14話
ミルズは手探りで壁面の剥き出しになった蒸気パイプの裏側、断熱材が僅かに綻びている箇所に指をかけた。
カチリ、と小さな手応え。
指先に触れたのは、潜入前に仕込んでおいた馴染みの相棒。重厚な鋼鉄の感触が、ミルズの掌に「仕事」の始まりを告げた。
「……変装のために、正面から持ち込むのは諦めたが。これがないと、収まりが悪い。」
ミルズは馴染んだグリップの感触を指に覚え込ませるように一度強く握り、続けてずっしりとしたレンチを腰のベルトへと差し込んだ。地上での狂乱が嘘のように、ここには巨大な機械音と、配管から漏れ出る蒸気の吐息だけが満ちていた。
「……ここか。フェイ、目的の分岐バルブは?」
壁際を走る無数の配管へと視線を走らせるが、継ぎ目から絶え間なく吹き出す白濁した帳が行く手を阻む。レンズを介さない視界は、視界を埋め尽くす熱気の壁をより鮮明に突きつけてくる。
足元の金網の先、数メートル下の溝では、汚水がどろりとした気泡を上げ、泥のように跳ねている。もし足を滑らせれば、悲鳴を上げる暇もなく茹で上がることだろう。
『ミルズさん、……地……通信が……ッ!』
耳元で、鼓膜を突き刺すような電子ノイズが上がった。フェイの焦燥に満ちた声は、地下を覆う岩盤と電磁波に遮られ、無残に途切れていく。
『……上を見て……! 天井の……「銀の蔦」が……ガイドライン……っ! 壁を降りて……床に潜る……場所……! その……、真鍮バルブを……!!』
砂嵐が最後の一言を呑み込み、完全な静寂が訪れた。
ミルズは耳元のつるを指でなぞり、わずかに迷ってからそれを外した。
(……これ以上は、ただの重りか)
ミルズはサングラスを胸ポケットの奥へと丁寧に滑り込ませた。壊せば、次はどんな余計な機能を盛られるか分かったもんじゃない。
煤けた天井に目を凝らし、白濁した蒸気の向こう、這い回る無数の配管の中に、一際異質な鈍い光を放つ「銀の蔦」のレリーフを見つけた。
蔦の装飾は壁に沿って垂直に降り、迷路のような配管の隙間を縫って、床下へと潜り込んでいる。その終着点、床に消える直前のジョイントが、一箇所だけ不自然に膨らんでいた。
「……ここだな……」
右手にレンチ、左手に回収したばかりの仕込み杖。
標的は壁際、白濁した渦の向こうで鈍く光る真鍮バルブだ。周囲を覆う高圧蒸気は、触れる端から肉を焼く熱を帯びている。
ミルズは迷わずレンチの顎をバルブへ食い込ませ、その穴に杖の柄を力任せに突き通した。即席のレバーが、鉄と鉄が噛み合う不吉な音を立てる。
一気に全体重を、その一点へと叩き込んだ。
――ギギッ……!
真鍮が身を切るような金属音を立て、狂った脈動を繰り返していた「血管」が、数ミリ、ミルズの腕に屈した。
その確かな手応えが指先に伝わった、まさにその時だ。背後の蒸気の壁が、暴力的な衝撃波によって無残に引き裂かれた。
「――相変わらず、こそこそと『汚い仕事』が得意だな、西国の犬め。」
逃げ場のない地下通路に、憎悪を孕んだ咆哮が響く。バルブに全体重を預けていたミルズに、それを躱す術はなかった。
――ッ、ガッ!!
