10話
ステージの垂直な壁面、豪華な彫刻の影に隠れるようにして、鈍い光を放つ重厚な真鍮の点検扉が見えてくると、ミルズはそこでピタリと足を止めた。
「……おい、そこに置け。ぶつけるんじゃねえぞ」
ミルズのぶっきらぼうな指示に、フェリクスは短く喉を鳴らして応じると、担いでいた木箱を扉の脇へ、吸い込まれるように静かに下ろした。
扉を潜り、時計の胎内へと踏み込んだミルズは、絶句した。
一刻も早く作業を終えるべく、最短距離で主軸へ向けた懐中電灯の光――。だが、そこに映し出されたのは、本来あるべき精密な真鍮の歯車ではなかった。
それは無数の音響ユニットが無理やり組み込まれ、ホール全体へ「音の刃」を放つための巨大な兵器へと作り替えられた心臓部だった。
ミルズは吐き気を堪え、光の輪を細部へと滑らせた。剥き出しになった積層板の厚み、地下ボイラーから強引に引き込まれた蒸気パイプの配置、そして異常な角度で固定された共鳴板――。
職人の目は、それらが紡ぎ出すであろう最悪の「不協和音」を、音が出る前に脳内で再現し終えていた。
「……反吐が出る。時計を殺戮の道具にしやがった」
ただの床時計だと思っていたものが、最悪の罠だった。一目見ただけで分かる、そのグロテスクな「改造」の意図。任務の重圧に、吐き気を催すような嫌悪が重なる。
代替の部品はなく、今これを取り除けば計画は即座に瓦解する。ミルズは忌々しげにハッチから這い出した。
待機していたフェリクスと視線がぶつかる。サングラスの奥、冷ややかに燃えるミルズの瞳だけで、フェリクスはその内部に「最悪の異物」が埋め込まれていることを悟った。
「動くな。ここで機材の番をしていろ。」
ミルズは短くそれだけを告げると、背後を振り返ることなく去っていった。
一人残されたフェリクスは、扉の脇に置かれた木箱の角に、どっかと腰を下ろした。
――落ち着けるはずがなかった。
スパイの真似事なんて、今回が初めてだ。変装の作法も、怪しまれない立ち振る舞いも、何一つ持ってない。
行き交う業者と肩がぶつかりそうになるたび、心臓が跳ね上がり、呼吸の仕方を忘れそうになる。向けられた何気ない視線すべてが、自分の正体を見破る刃のように感じられて、フェリクスは逃げ出したい衝動を必死に抑え込んでいた。
(……大丈夫だ。ミルズに任せておけばいい)
フェリクスは膝の上で固く拳を握り、自分に言い聞かせた。
時計の心臓部にあった「最悪」が何なのか、自分には理解すらできない。なら、自分よりも遥かにこの世界に精通しているあいつを信じ抜く。
フェリクスは深く背を丸め、周囲の喧騒から自分を隠すように身を縮めた。
業者の視線が、ただの「紛れ込んだ素人」を通り過ぎていくことを願いながら、彼はただ、自分の心臓の音だけを聞いていた。
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事務局内は、紙が擦れる音と、絶え間ない電話の呼び出し音が混ざり合う、乾いた戦場だった。
「局長。三番主軸に設計図にない異物があります。今すぐ解体させてください」
局長は顔を上げない。湿った指先で書類の端をめくり、その余白に、機械的にサインを書きなぐり続けている。
「あー……忙しいんだ。油でも差して、適当にやっておけ」
ミルズは、厚い絨毯を踏みしめて一歩、デスクへと歩み寄った。
手にした仕込み杖が、デスクの角をコン、と硬く叩く。
「油の問題ではありません、局長。このまま稼働させれば、式典自体が――」
局長はそこで初めて、めくる手を止めた。だがミルズを見るのではない。卓上のカレンダーを忌々しげに睨み、鼻の頭をハンカチで拭った。
