11話
「怪物」は椅子に深く背を預け、退屈そうに爪を眺めている。その傲慢な態度を、ミルズはサングラスの奥から冷たく突き刺した
「……おい、『英雄』さん。お前の中にこびりついているはずだ。」
ミルズは椅子に座り、正面に立てた杖を支えに「怪物」を見据える。その杖は、怪物と自分たちの間を隔てる「超えてはならない境界線」のように、不気味な存在感を放っている。
座ったまま微動だにせず、言葉の刃だけで相手を追い詰めていく。
「フェリクスの脳を洗脳し、あいつの指に引き金を引かせた……あの悍ましい『音』の記憶がな」
ミルズが敢えて「音」の話題を突きつけると、怪物の動きがピタリと止まった。琥珀色の瞳が、ゆっくりとミルズへと向けられる。
「……あいつの正体を知っているんだろう。この時計を『笛』に変え、式典を地獄に変えようとしている主犯を。」
怪物は低く、喉を鳴らすように笑う。
「……そんなに知りたいか? あいつがどうやって『最高級の楽器』に改造されたのかを。」
怪物はわざとらしく、空中で指を指揮者のように振った。
「教えてやってもいいが……お前、丹精込めて調律したその時計が、親友を殺人鬼に変える『引き金』になると知っても、まだそのなまくらな腕を誇れるのかよ。」
ミルズは怪物に真っ向から視線をぶつけた。
「真実がどれほど重かろうと構わない。それが、あいつを縛り付けている『音』の正体だというなら……俺がその仕組みごと、叩き潰すだけだ。」
ミルズの静かな、だが逃げ場のない決意を孕んだ言葉を聞いた瞬間。
怪物は一瞬の沈黙の後、深く預けていた背を背もたれから離し、低く湿った笑い声を漏らした。
「……クハッ、ハハハハッ! 。おめでたいほどに頑丈だな。……いいぜ、そこまで言うなら、その耳に叩き込んでやるよ。あいつを『最高級の楽器』に仕立て上げた、極上の旋律をな」
怪物は、それまでの軽薄な動きをピタリと止めた。組み替えた膝の上に肘を突き、不敵に笑う口元を隠すようにして、拳に顎を乗せる。
ただ静かに、射抜くような視線だけがミルズのサングラスを貫いた。
「名は『マエストロ』。……正午の鐘が鳴るその瞬間、時計が放つ特定の周波数がフェリクスの脳を支配する。」
怪物はそこで一度言葉を切り、顎を乗せたまま、空いた方の手で自分のこめかみを軽く、弾くように叩いた。まるで、中身の空っぽな器を確認するかのような、無造作で残酷な仕草だった。
「……重鎮たちが並ぶ目の前で、『英雄』様が自ら引き金を引き、辺りを血の海に沈める。それが、あいつの描く最高のフィナーレだ。フェリクスはあいつにとって自分だけが奏でられる最高級の楽器なんだよ。」
ミルズは、まるで心臓を直接冷たい刃で撫でられたかのような戦慄を覚えていた。
(……楽器だと? あいつを……あいつの脳を、そんな仕組み(ガラクタ)に書き換えたというのか)
自分の知らない数年の間に。自分が隣にいなかった空白の時間のどこかで。
親友が人間としての意志を奪われ、精密な「殺人機械」に作り替えられていた。その事実が、ミルズの喉奥に焼けた鉄を流し込まれたような苦い屈辱を刻みつける。
「……反吐が出るな。」
絞り出された声は、低く、獣の唸り声のように震えていた。
ミルズが放つ、親友を汚されたことへの凄まじい殺気。その重苦しい沈黙の中で、傍らにいたフェイの、震える呼吸の音だけが異様に大きく響いた。
「……っ」
ミルズが放つ凄まじい殺気と、過去への激昂。その激しい感情の渦に、隣で聞いていたフェイは耐えきれず、小さく震える息を漏らした。
そのわずかな「音」を、怪物は逃さなかった。
「……なんだ、小娘。そんなに『お兄ちゃん』が壊れるのが怖いか?」
言葉の終わりを待たず、琥珀色の瞳がフェイを射抜く。