横腹を抉るような、鈍い衝撃。
削岩機の先端が防弾繊維を食い破らんばかりにめり込み、内臓が裏返るような震動が突き抜ける。
吹き飛んだ視界が、猛烈に渦巻く白一色の混沌に呑み込まれ、次いで硬質な真鍮の壁に塗り潰された。
「ガ、は……っ……!」
背中を焼く蒸気パイプの熱と、肺を握りつぶされるような圧迫感。
反射的に掴んでいたパイプレンチが、火花を散らして手元から弾け飛ぶ。
――キン、コン……。
抗う術もなく、レンチは金網の隙間へと吸い込まれた。煮え返る汚水の闇が、それを一飲みにして沈黙する。
「しまっ……!」
咄嗟に手を伸ばそうとした指先を、次なる重い一撃が襲う。間一髪で身を翻したが、その勢いで左手の仕込み杖までもが配管の奥へと弾け飛び、愛用の杖が闇に消える。
一瞬にして、ミルズの手元からすべての「道具」が消えた。
「ハッ……ハハッ、無様だな。牙を抜かれた細工師に、一体何ができる?その脇腹、まともに立っていることすら奇跡だろう!」
野太い声が響く。
「……ああ、おかげで……嫌でも目が覚めたよ。」
ミルズは不敵に口角を上げた。けれどその笑みは、激痛に意識を奪われまいとする、歪な強がりに過ぎない。
一呼吸ごとに肺を焼く熱気。脇腹を抉る鈍痛。
レバー代わりの杖を失った今、あの灼熱の真鍮バルブを回す手段は、もはや「素手」しか残されていない。骨まで焼き付くリスクを考えれば、プロとして避けるべき下策だ。
(……チッ。杖、結構気に入ってたんだがな)
……しかし、それを惜しむ暇すら激痛が許さない。
道具を失ったのは計算外だ。けれど、目的を失ったわけじゃない。使えるものがなくなったなら、自分の肉体を「代用品」にするだけだ。
「……牙を抜かれた、か。残念だったな。」
ミルズは親指の腹で口端の赤を拭い、その熱を冷めた目で見つめた。
痛みを強引に意識の隅へ追いやり、剥き出しになった敵意で巨漢を射抜く。
「俺たちみたいな手合いはな……手元に何もありゃしねえ時ほど、いい『仕事』をするんだよ。……デカブツ。」
霧が晴れるように現れたのは、顔の左半分を凄惨な焼痕で覆われた巨漢、イワン・ペトロフだった。
軍隊で「動く防壁」と称されたその巨躯は、狭い地下通路を完全に塞いでいる。軍靴が床を踏みしめるたびに鉄製の足場がひしゃげ、その重苦しい振動がミルズの爪先まで伝わってきた。
「……イワン、か。……生存者はゼロだと聞いていたが。」
ミルズは言葉を切り、せり上がってきた鉄錆の味を床へ吐き捨てると、皮肉たっぷりに唇を歪めた。
「……幽霊にしては、随分と耳に障る声じゃねえか。」
肺を焼く熱気と、脇腹から突き刺すような激痛。呼吸を一つ刻むたび、砕けた肋骨の破片が内臓をなぞるような錯覚に視界が火花を散らす。
「死ねるはずがなかろう! 仲間の断末魔、崩れ落ちる城壁、そして、あの琥珀色の瞳をした死神が、隣にいた同胞の喉元を音もなく裂いていく光景! すべてが俺の脳裏に焼き付いて離れんのだ!!」
イワンは不気味な笑みを浮かべ、巨大な削岩機を床に叩きつけた。ガツン、と重苦しい振動が地下に響く。
「フェリクスが守ろうとするこの和平の舞台を、奴の仲間もろとも瓦礫の山に変えてやる。貴様も、あの死神も、まとめてこのパノプティコンの礎になれ!」
ガガガガガガッ!!!
咆哮と共に、削岩機のドリルが狂ったように回転を始めた。
ドリルが狙うのはミルズの身体ではない。その先にある、エネルギー供給の基幹パイプだ。金属が削れる断末魔じみた不協和音が反響し、床板が軋み、耐えかねた鉄骨が重低音を立てて撓み始める。
(……このイカレ野郎、施設ごと自爆する気か!)
噴き出す高圧蒸気が真っ白な虚無となって視界を覆い尽くす。熱気に肺を焼かれ、その白さが意識の端から少しずつ現実を削り取っていく。
それでも、ミルズは混濁する意識の中、轟音に混ざる「音」を聴いていた。
ガリッ。
ドリルが外壁を突き破り、エネルギーが暴走を始める予兆の音。
ミルズは蒸気の隙間を縫い、イワンの巨体へと肉薄した。武器などいらない。地上で死を待つ相棒に、この「静寂」を届ける。その執念だけが、ミルズの身体を巨躯へと突き動かした。
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通信機からは、フェイの声すら届かない。聞こえるのは、鼓膜を削るような無機質なノイズだけだ。
ジリ、ジリ……。
二回目のリューズが引き抜かれ、フェリクスの琥珀色の瞳から光が消えた。
ノックスは、最短距離でマエストロへと牙を剥く。
立ちはだかる警備兵の増援。彼はその包囲網を嘲笑うような速度で駆け抜け、ナイフの石突で鳩尾を貫き、関節を極め、一人、また一人と「生かしたまま」床に転がしていく。
「殺す方がよっぽど楽だぜ……ッ! 羽虫みたいに湧きやがって……!」
最短の殺害ルートを描きかけた思考が、内側から掻き乱される。
(……させない。僕たちの手は、これ以上汚させない)
反吐が出るほど高潔な「あいつ」の声が脳を焼き、指先の精度を狂わせる。
ノックスは忌々しげに舌打ちし、弾き出された急所への軌道をあえて逸らした。寄ってくる肉の壁を、叩き伏せる。
マエストロまで、あと数歩。
あいにく、その殺戮の射線上に、腰を抜かして座り込む給仕の少女がいた。
恐怖に顔を強張らせ、銀盆を抱きしめたまま動けないガキ。ノックスにとって、それは排除すべき路傍の石に過ぎない。
(……まずい、逃げ遅れた子がいる!ノックス、止まれ、あの子を助けないと!!)
