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12話

 イヤーカフが放つ高周波の共鳴が、フェリクスの意識を現実世界から引き剥がし、真っ白な深淵へと叩き落とした。

 見渡す限り、白。

 天井も床もなく、ただ巨大な、止まった時計の歯車が幾重にも虚空に浮いている。

 空中に浮かぶ歯車から、漏れ出た潤滑油が黒い雨のように滴り、落ちる先もなく消えていく。

 その冷徹な機械仕掛けの深淵、ちょうど止まった大歯車の真上に、それはあった。

 殺伐とした金属の質感とはあまりに不釣り合いな、鮮やかなグリーンの芝生。まるで、どこか遠い国の深い森から、その一角だけを丁寧に切り取って貼り付けたかのような空間だ。

 芝生を囲うのは、絵本から飛び出したような、パステルカラーのカラフルな木製柵。その内側には、レースの敷かれた長い円卓と、優雅な曲線を描く猫脚の椅子が並んでいる。

 丁寧に並べられたティーカップやウサギのポットは、まるで激しい嵐のただ中に、そこだけ奇跡的に残された安らぎの孤島のようだった。

 その「お茶会」の席に、自分と同じ軍服を纏った男が、場違いな威圧感を放って座っている。

 彼は、可愛らしいティーカップに、潤滑油のように真っ黒な液体をなみなみと注いでいた。

 男は視線を落としたまま、そのどろりと濁った汚泥を、事も無げに口へ運ぶ。

 それは喉を潤すためではなく、ただ欠落した何かを埋める作業のように淡々としていた。


「……やはり、そこにいたのか。」


 フェリクスは向かいの椅子を静かに引き、腰を下ろした。

 男はカップをソーサーに戻すと、冷たく、退屈そうに視線を上げた。唇には、飲み干したばかりの黒い油が、まるで拭い去れない罪のように薄くこびり付いている。

 フェリクスにそっくりの顔だが、琥珀の瞳だけが、凍りついた冬の湖のように冷たく、一切の体温を感じさせない。


「僕を蝕み続けていたのは、君だったんだね。」


 フェリクスの声が、歯車とお茶会の奇妙な空間に虚しく反響する。

 つい数秒前、現実の肉体を通じて伝わってきた、フェイの細い喉を締め上げた感触。

 猫脚の椅子に深く腰掛けた「怪物」は、長い円卓の向こう側で、手を伸ばしても届かない絶妙な隔たりを保ち、ティーカップを弄んでいた。


「君は……フェイを殺そうとした。僕の手を使って、あの子を……ッ!」


 その糾弾を聞いた瞬間、怪物の口角が歪に吊り上がった。彼は音もなく卓上へひらりと飛び乗ると、迷いなくフェリクスの方へと踏み出した。


『殺そうとした? 心外だな。俺はただ、「最優先事項」のためにノイズを排除しようとしただけだ。』


 一歩ごとに軍靴がウサギのポットを蹴倒し、繊細なカップを次々と粉砕していく。パキリ、パキリと陶器を蹂躙する音が、冷酷な宣告と共にフェリクスの心臓を追い詰めた。


「……フェイを、ノイズだと呼ぶのか!?」

『あいつは泣き叫び、お前を鈍らせる。切り捨てることが、お前を生き延びさせる最短ルートだ。だが……』


 怪物はフェリクスの真正面まで来ると、その場にどっかと腰を落とした。

 投げ出した軍靴が、フェリクスの椅子の脇を左右から塞ぐ。逃げ場を奪われたフェリクスを、怪物は高い位置から、獲物を値踏みするような冷酷さで見下ろした。


『あいつが「家族」だと喚くたびに、お前の引き金は重くなる。戦場じゃ、その一瞬の迷いが命取りだ。……熱くて、邪魔なんだよ。』


 怪物は繊細なレースを潤滑油で汚すのも構わず、手近なティーカップを指先で弄んだ。


『……反吐が出るな、フェリクス。あの子を愛することを辞めろ。そうして空っぽの怪物になれば、お前はもう、何にも傷つかずに済むんだよ。』


 怪物は吐き捨てると、手の中のティーカップを、フェリクスのすぐ背後にあるパステルイエローの柵へと叩きつけた。

 パリン、と鼓膜を劈く破砕音。

 鮮やかな色の柵に、飛び散った陶器の破片と、泥のような黒い液体がべっとりとこびり付く。


『あいつの「愛」だのという温い言葉が、俺の意識にまで浸食してきやがる。……胸糞悪い。俺を、あいつと同じ「人間」だと勘違いさせるような真似をさせるな!』


 怪物は砕けた破片から滴り落ちる黒い油を、冷酷に、そしてどこか自暴自棄に見つめた。

 