「……三日前だぞ? 寄付者リストの筆頭があのステージの完成を待っているんだ。止めるというなら、君が彼らの首を縦に振らせてくるのかね?」
局長は再び書類に没頭し、ミルズを「風景」として処理し始めた。
ミルズは逃がさない。さらにもう一歩、デスクの真横まで踏み込んだ。
椅子に座る局長を見下ろす位置。近すぎる距離に、局長が不快そうに頬を歪める。脂の浮いた肌の質感が、至近距離で露わになる。
「針が動いていようが、止まっていようが、時計なんてただの飾りだ。それより式典を予定通り始める。それが私の仕事だ。……君のこだわりに付き合っている暇はない。」
再び、ペン先がカリカリと紙を削る音だけが室内に響く。ミルズの喉が、怒りで熱く焼けた。
「……ですが、共鳴による二次被害が起きれば、死人が出る恐れも――」
ミルズが身を乗り出した瞬間、局長は「汚いもの」を避けるように椅子を大きく後ろに引いた。
キャスターが耳障りな音を立てて床を削る。局長は喉を鳴らし、握ったペンでミルズの足元を突き刺すように指し示した。
「帰れ。」
短く、低い一言。局長はミルズとの間にできたその「空白」を守るように、再び机の上の書類を叩いた。
「これ以上私の時間を奪うなら、来月の契約はないと思え。……失礼したまえ。」
局長の冷淡な声が、広い執務室に虚しく響いた。
「……承知いたしました。」
ミルズは短く応じると、一分の隙もないほど深く頭を下げ、部屋を後にした。
重い扉が閉まった瞬間、廊下の静寂がミルズの耳を刺した。
彼は壁を拳で叩きたい衝動を、仕込み杖を握りしめる力へと無理やり転換した。ミシリ、と樫の木肌が鳴り、指先が白く強張る。
「……あのアホが。」
低く吐き出された声は、怒りよりも、胃の底からせり上がる嫌悪感に満ちていた。
ミルズは暗い廊下の端で立ち止まり、激しく波打つ呼吸を整えようと、冷たい壁に額を押し当てた。
時計を止める。それだけで済むと思っているあの男の「無知」が、今は何よりも恐ろしい。
目を閉じれば、闇の奥で異形の歯車が、獲物の脳をなぞる冷酷な旋律を奏でている幻聴がした。
「……全うしてやるさ。俺の仕事をな。」
壁から額を離したとき、その瞳には、事務局で見せていた「従順な職人」の光は一欠片も残っていなかった。彼は深く、重く床を突き、闇の奥に待つフェリクスのもとへと歩き出した。
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保守用扉の影。木箱の角に腰を下ろしていたフェリクスは、遠くから響く、規則正しくもどこか硬い杖の音を捉えた。
フェリクスは無言で立ち上がると、ミルズのために木箱を空け、自らは一歩下がって闇の奥の壁に背を預けた。
だが、戻ってきたミルズがその座席に腰を下ろすことはなかった。彼はフェリクスが譲った木箱を一瞥もせず、その隣の壁に力なくもたれかかると、深い溜息と共にサングラスを外した。
剥き出しになったその瞳は、怒りを超え、まるで精巧な彫刻が砕かれた跡を眺めるような、虚無的な冷たさを湛えている。
「……駄目だったか。」
ミルズの横顔に、フェリクスが短く問う。
「あのタコ助め。時計なんてただの飾りだとよ。」
ミルズは吐き捨て、震える手で扉の奥、闇に沈む「異形」を指差した。
「……フェリクス。あれは時計じゃない。地下のボイラーから引かれた蒸気が、あの積層板を震わせてやがる。ゼンマイを切ったところで止まりゃしねえ。……あれは建物全体を共鳴させる『笛』だ。」
「つまり、僕がその正面に立つことになるわけか。」
「ああ。当日、パノプティコンは巨大な処刑装置に変わる。……まともに喰らえば、お前の脳は内側から焼き切られるぞ。」