ミルズの意識が「過去の真相」に囚われた、その一瞬の隙。肉体が軋む音さえ置き去りにする異様な初速で、怪物の影が爆発的に膨れ上がった。
ミルズは椅子を蹴り飛ばし、立ち上がる勢いを乗せて杖を斜め上方へと振り抜いた。
だが、怪物はその一撃を「誘い」にしていた。腕の下を滑り抜け、怪物の影は既にミルズの死角へと突き抜けている。
「ッ……!?」
空を切った杖の重みに引かれるように、ミルズは強引に身体を反転させた。だが、彼が視界を一周させ、背後の光景を網膜に捉えたときには、既に「怪物」の指先がフェイの細い喉を掴み上げている。
「なぁ、お前が生きている限り、フェリクスは戦場で死ぬ。」
排除。それが怪物の冷徹な結論だった。ミシリ、とフェイの喉笛が悲鳴を上げる。
ミルズは己の内に残る躊躇いを無理やりねじ伏せ、最大速で刃を振り下ろした。――だが、その刃がフェリクスの肉に届くより一瞬早く、そこに「白」が混ざった。
プツリ。自らの刃が、フェイの細い指先を裂く。
「……っ!」
鮮やかな『赤』が溢れ出す。自分が今、誰を、何を傷つけたのか。その事実がミルズの心臓を素手で掴んだかのように締め上げた。断罪の鋼は、フェイの骨を削ぐ寸前――激しく震えながら制止した。
「……ッ、チッ……なんだ、この『赤』は……!」
怪物は、自らの指先を伝う血の熱さに、嫌悪と混乱の混じった呻きを漏らした。
喉を絞められ、掠れた、今にも消えそうな声が室内に落ちる。
「……お兄ちゃん。…ずっと、愛している……よ。」
フェイはもがく代わりに、震える右手を伸ばした。血に濡れた指先が、怪物の頬を、慈しむように撫でる。
その瞬間、怪物の思考に激痛が走った。
(……待て。こいつを殺せば、フェリクスの『心』はどうなる。……愛していると言ったこの小娘を殺すことは、フェリクスそのものを殺すことではないのか……!?)
琥珀色の瞳が、壊れた精密機械のように激しく揺れ動く。
殺すべきだ。だが、殺せば「フェリクス」は死ぬ。
出口のない矛盾に脳を焼かれ、怪物は喉の奥で獣のような呻きを漏らした。
(……計算が合わない。何故だ。何故この小娘は、折れそうな指で俺の頬を撫でようとする。……これでは、殺せないではないか)
怪物は、まるで熱鉄に触れたかのように、弾かれたようにフェイから手を離した。
突き飛ばされたフェイを、ミルズは折れそうな小枝を扱うような手つきで、それでいてひったくるように抱き寄せた。
「……ッ、フェイ!」
サングラスが床に落ち、露わになったミルズの瞳は、怒りよりも先に凄まじい「怯え」に支配されていた。
彼は荒い呼吸を繰り返すフェイの肩を掴み、その視線を、自らが切り裂いた彼女の指先へと落とす。
赤く染まった彼女の指。自分が教えた「精密な未来」を組み立てるはずのその指を、自分の「破壊」の刃が損なった。
その事実が、ミルズの喉の奥に苦い鉄の味を逆流させる。申し訳ないなどという言葉では到底足りない。彼は今、この瞬間にでも自分の右腕を叩き斬りたかった。
「……バカな真似を、するなと言っただろうが……!」
振り絞られた声は、怒声ですらなく、今にも泣き出しそうな男の懺悔だった。
「ミルズさん、私は大丈夫……」
「黙れ。……お前が死ねば、俺があいつを殺す理由がなくなる。俺が、俺でいられなくなるだろうが……ッ」
彼はフェイと視線を合わせることができず、ただ、血に汚れた自分の掌を忌々しげに握りしめた。
(……無様だな、俺は)
怪物を仕留める絶好の機だった。フェリクスとの「殺す」という約束。それを完遂すべき瞬間に、自分はフェイの流した『赤』に、無様に指を止めた。
彼女の才能を認め、共に歩くと決めた。だが、彼女がこの「地獄」の深淵に触れぬよう、その境界線だけは俺が完璧にコントロールし、守り抜くはずだった。
