英雄譚 怪物が生まれた
【記録者:西国北方軍管区 参謀本部】
事案:
旧城跡における和平交渉急襲および要人救出作戦
概要:
停戦交渉の最中、東国強硬派による武装蜂起が発生。我が方の要人護衛部隊は孤立した。
壊滅的状況下において、フェリクス・アーネスト少尉(当時)が単独で後方支援に志願。
戦果:
少尉は閉鎖空間における白兵戦および近接射撃を駆使し、敵追撃大隊の足止めに成功。
要人一行は無傷で撤退を完了した。
評価:
まさに不屈の精神。
彼は返り血で軍服を染めながらも、友軍が戻るまで一歩も引かず、城の回廊を「鉄壁の城塞」へと変えた。
彼こそは我が国の平和を守り抜いた『救国の聖盾』であり、自由の象徴として永劫に語り継がれるべき英雄である。
最終報告:
アーネスト少尉は要人脱出後も、殿として敵大隊を殲滅。しかし、増援が到着した際、少尉は激しい戦闘による精神壊乱状態にあり、搬送先の野戦病院にて『過剰な戦闘ストレスによる心不全』により死亡。
備考:
遺体は家族の希望により密かに埋葬された。本件は少尉の栄誉を鑑み、精神壊乱の事実は伏せ、戦傷死として全軍に布告するものとする。
【掲載元:東国帝都日報 号外】
見出し:
忌まわしき「古城の惨劇」――西国の狂犬、牙を剥く
本文:
三年前の和平交渉において、我らが同胞は非道な裏切りに遭った。西国の士官、フェリクスなる男は、投降の意思を示した我が兵士たちをも無慈悲に蹂躙。
銃床が砕けるまで頭部を叩きつけ、死体を積み上げて回廊を埋め尽くしたという。
その様は人間ではなく、地獄から這い出た『血塗られた処刑人』そのものであった。
我が国の平和な未来を、その血まみれの手で引き裂いた狂犬を、我々は決して許さない。この憎しみこそが、次なる正義の糧となるのだ。
【三年前の残響:キッチンテーブルでの対話】
深夜。ミルズ時計店の二階にあるキッチンは、換気扇の低い唸りと、琥珀色のウィスキーを満たしたグラスの音だけが支配していた。
すぐ隣の部屋では、今日一日の緊張から解放されたフェイが、泥のように眠っている。
ミルズは二人の間に広げた古びた新聞と、色褪せた西国軍の『救出作戦完了報告書』を無造作に広げた。 東国に潜伏した初日から、嫌というほど目にしてきた歪んだ真実の数々だ。
カツン、とミルズがその紙を中指で弾いた。安物の再生紙はテーブルの上を滑り、フェリクスの手元で力なく止まる。その乾いた音が、静まり返ったキッチンに場違いに響いた。
「……救国の聖盾、に、東国の処刑人か。世間様はずいぶんとデタラメなラベルを貼りやがる。……なぁ、フェリクス。お前、これを見てどう思う。」
フェリクスは、卓上に滑り込んできた歪んだ真実の数々を、ただ静かに眺めていた。琥珀色の瞳には、それらは自分とは無関係な、遠い異国の歴史書のように映っている。
「……僕は、そのどちらの名前を受け取れないよ。」
いや、英雄という光にも、処刑人という闇にも、自分の居場所はない。フェリクスは、空虚な声でそう零した(こぼした)。
「……ここで幸せを感じるたびに思うんだ。……多くの喉を掻き切ってきた指が、どうしてまだ、こんなに柔らかいままなんだろうって。……僕はもう、人生の良心を全部、あの戦場に置いてきた人間だ。」
フェリクスはテーブルの向かい側で、置かれたバゲットの端を黙って千切った。琥珀色の瞳は、アルコールの熱により、今は穏やかに揺れている。
「……ああ、その通りだ。」
ミルズは磨きかけの時計をテーブルに置き、ゆっくりと言葉を紡いだ。喉を鳴らすようにしてグラスを煽り、親友の瞳を真っ向から射抜く。
「お前は、妹と『一緒にご飯を食べる朝』を守るために、自分の中の怪物を共犯者としてともに地獄を歩くと決めた……最高に狂った『人間』だ。」
彼は吐き捨てるように言葉を放ち、自分のグラスを突き出し、フェリクスの手元にあるそれに、硬い音を立ててカツンと当てた。
衝撃に、フェリクスのグラスの中で溶けかけていた氷が小さく跳ね、水面に鈍い波紋を作る。
フェリクスは力なく笑い、自分の側頭部を指先で軽く叩いた。