ミルズは外したサングラスを力なく握りしめた。職人の鋭い目が、一瞬だけフェリクスを射抜く。
その瞳には、友を死地へ追いやる苦渋と、それを覆い隠すほどの冷徹な光が混在していた。あまりに非道な設計を前に、ミルズの心は「情」を捨て、冷え切った計算機になることでしか、目の前の惨状に耐えられなかったのだ。
だが、その冷徹な宣告を、フェリクスは微動だにせず受け止めた。驚きや恐怖ではない。彼の瞳に宿ったのは、薄氷が張るような、刺すほどに冷ややかな光だった。
「……僕の意識を、そんな『ゴミ』のような目的に使うつもりか。」
低く、地を這うようなフェリクスの声。彼にとって、自分たちの誇る技術を殺戮に転用する行為は、耐え難い冒涜だった。
ミルズは一度言葉を切り、苦い沈黙を飲み込んだ。守るべき子供を、この悍ましい装置の計算式に引きずり込む。その罪悪感から逃れるように、彼は低く、掠れた声で続けた。
「……『物理学を飼い慣らしている天才』が、家にいただろう?」
それは、彼自身が下した敗北宣言でもあった。己の腕では止められないという屈辱と、フェイを戦場に引き摺り出す自責。
ミルズは顔を背け、震えそうになる指先でサングラスを掛け直した。
その時、不格好な作業着の袖が視界を横切り、ミルズの肩にずっしりとした重みが乗った。
「……フェイか。」
荷物持ちの仮面の奥で、親友の瞳が誇らしげに細められた。その一点の曇りもない光が、ミルズの胸を締め付けていた冷たい「保護者」という名の独善を、音を立てて打ち砕いた。
(笑うのか、お前は。……俺がお前の妹を、死地に組み込もうとしているっていうのに)
肩に乗せられた手の、確かな温もり。
自分一人で泥を被り、非情な加害者を演じることで帳尻を合わせようとしていた。そんなミルズの孤独な救済者気取りを、フェリクスの信頼が鮮やかに破り捨てていた。
「ああ、そうだなミルズ。あいつなら、こんな仕掛け、一瞬で解き明かしちまう。……お前もそう思うだろ?」
フェリクスは、迷う戦友の肩を力任せに叩いた。「共犯者になれ」という、無骨な鼓舞だ。
ミルズは鼻から短く息を吐き、自嘲気味に口角を上げた。
あの子の才能を「守るべき無垢」だと決めつけ、その可能性を侮っていたのは、自分の方だったのだ。
「……最悪の兄貴だな、お前は。」
呆れたような言葉とは裏腹に、ミルズの指先から震えは消えていた。
「だが、その通りだ。……あいつは、俺たち二人を合わせたよりもずっとタフで、とんでもねえ天才だ」
暗闇を蹴立てるように進む。
もう迷いはない。自分一人の腕で無理なら、あいつの脳を、フェリクスの命を、すべてを最高効率で繋ぎ合わせて、この地獄の『笛』を止めてやる。
「さっさと店に戻るぞ。彼女にこの構造図を見せて、勝機を計算き出してもらう。……今夜は長い夜になるぞ、フェリクス。」
振り向いたミルズの瞳には、冷え切った絶望の代わりに、相棒への信頼と、一人の少女への期待が、ギラリと鋭く宿っていた。
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「ただいま、フェイ。……すまない、学校どころではなくなった。君の知恵を貸してほしいんだ。」
キッチンの椅子に座り、計算式を書き込んでいたフェイへ声をかけるのと同時に、ミルズは迷いなくキッチンのシンクへ直行した。蛇口を捻り、冷たい水で一気に手を濡らす。局長の部屋で触れたドアノブの感触、廊下の埃、自分にこびりついた外界のノイズをすべて削ぎ落とすように、研磨剤を含んだ石鹸で指先まで執拗に洗い流した。
タオルで寸分の狂いもなく水分を拭い去る。
そこで初めて、彼はフェイの顔を間近で捉えた。
「……フェイ、動くな。」