(……結局、君はそういう存在なんだな)


 目の前に座る「自分」が、あまりに冷酷で、あまりに正しい。

 フェリクスは激しい嫌悪を瞳に宿し、静かに椅子を蹴って立ち上がる。怪物の傲慢な視線と同じ高さで、その瞳を見据え返した。


「……そんなのは、僕の望む生き方じゃない。あの子の未来を守るためなら、僕は英雄にだって、人殺しにだってなる覚悟だった。 」


 その糾弾を聞いた瞬間、怪物の口角が歪に吊り上がった。彼はテーブルに腰を下ろしたまま、まだ中身が満ちていたもう一つのカップを、わざと無造作に横倒しにした。

 コトリ、という乾いた音と共に、純白のレースの上へ「ドブ泥」が溢れ出す。

 溢れ出した汚泥は、カップを倒した怪物の指先を黒く染め、軍服の袖へと音もなく吸い込まれていく。

 彼は汚れを拭おうともせず、むしろ誇示するように、どろりと汚れた手のひらをフェリクスへと向けた。


『人殺しになる覚悟、だと? ……笑わせるな。お前がその綺麗な指先を震わせ、引き金に指をかけることすら躊躇していたあの日。代わりに迷わずその男の喉を掻き切ったのは、どこのどいつだ?』


 怪物は、黒く汚れた自分の手を、まるでこの世で最も忌まわしいものを見るかのような、あるいは愛おしむような瞳で見つめた。


『お前が「優しいお兄ちゃん」でいられたのは、俺がそのドブ泥のような記憶をすべて引き受けていたからだ。積もり積もったこの汚泥は、もう洗い流せやしないんだよ。』


 怪物は自分の手から視線を外し、虚空を見つめて鼻で笑った。


『だが、フェリクス。お前はそのまま、何も知らない「英雄」のフリをしていろ。血生臭い泥を啜るのは、俺一人で十分だ。』


 怪物は自虐的な笑みを深めると、フェリクスに向けていた汚れた手を、力なく自分の膝の上へと戻した。

 どろりと滴る汚泥が、怪物の軍服を黒く染めていく。


『……汚れ仕事は俺に丸投げしておいて、都合が悪くなれば「僕の望む生き方じゃない」か。……笑わせるな。地獄の底まで俺を背負う覚悟もないくせに、綺麗な言葉で俺を拒絶するな。』


 怪物の慟哭に近い拒絶が、真っ白な世界に鋭く突き刺さる。

 フェリクスは何も言い返せず、ただ立ち尽くした。 今しがた抱いた「自分を乗っ取ろうとしている」という疑念が、音を立てて崩れ去っていく。男の指先から滴り落ちる黒い泥。それは、自分が「清廉潔白」でいるために、自分の内側に無理やり押し込み、この男に飲み込ませ続けてきた毒液そのものではないか。


(……あぁ、そうだ。君は、僕だ)


 視界が歪む。目の前に座る「怪物」の輪郭が、自分の隠したかった醜い記憶と重なり、溶け合っていく。


「……君は、僕の『心』を守るために、そこにいたんだね。」


 フェリクスは絞り出すような声で、だが真っ直ぐに怪物を射抜いた。

 彼の瞳からは、先ほどまでの激しい嫌悪が消えている。


「あの子の前で『優しい兄』でいられるように。僕が壊れてしまわないように。……汚いことも、人殺しの記憶も、全部君が独りで飲み込んでくれていたんだ。」


 不意を突かれたように、怪物の口角から嘲笑が消えた。向けられた真っ直ぐな視線を拒むように、彼は顔を背け、膝の上の汚れた手を忌々しそうに握りしめる。

 その微かな動揺が、鏡合わせの自分を通じてフェリクスの胸に流れ込んできた。痛いほどの孤独と、泥水を啜り続けてきた喉の渇き。

 それを知らずに「綺麗事」で自分を塗り固めていた己の傲慢さを、フェリクスは今、静かに受け入れる。

 彼の瞳からは底知れない静かな決意が宿っていた。


「……でも、それは『覚悟』じゃなくて、ただの逃げだったんだ。」


 彼は震える指先を伸ばし、指先に残る蔦の冷たさを確かめ、そっと視線を上げる。


(……そうだ。この冷たさが、僕を「兄」に繋ぎ止めてくれる)