「脳の奥で、何かが噛み合う音がしたんだ。俺の代わりに引き金を弾き、『効率』を計算する。……あの日、あの城で、俺の中に『怪物』が生まれたんだ。」
フェリクスの告白に、グラスを握る指先が微かに震え、視界の端でウィスキーが微かに揺れた。
『……フン、狂った人間、か。』
脳の最深部から、自分自身の声を極限まで凍らせたような、冷徹な響きが返ってくる。それは拒絶ではなく、奇妙に納得したような、低い嘲笑だった。
「……お前が怪物になったのは、お前の意志だろ。だったら、その責任は最後まで人間として取れ。……その泥なら、俺も半分持ってやるって言ったはずだ。」
ミルズは、置いていたその銀時計を再び掴むと、蓋をカチリと閉め、それをテーブルの向かい側にいるフェリクスの前へと突き出した。
「世界中を敵に回してでも、妹を寝かしつける平和な夜を守ろうとした……その『狂気』こそが、お前を人間たらしめてるんだよ。」
ミルズは断定し、グラスを煽った。
その言葉を遮るように、フェリクスの脳内で、ひどく不機嫌そうな彼の声が響いた。
『……ハッ、正気じゃねえのはどっちだ。泥を半分持つだと? ……笑わせるな、時計屋。俺が啜ってきた泥の味が、そんなに美味そうに見えたかよ。』
効率と殺戮を司る怪物の刃を、ミルズは無神経な言葉で「人間」という名の泥の中へ引きずり戻そうとしている。ノックスにとって、それは平穏を侵す不躾な介入でしかなかった。
『……だが、まぁいい。……せいぜい、泥の重さで潰れねえように踏ん張ってもらうこった。……お前が壊れた時、代わりにそいつの喉元を掻き切ってやる楽しみが増えたと思えば、悪くねえ。』
言葉とは裏腹に、ノックスの気配からは先ほどまでの刺すような殺気が消え、ひどく落ち着いた「共犯」の響きが混じっていた。
彼はあえて意識の奥へと背を向けるようにして、フェリクスの視界から消える。
(……あぁ、そうだな。……ノックス。お前も、ミルズも……僕を一人にはしてくれないんだな)
フェリクスは、喉元を焼くようなウィスキーを一口飲み込んだ。
かつてはドブ泥の味しかしなかったその液体が、今は少しだけ、夜の静寂に馴染む温かさを持って、空っぽの胸の奥へと落ちていった。
「……そうだな。……誰もが俺を『死者』として片付けようとした中で、俺を『フェリクス・ベルガー』として探し出してくれたのは、フェイとお前だけだった。……感謝してるよ、ミルズ」
フェリクスは短く答え、残りのウィスキーを飲み干した。
三年前、公式記録から消えた「ベルガー」の名。
西国は彼を「聖盾」として担ぎ上げ、東国は「処刑人」として指名手配した。
「……この時計、大事にするよ。……僕であることを忘れないための、重石として。」
ミルズの不機嫌そうな鼻笑いがかき消す。
「へっ、重すぎてゼンマイが止まらねえように気をつけろよ。……あとの修理代は高くつくからな。」
フェリクスは、手渡された銀時計の表面を、指でそっとなぞった。
フェリクスが銀時計を愛おしそうに眺め、自分のポケットに収めようとした、その時だった。
向かい側に座っていたミルズが、ふいと身を乗り出し、テーブル越しにフェリクスの手元へ指を伸ばした。
「……待て。やっぱり、進角の調整が気に入らねえ。一晩寝かせりゃ、また僅かに狂いが出るかもしれねえからな。」
ミルズはぶっきらぼうに時計を取り返すと、そのまま自分の胸ポケットへと無造作に放り込んだ。
フェリクスは、一瞬だけ、掴んでいた熱が消えた手のひらを虚空に彷徨わせた。だが、すぐに小さく息を吐き、苦笑を浮かべる。
「……あぁ、そうだったな。お前の『完璧』には、一生かかっても追いつけそうにない。」
「朝、店を開ける前に一階で完璧にしてやる。もう少し預かるぞ。」
窓の外はまだ深い闇に包まれ、換気扇の唸る音だけが、二人の間に流れる穏やかな沈黙を埋めた。
数時間後、夜が明ければ、また「ただの兄」として、パンの香りに包まれる時間が始まる。
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静まり返ったキッチンで、フェリクスはふと、視線をミルズへと移した。