ミルズは細い指先を彼女の耳の裏へ伸ばした。驚いて肩を跳ねさせるフェイを無視し、彼はその黒い汚れを、精密部品を検分するような手つきで親指でひと擦りした。
「耳の裏が黒いぞ。……没頭しすぎて鏡を見るのも忘れたか?」
汚れの移った自分の指先を一瞥し、ミルズは低く、喉を鳴らすようにして笑った。
「……あ、本当だ。ごめんなさい、ずっと図面と睨み合ってたから。」
フェイは顔を赤くし、慌てて自分の袖で耳の後ろを拭った。そんな彼女を満足げに眺め、ミルズは汚れた方の親指を、手近な使い捨ての紙で無造作に拭った。
「鏡を見てから図面を広げろ。……だが、その汚れの分だけ、君が出した『答え』に期待させてもらうからな。」
ミルズはそう言うと、傍らに置いていた仕込み杖を壁に立てかけ、椅子を引いてテーブルに深く腰を下ろした。
彼がサングラスを外し、卓上の設計図に指をかけた。その指先が、彼が先ほど時計の胎内で目撃した「三番主軸」の位置を、狂いなく叩く。
冗談の気配は消え、そこにあるのは冷徹な「検証」の空気だけだ。
「……フェイ。この『異物』をどう止めるか、君の計算を聞かせてほしい。」
向かいに座るフェイは、すでに書き込まれた数式の最後の一行をペン先で叩いた。
テーブルの上には生活の気配はなく、真鍮の重しで押さえられた幾枚もの計算用紙が、ランプの灯りに照らされて不気味な影を落としている。
彼女はミルズがここに来る前から、この「解」を導き出し、彼の検分を待っていたのだ。
「……分かったわ。『狂乱の旋律』を、そのままお兄ちゃんの『盾』に作り替えてあげる。」
フェイはペンを置き、自信に満ちた目で顔を上げた。目の前のミルズを、そして遠くで見守るフェリクスの瞳を真っ向から捉える。
「……見て。特定の周波数で、エネルギーが完全に相殺される『節』が生まれるの。舞台中央の半径3メートル。そこだけは、音を拒絶する『無音地帯』になるわ。」
「無音だと?」
ミルズが身を乗り出し数式を覗き込んだ。フェイの指先が、図面の一点――三番主軸のスピーカー歯車を鋭く指す。
「ミルズさん。この歯車の回転位相を、正確に1.02ミリ秒分だけ、遅らせて。……コンマ単位の微調整よ。できる?」
壁に背を預けていたフェリクスは、二人の間に漂い始めた濃密な「熱」に吸い寄せられるようにミルズの隣の椅子へと腰を下ろした。
蚊帳の外にいることを許さないような、二人の純粋な狂気。ランプの灯りに照らされたフェリクスの横顔は、現場での汚れや変装を拭い去った、一点の曇りもない素顔だ。彼は何も語らず、ただ机に広げられた図面の一線一線を、眩しい光でも見るかのような静かな眼差しで見つめていた。
ミルズは自分の細い指先を、じっと見つめる。極小の部品を扱うために研ぎ澄まされてきたその指が、かすかに、期待で震えていた。髪の毛一本分にも満たない噛み合わせの誤差。目視すら不可能なミクロン単位の調律。
(……済まない、などという言葉は、あいつの前では言えないな)
フェリクスがあれほど妹の才能を誇り、全幅の信頼を寄せて俺を見ている。ならば、今さら「巻き込んで済まない」などと感傷に浸るのは、二人の覚悟に対する冒涜だ。
(俺がすべきは、彼女の知恵を、一滴も零さず完璧に形にすることだけだ)
だが、式典前日のこの静寂の中でなら――時計の心臓が刻む鼓動の合間に、その『誤差』をねじ込める。
ミルズは、わずかに顎を引いて深く頷いた。その口角が、不敵な職人のそれへと歪む。
「ありがとう、フェイ。……君の理論には、一点の狂いもない。」
彼は再び卓上に置いてあったサングラスをかけ、隣のフェリクスへと視線を移した。レンズの奥、職人の鋭い目が、かつてないほど冷徹に燃えている。