 その感触を、彼は迷いを断ち切るための覚悟へと変えた。

 フェリクスは静かに、だが確かな意志を持って一歩踏み出すと、怪物が膝の上で固く握りしめていた、その黒く汚れた手を、迷わず自らの両手で包み込んだ。


「君を一人にはさせない。」


 顔を上げ驚きに目を見開く怪物に対し、フェリクスは逃さぬようさらに力を込める。黒い汚泥が自分の手まで染めていくが、不思議と不快感はなかった。


「フェイが、この装置を改良してくれた。……もう君に、すべての泥を押し付けたりはしない。君が独りで耐えてきたその地獄を、これからは僕も隣で共に見るよ。」


 フェリクスの瞳は、もはや恐怖ではなく、深い慈しみと共犯の光を宿していた。


「君の『力』を奪いはしない。けれど、その『業』も、人殺しの記憶も、僕が半分引き受ける。……独りで地獄に浸らせてはおかない。あの子を守るために、僕はもう、君という鏡の裏側に逃げたりしない。……それが、僕の本当の覚悟だ!」


 怪物が、初めて愉快そうに、そしてどこか孤独を分かち合った安堵を見せて、口角を上げた。


『……面白いな。共犯者になるつもりか? 』


 怪物は目を細めると、フェリクスが握りしめていた手を、するりと滑らせるように引き抜いた。

 それは、対等な「契約者」として向き合うための合図のようだった。

 怪物はそのままテーブルから床へ飛び降り、トン、と音もなく着地した。

 入れ替わるように、そこには――さっきまで彼が腰掛けていたはずのテーブルの上に、いつの間にか一枚の古びた羊皮紙と、一本の羽ペンが置かれている。

 だが、その羊皮紙に「文字」はなかった。

 そこにあるのは、文字すら判別できないほど幾重にも塗り潰された、すすのような漆黒。 

 怪物が三年間、フェリクスの代わりに飲み込み続けてきた「ドブ泥」そのものが紙になったような、救いようのない黒だ。


「……っ、何も……書いていないのか?」


 予期せぬ紙の出現と、そのあまりの黒さに、フェリクスは息を呑んで呟いた。

 床に降り立った怪物は、その戸惑いを楽しむように、自嘲気味に鼻で笑った。


『ああ。お前が目を逸らしてきたすべてだ。お前には何も見えないだろうし、見る必要もない。……俺一人が、この闇の中に署名すれば済む話だ。』


 怪物は軍服のポケットに無造作に手を突っ込むと、顎先でテーブルの上の「闇」を試すように指し示した。

 フェリクスは迷わず、その羽ペンを手に取った。


「いいや、書くよ。……君が塗り潰してくれたこの余白に、僕たちのこれからを。」


 フェリクスは羽ペンの先を、深淵にまで付き従ってきた耳元の銀の蔦に、微かに触れさせた。

 透明だったインクが、フェイの愛と共鳴するように、凛とした青い光を帯びて満たされていく。

 フェリクスは澱みのない筆致で、その真っ黒な闇の上から自らの名を署名した。煤のような黒を塗り潰すのではなく、その闇の隙間に光を通すように。

 書き終えた瞬間、紙の上の闇が生き物のように蠢き、フェリクスの全身へと、冷たい冬の雨が染み込むような重みとなって消えていった。

 それは、彼がこれまで切り離してきた「痛み」そのものが、再び彼の一部として溶け合った合図だった。


『……成立だ。地獄の特等席を、半分空けておいてやるよ。』


 怪物が、初めて孤独を分かち合った安堵を見せて、静かに口角を上げた。

 彼が、今思い出したとでもいうように、わざとらしくパンと手を打ってフェリクスに告げる。


『……あぁ、そうそう!』


 その乾いた音が引きトリガーとなったかのように、真っ白な世界に、カチリと時計が動き出す音が響いた。


(――感謝しろよ、フェリクス。お前の相棒が、お前の代わりに『汚れ仕事』を全部引き受けてくれたおかげで、妹が指一本切り裂かれるだけで済んだんだからな)