実際はどうだ。傷一つなく守り抜くこともできなかった。それどころか、あの子は今、命を絞り出すような暴力の中で、自分すら持ち合わせない「愛」という剥き出しの言葉を投げかけて、怪物を止めてみせた。
一線を引いて守っていたつもりだった。だが、とっくに彼女の方が覚悟を決め、自分より深い闇の底へ飛び込んでいたのだ。
プロとして戦場を仕切っているつもりでいて、結局はあの子の指先に甘え、その身を挺した祈りに救われてしまった。その惨めな失態が、ミルズの喉奥に焼けた鉄のような苦さを逆流させる。
その背後で、怪物は自分の指先を忌々しげに見つめ、顔を歪めた。
「……チッ、壊れてやがる。お前も、俺も、フェリクスも……! なんでどいつもこいつも、俺の計算の外側に立ちやがるんだ!」
怪物は吐き捨てると、苛立ちをぶつけるように木製の椅子を乱暴に蹴り飛ばした。
床を打つ鈍い衝撃音が、一度だけキッチンの冷えた空気を震わせる。怪物はそのまま、逃げるように背後の壁際の闇へと身を沈めた。
部屋の隅から届く椅子の軋みが消え、重苦しい静寂が室内を支配する。
ミルズはその沈黙を裂くように、怪物を背中で遮る位置に別の椅子を引き寄せ、フェイを座らせた。
彼は迷いのない動作で、シンク側の壁の隅にある古びた薬棚から救急箱を取り出す。
カチリ、と小さな音を立てて箱を開けると、ミルズは床に膝をついたまま、フェイの右手をそっと掬い上げた。
ミルズは、自らの刃が裂いたその小さな傷口だけを凝視していた。
清潔なガーゼで赤を拭い、震える指先で白く清潔な貼り布絆を付ける。剥がれないよう、最後にごく軽く指先で押さえるその手つきは、まるで羽毛を扱うような繊細さだった。
貼り終えた布絆の上から、一度だけ、縋るように彼女の指先を強く握りしめる。
「……二度と、こんな真似はするな。……俺の横にいたいなら、自分を大事にしろ。分かったか」
絞り出されたのは、叱責ですらない、掠れた祈りだった。
フェイが小さく頷くのを見届けてから、ミルズは血に汚れた自分の掌を隠すように握りしめ、ゆっくりと立ち上がった。
シンクにある使い捨ての紙で掌の『赤』を無造作に拭い捨てる。ゴミ箱に放り投げたその紙には、自分の手ぬるさが招いた結果が、逃れようのない事実としてこびりついていた。
(最悪だ。……こんな汚い場所に、あの子の綺麗な言葉を吐かせたことも、俺自身が動揺してあいつとの約束を違えたことも)
床に落ちたサングラスを拾い上げ、レンズの曇りを指先で弾く。心理的なノイズを振り払うかのように、その動作はどこか峻烈だった。
(マエストロがどう調律したかは知らんが、今のこいつを殺せば、元凶には届かない。……フェリクスを奪還するためには、この『装置』ごと利用してやる)
カチリ、と脳内で殺意の照準が切り替わる。
彼はサングラスをかけ直し、一度だけ深く、熱を吐き出すように息を吐いた。再び顔を上げたとき、レンズの奥の瞳は冷徹な「プロ」へと完全に塗り替えられていた。
「……おい、英雄さん。貴様、一体何を考えている」
ミルズは壁際に佇む怪物を見据え、突き放すように言い放った。
「フェリクスの体を使って、そのなまくらな指先で何がしたい。殺すなら殺せ。できないなら、そのガラクタ(肉体)をさっさと本人に返せ」
「……返してどうする。またあいつを、あの戦場のど真ん中に、丸裸で放り出すか?」
怪物は、自らの両手を見つめ、肺の奥底に溜まった泥を吐き出すような濁った笑いを漏らした。
「お前はあいつの『不殺』を気高い信念だと崇めていたようだが……あいつはただ、引き金を引くべき瞬間に、妹の幻影に指をへし折られていただけだ。あいつが綺麗な思い出だけを抱えて死ねるように、血の匂いも、引き金の重さも……全部俺が食らってやったんだよ!」
