミルズの懐へと踏み込んだ。
自分より数センチほど低いミルズの視線を、琥珀色の瞳が正面から射抜く。フェリクスは負傷した脇腹を刺激しないよう、ミルズの左腕を自らの首の後ろへ力強く回させた。
「……っ、フェリクス、お前……」
「いいから、預けて。……君が一人で耐えてきた泥を半分もらうって、言っただろう?」
フェリクスはその長身をわずかに屈め、倒れ込もうとするミルズの身体を自分の肩でしっかりと受け止めた。
ミルズは一瞬だけ躊躇するように瞳を揺らしたが、やがて諦めたように鼻を鳴らし、相棒の確かな熱へと深く身を預けた。
一人は杖を突き、一人はその肩を貸して。
二人は互いの痛みを肌で感じ合いながら、ゆっくりと、一歩ずつ出口へ向かって歩き出す。
豪華絢爛なホールの照明が、その不格好で、泥臭い背中を静かに照らし出していた。
マエストロが求めた完璧な調律など、もうどこにもない。
響くのは、重なり合い、不器用に刻まれる二人の足音。
それが、彼らが命を懸けて守り抜いた、ひどく不器用で、愛おしい世界の音だった。