 愉悦に満ちたその声が、鼓膜を突き破る不協和音となって弾けた。


-----


 意識が現実の肉体へと叩きつけられた瞬間、凄まじい重力がフェリクスを襲った。

 視界が白から色彩へと塗り替えられ、肺に溜まったドブ泥を吐き出すような呼吸が喉を焼く。


「……っ、が、は……っ!」


 立っていることすらままならず、彼はそのまま床へ膝から崩れ落ちた。

 激しく明滅する視界がようやく焦点を結ぶ。

 すぐ目の前、今にも泣き出しそうな顔で自分を覗き込むフェイ。

 そして、焦燥を露わにして傍らへ膝をつき、無意識にフェリクスの腕を掴んで引き起こそうとしたミルズ。


「……ミルズ。……フェイ。」


 自分の声が、ひどく遠くから聞こえる。

 フェリクスは震える腕で床を支え、縋るような思いで、まずは妹の「手」を探した。

 床に膝をついた彼の、すぐ目の前。

 駆け寄ったフェイが、床に膝をつきそうなほど身を乗り出している。その不自然に握りしめた小さな拳。その指先に、白く光る布絆を見つけた。


(……あぁ、やっぱり、僕があの子を)


 絶望に近い確信を持って顔を上げた。その拍子に、フェリクスの視線は自分を支えているミルズの右腕――その袖口にこびり付いた、拭いきれなかった『赤』の滲みに触れた。

 その視線に射抜かれた瞬間、ミルズは自分が犯した「致命的な不注意」に気づき、支えていたフェリクスの腕を乱暴に放して、弾かれたように立ち上がった。

 彼はサングラスの奥の瞳を険しくさせ、わざとらしくフェリクスを見下ろして鼻で笑った。


「目が覚めたか、フェリクス。……安心しろ、お前の『同居人』は思ったより饒舌だった。おかげでマエストロの狙いも、時計の仕掛けも……全部吐かせた。」


 その声は、驚くほど平坦だった。

 「尋問は成功だ」と言わんばかりの、冷徹なプロの口調。

 自分の刃で、誰よりも守るべきはずだった少女を損なった――その消えない罪の痕跡を、彼はフェリクスの視線から必死に遠ざけようとしていた。


「……収穫は十分だ。さっさと準備しろ。」


 ミルズは背を向け、ガチャンと無作法な音を立てて救急箱を片付ける動作でさらに「証拠」を隠そうとする。


「……嘘が、下手だな。ミルズ。」

「……っ」


 膝をついたまま、フェリクスは震える声でその背中に告げた。

 図星を突かれたミルズの肩が、一瞬だけ硬直した。

 彼は顔を背け、わざとらしくサングラスの蔓に指をかけた。隠した右手の震えを誤魔化すように、無骨な蔓を強く押し付けている。


「……能書きはいい。……お前は前だけ見てろ。」


 突き放すような物言い。けれど、レンズの奥で泳いだ視線が、一瞬だけフェイの指先の傷に触れ、痛ましそうに歪んだのを、フェリクスは見逃さなかった。


「フェイを傷つけたのは、僕だ。……あいつと、話をしてきたから分かる。」

「おい、フェリクス、お前……」


 制止しようとするミルズを遮って、フェリクスは隣に座り込むフェイの、絆創膏が貼られた手をそっと取った。

 フェイは驚いたように目を見開いたが、その瞳に「恨み」などは微塵もなかった。


「……フェイ。怖かっただろう。痛かっただろう。……ごめんね。僕の弱さが、君を危険に晒した。」


 謝罪するフェリクスに、フェイはぶんぶんと首を振った。そして、彼の手をぎゅっと握り返して、花が咲くような笑顔で言った。


「ううん、お兄ちゃん。私、嬉しいの。……だって、これでお兄ちゃんの『本当』を、私もミルズさんと一緒に支えられるようになったんだもん。……私はもう、守られるだけじゃないよ。」