闇の中から放たれる、怪物の呪詛。
ミルズは答えなかった。
カチリ、と床を叩く杖の音が一度。
迷いのない足取りで、ミルズは怪物が潜む壁際へと歩み寄る。そこは怪物の「牙」が届く間合いだが、今のミルズに躊躇いはない。
「……だが、フェイ。お前が『お兄ちゃん』と呼ぶたびに……!」
怪物の叫びを遮るように、ミルズが動いた。
闇の中に沈んでいた怪物の胸ぐらを、ミルズは無造作に、しかし万力のような力強さで掴み上げた。怪物は抵抗する力さえ忘れたように、ただ人形のごとく揺さぶられるに任せている。
「勘違いするな。」
逃れられない力で、その顔を至近距離まで引き寄せる。サングラス越しに、冷徹な殺意を怪物の瞳へと叩きつける。
「フェリクスを地獄から守ってきたつもりか? ……笑わせるな。貴様がやっていることは、あいつが命を懸けて守りたかったフェイを、あいつ自身の手で殺すという『地獄』を完成させることだ」
怪物の琥珀色の瞳が、激しく揺らぐ。ミルズは逃げ場を塞ぐように、その喉元へ言葉の刃を突き立てた。
「守るべきものを損なう防衛本能など、ただのゴミだ。――貴様はもう、救済ですらない『故障品』なんだよ。」
吐き捨てるように胸ぐらを突き放すと、ミルズは背後の少女を庇うように立ちふさがった。
その時、背後で微かな足音が響いた。
シンクの近くの椅子に座っていたフェイが立ち上がり、一歩、また一歩と、震える膝を叱咤してミルズの隣へと歩み寄る。
ミルズが「来るな」と制する暇さえ与えず、彼女は布絆の巻かれた指を固く握りしめている。
「……そうね、私のせいで……お兄ちゃんが弱くなるなら、私がその分……強くなるわ。」
喉を掴まれていたため掠れていたが、もう震えていなかった。
ミルズの隣へと並び、「もう一人の兄」に対して言葉を紡ぐ。
「……泥を啜っても、一緒に生きる。……だから、約束よ。……朝ごはん、一緒に……食べるんだから。」
フェイのその言葉に、ミルズは弾かれたように視線を落とした。
そこにあるのは、自分が傷つけ、自分の手で処置した、痛々しい白い布が巻かれた小さな指先。
(……俺が損なわせた日常を、この子は、まだ手放そうとしないのか)
その歪で、けれど確かな温もりを宿した『赤』の代償が、ミルズの胸に重く沈殿する。
彼女は絶望に沈むのではなく、その傷を勲章のようにして、地獄の先にある食卓を指し示したのだ。
ミルズは一度だけ、吐き出すような自嘲を漏らす。強張っていた肩の力がふっと抜け、その瞳から自責が消え、静かな、冷徹な殺意が宿る。
「……ケッ、どいつもこいつも正気じゃねえな。……いいだろう。そこまで地獄の味が好きだってんなら、俺の横に並ぶことを許してやるよ」
彼は自嘲気味に口角を上げると、その奥で眠る「半身」を突き動かすように言い放った。
「おい、フェリクス。……マエストロの喉元まで連れてってやる。お前は黙って俺に運ばれてろ。」
怪物の瞳からギラついた殺意が抜け、静かな、昏い熱が宿る。その視線が、フェイの指に巻かれた白い布絆を一瞬だけ捉え、何かを言いかけて止まった。
「その代わり、最後にお前の指を動かすのは……俺じゃねえぞ。」
彼は鼻で笑うと、意識が途切れる寸前、フェリクスの魂に冷たい毒を流し込んだ。
(――感謝しろよ。お前の相棒が、お前の代わりに『汚れ仕事』を全部引き受けてくれたおかげで、妹が指一本で済んだんだからな)
すとん、と糸が切れたように脱力した。琥珀色の瞳から光が消え、再びその瞼が持ち上がったときには――そこには先ほどまでのギラついた琥珀の熱はなく、いつもの穏やかで、酷く戸惑ったような「親友」の瞳が戻っていた。