脳内に響くフェリクスの悲鳴。心臓を直接掴まれたような不快な共鳴に、ノックスは踏み出した足を削り取られるように止めた。
「……チッ、クソ甘ちゃんが!」
ノックスは獲物への最短ルートを吐き捨てるように放棄し、落下するシャンデリアの影へと強引に軌道を捻じ曲げた。
当のマエストロは、その光景を冷淡に一瞥するのみだった。
「……やはり、君も『不治の病(情愛)』に冒されていましたか。」
失望を口にするよりも早く、マエストロはカルテを閉じるような無機質な動作でタクトの先端で一点を指し示した。
「全人類の調和を乱すノイズは、ここで消去しましょう。」
放たれた高周波の槍が、少女へ肉薄するノックスの真上――巨大なクリスタル・シャンデリアの接合部を正確に貫く。
パキィィィン!!
硬質な破壊音が響き、数トンの光の塊が、重力に従って加速する。
その絶望的な音の隙間に、滑り込むようにして「彼女」の声が届いた。
『……お兄ちゃん、お願い……誰も殺さないで……っ!』
絶望的な崩落の音を、フェイの祈りが塗り替えた。
ノックスは、喉笛へ届くはずだった「怪物の時間」を完全に投げ捨て、摩擦で大理石の床を焼きながら、落下するシャンデリアの真下へ弾丸のように滑り込む。
少女の細い身体を抱き寄せ、鏡面のような床を蹴り抜いて柱の陰へ――。
ガシャアァァァン!!!
背後で世界が砕けるような破壊音が轟いた。
「……死にたくなきゃ、あっちへ転がってろ。」
少女を柱の影へ乱暴に突き飛ばし、ノックスは立ち上がった。背中にはクリスタルの破片が突き刺さっているが、眉一つ動かさない。
「……満足かよフェリクス。おかげで獲物の喉笛が遠のいたぜ。」
足元に広がるシャンデリアの無惨な残骸を挟み、マエストロは予想外の光景に不快そうに眉を潜め、再びノックスへとタクトを静かに向けた。
「……不可解ですね。大義を成すためのプロセスにおいて、小事は切り捨てるべきだ。なぜゴミを拾うのです?」
自らの放った一撃が、何の罪もない少女を押し潰そうとした。その事実を、彼は「理解」した上で、文字通り塵ほども価値を認めていないのだ。
数千人の精神を安定させるという目的の前では、一人の子供の命など、計算式の端数にも満たないのだろう。
「ああ、不可解だろうな。……テメエの腐った耳には、このガキの悲鳴すら聞こえねえんだからよ。」
ノックスは口内の鉄錆を吐き捨て、獲物の頸を狩り取る獣の視線でマエストロを射抜いた。
「『平和』だの『芸術』だの……足元のガキ一人見えてねえ盲目のクソ野郎が、デカい口叩いてんじゃねえよ。今すぐその喉笛かっ捌いて、永遠に黙らせてやる。不協和音が消えて、さぞかし『完璧』な曲になるだろうぜ?」
リューズを回しすぎた代償か。あるいは、内側で激しく衝突する二つの意志に、肉体が臨界点を超えて軋みを上げているのか。
シャンデリアの破片が掠めた唇に滲む赤を舌でなぞり、ノックスは喉の奥で低く笑った。獲物を追い詰めた愉悦が、その瞳に濁った光を宿している
マエストロの相貌に刻まれたのは恐怖ではなく、診察記録を埋めるような、冷徹で恍惚とした悦びだった。
「怒り、憎しみ、暴力……。素晴らしい。それこそが、旧人類が抱え続ける『不治の病』の典型的な症例です。私の調律がいかに必要か、君自身のその叫びが証明している。」
彼は歪な笑みを浮かべ、震える手で空を切るように銀の指揮棒を横に薙いだ。ノックスの怒りさえも、彼は「治療が必要な患者の断末魔」として、自らの曲を飾る心地よい不協和音へ変換し、消費していた。