 その言葉は、フェリクスの胸を熱く焦がした。

三年間、彼の知らない場所で、この子はこれほどまでに強く、気高く成長していた。その成長を、これから一番近くで見守り、共に戦える。……それは、なんて幸せなことだろうか。


「……聞いたか、ミルズ。この子はもう、僕たちと同じ道を歩いてる。……だから、君一人が泥を被る必要なんてないんだ。」

 

 フェリクスは立ち上がり、自らの右腕を強く握りしめた。

 署名の瞬間に走ったあの冷たい衝撃が、今も指先から肩にかけて、消えない覚悟の重みとなって居座っている。そこにある「闇」は、もう忌まわしい重荷ではない。


「僕は怪物を受け入れた。あいつの見る景色を、これからは僕も一緒に見る。……ミルズ、君が啜る泥の半分は、僕とフェイで引き受けるよ。僕たちは、三人で『共犯者』だ。」

「……ふん、勝手にしろ。どいつもこいつも、泥遊びが好きな大馬鹿野郎ばっかりだ。」


 ミルズは呆れたように吐き捨て、乱暴にサングラスの位置を直した。けれど、その口角はわずかに上がっている。彼もまた、一人で背負う孤独から解放されたことを、認めざるを得なかった。


「決まりだね。……行こう、三人で。僕たちの地獄を、終わらせるために。」


------


 式典を翌日に控え、ホールはもはや異様な殺気に包まれていた。だが、ミルズは「特別許可証」を一瞥させただけで、その厳重な警戒の網を悠然と通り抜ける。

 壁一面を覆う精緻なレリーフ。その彫像の指先に、ミルズの細い指が触れた。カチリ、と硬質な音が響き、一枚の真鍮扉が口を開いた。

 溢れ出してきたのは、肺の奥を直接揺さぶるような、重低音の微振動と、機械油の冷たい匂いだ。

 ふいに、頭上の曇りガラスを巨大な「長針」の影が音もなく撫で、ミルズの視界を僅かに暗く落とした。二階回廊から見下ろせば優雅に時を刻むその針も、この「胎内」から見上げれば、頭上を音もなく蹂躙し、すべてを断ち切らんとする巨大な鉄の切っ先に他ならない。

 最短距離で主軸へ向けた懐中電灯の光が、異様な光景を映し出す。

 本来あるべき精密な真鍮の歯車を侵食するように、無数の音響ユニットが黒い血管のごとく増殖していた。時を刻むための振動はすべて、殺戮の音波を増幅するためのエネルギーへと変換されている。

 

「……吐き気がするな。」


 ミルズは、美しかった時計機構を「音の刃」を放つ兵器へと改造したマエストロの冒涜的なセンスに、眉をひそめる。

 傍らのフェリクスは無言のまま、師が足を止める寸前には既に重い工具箱の蓋に手をかけている。身を包んでいるのは、油汚れにまみれた無骨な作業着。深く被った作業帽の影で、フェリクスはただの「忠実な助手」として、ミルズの指先だけをじっと見つめていた。


「一分で終わらせるぞ。」


 ミルズの低い声が、巨大な歯車の回転音に吸い込まれていく。

 フェリクスは手際よく工具箱を展開し、師匠の指の動きに合わせて適切なレンチを差し出した。

ミルズが手を伸ばしたのは、壁面を伝う巨大な音響増幅輪―― 地下の深淵からホールの隅々まで殺戮の旋律を運ぶための、極太の固定ボルトだ。


「フェイ、聞こえるか。」


 ミルズは唇をほとんど動かさず、喉の奥で鳴らすような掠れた小声で囁いた。


「今から調律の楔を打ち込む。……波形が食い違う特異点フェイズを導き出せ。マエストロが放つ『死の旋律』を、内側から相殺して打ち消すための、わずかな空白スキマをこじ開ける作業だ。」


 サングラスの蔓にある耳元の極小レシーバーから、フェイの集中した、だが微かに震える吐息が聞こえる。


『了解、ミルズさん。……今の位置から右に0.5ミリ。……そこから、……そこ。そのまま、拍動をほんの一瞬――1.02ミリ秒だけ遅らせて』


 フェイの声が、祈るような切実さを帯びてレシーバーを震わせる。


『……そう、そこ! 拍動が重なるわ!このリズムがズレたら、お兄ちゃんを守る「音の壁」は、逆に一番鋭い刃になってお兄ちゃんを切り裂いちゃう。ミルズさん、慎重に……!』