今の自分と、自分の中に巣食う「怪物」の間に、絶対的な境界線を引き、自分を繋ぎ止めてくれているのは、耳元で微かに冷たい感触を放つイヤーカフだ。
フェイが一生懸命に作ってくれた、世界に一つだけの守り刀。
その価値を誰よりも理解し、今の自分を「人間」として扱い続けてくれる親友。彼が自分の不在の間、どうやって妹を守り抜いてきたのか。その空白を埋めるように、フェリクスは低い声で切り出した。
「……そういえば、聞きそびれていたな。お前とフェイは、どうやって知り合ったんだ? 僕が消えた後……あいつは西国の駅で、僕を待っていたはずだ。」
ミルズはグラスを揺らし、氷の音を響かせた。視線はフェイの寝室へと向けられる。
「……最悪の出会いだよ。俺が現場に駆けつけた時には、すべてが終わってた。城は落ち、お前は英雄として『死んだ』ことになっていた。公式報告書ってのは便利だよな。たった数行で、生きてる人間をこの世から消し去れるんだから。」
ミルズは自嘲気味に鼻を鳴らした。
あの日、ミルズは血の海となった城の回廊でフェリクスの姿を探したが、そこには彼が最期まで離さなかったという、録音機能の壊れかけた無線機が落ちていただけだった。
「救出された連中を問い詰めて、ようやく聞き出したよ。……どいつもこいつも、震えながら同じことを言いやがった。『あいつは、もう人間じゃなかった』ってな。……硝煙の中で、返り血を浴びて、誰を殺してるのかも分からないような目で……ただ、子供をあやすような、掠れた声で子守唄を歌い続けていた、と。」
ミルズは吐き捨てるように言い、三年前の、あの凍てつくような雨の日の記憶を呼び覚ますように、グラスを強く握りしめた。
「軍は、精神を病んで死んだお前を『不名誉』として隠したがった。遺体も確認させず、家族にも合わせず、勝手に埋葬しやがった。……俺はそんなクソったれな話を信じられるほど、お人好しじゃなかっただけだ。軍の監視を潜り抜けて、お前の故郷へ向かった。……そこで、雨の中、泥だらけになって兄を待ってる子供を見つけたんだ。それがフェイだった。」
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十一歳のフェイは、大人たちの足の間をすり抜けて、西国から届く最新の『戦死者名簿』を必死に盗み見ようとしていた。
名簿に兄の名を見つけられない絶望と、同時に「死んでいない」という確信の狭間で、彼女は泣くことさえ忘れたような目をしていた。
「……お兄さん。……西国の、兵隊さんなの?」
不意に袖を引かれ、当時二十三歳だったミルズは心臓が跳ね上がるのを抑えた。
偽造パスポートを懐に忍ばせ、一歩間違えれば即処刑の任務中だ。だが、自分を「西国の人間」だと見抜いた少女の真っ直ぐな瞳を、無下に突き放すことはできなかった。
「……ああ。お前のお兄さんの、腐れ縁だ。」
ミルズは咄嗟に、自分の任務を「カモフラージュ」するための最善の策を練った。
一人で動く若い男は、東国の秘密警察に目をつけられやすい。だが、「身寄りを亡くした従妹を連れて、行方不明の身内を探す兄」という体裁なら、この殺伐とした国でも、監視の目を濁らせることができる。
「フェイ。……お前のお兄さんは、まだ生きてる。俺と一緒に来い。あいつを見つけ出そう。」
それがスパイとしての「計算」だったのか、それとも親友を失った男の「後悔」だったのか、当時のミルズにも分からなかった。
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シュン、とコンロの青い火が鍋の底を舐める。その音で、ミルズは現実に引き戻された。
彼は眉間に皺を寄せたまま、慣れない手つきでお玉を握り、鍋の底を乱暴に浚った。