操られた肉の壁が津波のように押し寄せる中、ノックスは再び逃げ場のない中央舞台へと躍り出た。
血に濡れたナイフを握り直し、膝をつきそうな自分を精神力だけで立たせる。
不意に、視界を覆っていた真っ赤なノイズが弾けた。「怪物」の仮面が剥がれ落ちた瞬間、せき止めていた全身の激痛が、鋭い現実となってフェリクスを貫く。
彼はじくじくと脈打つ傷口の痛みを、今ここに生きている証として深く噛み締め、静かに、だが決して折れない視線を上げた。
熱を持ったリューズが指の皮を焼き、再び回ることを拒んでいる。……強制的な静寂。あと数回、心臓が鼓動を刻む間だけ耐えれば、再び地獄の扉が開く。
一歩。死神の足音が、すぐ後ろまで迫っている。
先頭の男が振り下ろした刀を、フェリクスは最小限の動きでかわす。傷だらけの骨ばった指先が震え、ナイフを取り落としそうになるのを執念で堪え、男の肘の急所を的確に突いた。
また一歩。酸素を拒むように喉が灼け、視界の端が暗く欠け始める。
左右から同時に迫る刃。フェリクスは地を這うような低い姿勢でそれを潜り抜け、すれ違いざまに二人の膝裏をナイフの「峰」で捉える。「怪物」であれば、迷わずその喉笛を掻き切っていただろう。だが、フェリクスにとって、彼らは操られているだけの「生身の人間」だ。
マエストロが放つ高周波が一段と鋭さを増す。
鼓膜の奥で針が暴れ回るような高音が、フェリクスの三半規管を無慈悲に掻き乱した。視界が激しく点滅し、重力の方向さえもが白濁したノイズの中に溶けて消えていく。
その隙を突いて、背後から迫った男が儀礼刀を突き出した。
フェリクスは反射的に身体を捻った。刃が脇腹を掠め、上着を裂く。
彼は痛みを無視し、男の腕を掴むと、そのまま関節を極めて床に抑え込んだ。
死神の鎌が、首筋に冷たく触れた。
後続の三人が、動けないフェリクスを目がけて一斉に刀を振り下ろす。
脳裏の深層、怪物の冷徹な声が、鋭く囁いた。
(――盾にしろ。あるいは一人殺して隙を作れ)
それでも、フェリクスはその真っ赤な誘惑を真っ向から跳ね除けた。抑え込んでいた男を死地から突き飛ばして逃がすと、自らは床を転がり、背後で荒れ狂う刃の嵐を間一髪で回避した。
膝の震えが止まらない。生身の限界を、剥き出しの殺意が包囲する。
フェリクスは震える指先で口元の汚れを払い、血の味のする熱い呼気をゆっくりと吐き出した。乱れた鼓動を精神の力だけでねじ伏せ、濁りのない琥珀色の瞳で、マエストロを真っ直ぐに見据える。
フェリクスは、血に濡れた指で三度目のリューズを掴んだ。……再起動まであと一秒。無情にも、マエストロのタクトが振り下ろされるのは、そのコンマ数秒前だ。
「……フェイ、ごめん。……次で、終わらせる」
琥珀色の瞳から限界を告げる一筋の赤が零れる。
魂を死神に差し出す覚悟でリューズに指をかけた、その時だ。
――ガリッ!!!
床下から、巨大な金属が噛み合い、何かが決定的に「破壊」された絶望的な音がホール全体を震わせた。
同時に、フェリクスを取り囲んでいた警備員たちの瞳から濁った光が消え、彼らは糸の切れた人形のようにその場に膝をついた。
「……ハ、……ミルズ、いい仕事だ……」
フェリクスは肺を軋ませて熱い吐息を溢れさせ、自らの意志でリューズから指を離した。
静寂。
それは死神の静寂ではなく、相棒が命懸けで繋いだ「勝利への沈黙」だった。