 ミルズがわずかに指を動かすと、フェリクスがそれを察し、指示される前に次なる精密レンチを差し出した。二人の間に言葉はいらない。師匠の指の動き一つで、次になすべき作業を理解する……その「出来すぎた師弟」の姿こそが、周囲の監視の目を欺く最高の迷彩となっていた。

 ミルズは精密レンチを握る手に全神経を集中させた。周囲の喧騒が遠のき、金属が擦れる微かな手応えだけが指先に伝わる。

 カチリ。

 小さな、しかし決定的な音がした。

 これで、マエストロが放つ音波は、ホールの円形壁面で跳ね返った後、ステージ中央で互いに打ち消し合う。激しく震える波の中で、そこだけが微動だにしない『ふし』となってステージを包み込んだ。周囲が脳を焼き切る絶叫の渦に飲み込まれても、この一点だけは、深い湖の底のような静寂が保たれるはずだ。……そこが、明日のフェリクスの戦場になる。


「……よし。これで、ここだけは『狂乱の旋律』が来ても静かなままだ。」


 すぐ側を警備員の列が通り過ぎていくが、彼らは気づかない。自分たちが今歩いている場所が、明日には脳を焼き切る「音の刃」の戦場になり、この一角だけが唯一の「聖域」に作り替えられたことに。


「……行くぞ、仕事は終わりだ。」


 二人は、獲物を罠にかけた狩人のような静かな足取りで、光り輝くホールを後にした。


------


 ミルズ時計店の扉を開け、二階に上がるとそこには既に生活の匂いはなく、ただオイルと真鍮の香りと、張り詰めた計算の気配だけが漂っていた。

 フェイは、戻ってきた二人の顔を見るなり、何も言わずに温めていたミルクの鍋を火から下ろした。


「……計算は完璧よ。お兄ちゃんがそこに立ってさえいれば、音の壁が彼を守り抜くわ。」


 彼女の指先は、幾千もの数値を叩き出した計算尺の冷たい感触を忘れられぬように、微かに震えていた。ミルズは作業着を脱ぎ捨てると、乱暴に椅子を引いて座った。


「ああ。1.02ミリ秒の狂いもない。敵がタクトを振り下ろした瞬間、この世で一番静かな地獄が完成するはずだ。」


 三人の間に、重い沈黙が流れる。

 明日、この平穏は終わる。マエストロの首を取るか、自分たちが「巨大な楽器」の部品として使い潰されるか。二つに一つだ。


「……フェイ。もし、俺が戻れなくなったら……」

「言わないで。」


 フェイは兄の言葉を遮り、厚く切ったパンを皿に並べた。その手が一瞬だけ止まり、皿がテーブルに触れる「カタッ」という音が、静寂の中で不自然に大きく響く。


「戻ってくるのよ。三人で朝ごはんを食べるって、約束したでしょう? ……そのために、私たちは『彼』とも約束したんだから。」


 フェリクスは無言のまま、右手の指先で自らの耳元をなぞった。

 そこには、フェイが作り上げた銀の蔦――イヤーカフが、吸い付くような冷たさで肌に馴染んでいる。現実世界と精神の深淵を繋ぐ唯一のくさびを、彼は一度たりとも外すつもりはなかった。

 指先に伝わる細工の凹凸が、今の自分を繋ぎ止めている唯一の証拠だ。


「湿っぽいのは抜きだ。」


 ミルズはフェイが差し出した陶器のマグカップを無造作に受け取った。中に入っているのは、真っ白な温かいミルクだ。


「……明日の祝杯はマエストロの野郎を地獄へ送った後、一番高い酒でやる。今は、これで腹を落ち着かせておけ。」


 ミルズは柄にもなく、喉を通るその確かな熱を確かめるように、慎重に白い液体を啜った。


「……フェイ、砂糖をもっと用意しておいてくれ。……明後日の朝、三人でこれを飲む時にな。」


 三人は、言葉少なに最後の食事を終えた。

 ランプの灯を消すと、闇の中にフェリクスの耳元にある銀の蔦だけが、月光を浴びて静かな燐光を放っていた。


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