「……二十三の若造が、十一のガキを連れて検問を抜ける。怪しまれないためには、あいつを俺の仕事仲間の身内に仕立て上げるしかなかった。時計の修理を手伝わせてるってな……。だが、あいつのあの『発明』の才能だ。放っておけば軍に目をつけられる。だから三年間、あいつが書いた図面は全部『時計の試作部品だ』と偽って、秘密警察の鼻先に突きつけてやったよ。」
ミルズの語りに熱がこもるのと比例して、キッチンに香ばしすぎる——微かな焦げの匂いが混じり始める。
「……そうしなきゃ、あの子の指先は今頃、硝煙の臭いにまみれてたはずだ。……チッ。」
鼻を突く匂いにようやく気づき、ミルズは慌てて火を止めた。お玉に付着したシチューの底には、黒い斑点が混じっている。
「……見ての通りだ。俺が教えた時計の基礎なんてとうに飛び越えて、各地で拾い集めたジャンクパーツをたった三日で組み上げちまった。料理の火加減一つ覚えねえ俺の横で、あの子は——今お前の耳にあるイヤーカフを、執念だけで形にしたんだ。」
ミルズは忌々しげに鍋を見下ろし、だがその口角をわずかに上げた。
「『お兄ちゃんが見つかった時、私が一番の味方でなきゃいけないから』……あの子はそう言って、三年間、知識を蓄え続けていたのさ。」
フェリクスは、耳元に触れた。指先に伝わる冷たい金属の感触。それは妹が三年間、絶望に抗いながら磨き続けた執念の結晶だった。
「……フェイを一人にしなくてよかった。……ありがとう、ミルズ。」
『……フン、どこまでも救えねえお人好しだ。……おい相棒、聞いたか。「俺のため」だとよ。……この家の住人は、自分に嘘をつくのが上手いことだ。』
脳内のノックスは吐き捨てるように笑ったが、その響きに先ほどまでの苛立ちはない。
『……だが、まぁいい。……あのチビの三年間を無駄にするような真似だけはするなよ。……さっさと行け。この「不味い酒」の味は、もう飽きたんだ。』
「よせ。俺は、俺のためにやっただけだ。」
ミルズは照れ隠しに、テーブルに残っていた酒瓶の栓を乱暴に閉め、空のグラスと共に流しへと下げた。 琥珀色の夜を片付けるように。
焦げ付いたシチューの鍋をコンロから下ろす手つきは、どこかぎこちない。
「……また少し火が強すぎたか。……あいつは、焦げてても文句一つ言わないからな。それが余計に気に食わねえ。」
ミルズはぶつぶつと文句を言いながらも、焦げた底を避けるように、慎重にシチューを別の容器へ移し替える。時計のオーバーホールでもするかのような、偏執的なまでの丁寧さで。
ふと視線を上げれば、キッチンの小さな窓の向こうで、夜の帳が白々と明け始めていた。街を包む深い藍色が、ゆっくりと淡い灰色の朝霧へと溶け出していく。
「……おい、もう夜明けだ、フェリクス。」
ミルズが窓の外を見つめたまま、静かに促した。
「さっさと着替えて仕事に行きな。……シチューの仕上げは俺がやっておく。お前はクロワッサンを忘れるなよ。あの子は、お前が焼いたパンを食べている時が、一番幸せそうな顔をするんだからな。」
フェリクスは、静かに立ち上がる。一晩中、過去の泥の中を這いずり回っていたはずなのに、不思議と足取りは軽かった。
「ああ。……行ってくるよ、ミルズ。」
フェリクスは短く応じ、指先で一度だけ、耳元のイヤーカフに触れる。それはもう、夜の冷気を感じさせないほど、彼の肌に馴染んでいた。
重い扉が閉まり、カチリと錠が下りる小さな音が冷えた静寂に落ちる。
残されたのは、換気扇の低い唸りと、わずかなパンの予感。
ミルズは一人、預かった銀時計の重みを胸ポケットに感じながら、静かに独りごちた。
「……あぁ。ようやく、見つけ出したな。フェイ。」
三年前、雨の駅舎で小さな手を引き、「あいつを見つけ出そう」と誓ったあの日から。その約束は今、ようやく果たされ、本物の兄をこの場所へと迎え入れたのだ。
――それから、数時間後。
パン屋の裏口から、香ばしい小麦の香りと共に「ただの兄」としてのフェリクスが歩き出す。
その指先は、もう震えてはいなかった。
蒼白い朝霧の向こう側、彼が己の中に棲む「怪物」を共犯者として受け入れ、その軋みに身を削ってまで守り抜こうとした「当たり前の明日」が、今、確かな光を帯びて始まろうとしていた。