「局長には『最終調律が必要だ』と伝えてある。奴は式典が完璧になることしか頭にない。……今なら、あの異形を俺たちの望む形に調律し直せる。」
フェリクスは、フェイが描き込んだ「無音の三メートル」を示す円形を、静かに見つめた。ランプの灯りに照らされたその円を、彼は無意識に指の腹でなぞる。一歩踏み外せば奈落へ落ちる、死の境界線だ。
「……その円の外に出れば、もう一度操られるということか。」
「そうよ、お兄ちゃん。」
フェイの答えに、迷いはなかった。
だが、彼女の視線は、机上の無慈悲な計算式に釘付けになっていた。
数式への熱狂が去った後の、剥き出しの恐怖。
「一歩でも踏み外せば、エネルギーが牙を剥いて襲いかかる。……お願い、絶対に出ないで。」
震える指を図面の脇に置き必死に耐えているフェイ。その限界に近い震えを止めるように、フェリクスは静かに自分の大きな右手を彼女の拳へ重ねた。
「……ああ。頼りにしてる。」
だが、彼女の温もりに触れた瞬間、フェリクスの脳裏を「あの時の感触」がよぎる。
突き飛ばしたはずの掌が、もし、そのまま彼女の細い喉を捉えていたら――。
脳の裏側にこびりついた、悍ましい「最適解」。それは愛する妹すら「排除すべき障害物」と見なす、冷酷なまでの合理性だった。その無機質な遂行能力の予感に、フェリクスの脊髄が不吉に震える。
清廉な「信頼」の言葉を口にするたびに、喉の奥で、吐き捨てられた汚い痰のような、生理的な嫌悪感を伴う「笑い」の気配がした。
それは声ですらない。ただ、自分の内側のどこかが、この「兄貴気取りの茶番」を激しく、下品に嘲笑っている。そんな確信が、冷たい汗となって背中を伝う。
(……俺が、しくじれば。この手が、また……)
握る力が、いっそ骨が軋むほどに強まる。
それは、フェイの柔らかな手を包んでいたはずの右腕が、再び「獲物」を求めて動き出さないよう、自らの左手で力ずくで押さえ込む、悲壮な拘束だった。
ミシリ、と骨が鳴る不吉な音に、フェイが弾かれたように顔を上げた。彼女の瞳は潤んでいたが、その唇は驚くほど冷たく、硬く結ばれている。
彼女は椅子を引いて立ち上がると、テーブルを回り込み、フェリクスのすぐ傍らへと歩み寄った。自分を壊しかねない兄の右手を、冷徹に振り払うようにして、あるいは、その手に宿った不吉な熱から逃れるようにして、彼女のお気に入りである、ポケットの多い黄色い作業ズボン。その一つに無造作に突っ込まれていた銀色の蔦を、彼女は迷いのない手つきで取り出した。
「……分かってる。だから、これが必要なの。」
フェイの手は、目に見えて小刻みに震えていた。その震えを隠すように、彼女はあえて突き放すような、硬い声を選んで言葉を継ぐ。
「耳を塞いでも、敵の音は脳に直接『回路』を焼きにくる。……だから、お兄ちゃんの骨を、脳を、私のノイズで物理的に塗り潰して、感情の外側に閉じ込めるの。」
フェイは迷いのない手つきでその銀のイヤーカフを掲げた。ミルズとフェリクスが、固唾を呑んでそれを見つめる。
「君らしい残酷な発明だな、フェイ」
ミルズが低く呟くと、フェリクスは無言のままそのイヤーカフを手に取り、自らの耳へと装着した。冷たい銀の感触が、吸い付くように肌に馴染む。
「これだけじゃないわ。」
フェイはフェリクスにつけられたイヤーカフの位置を、小さな手で丁寧に調整しながら、鋭く言葉を継いだ。
「敵がもし、想定外の出力でこの『檻』を壊しにきたら……その時は、この銀の竜頭を一段引き出して。」
フェイの指が、イヤーカフの付け根にある極小の突起を示した。
「……この竜頭を引き出せば、微弱な高周波が脳の深部を直接叩くわ。お兄ちゃんの中の『怪物』を、あいつらにぶつけるの。」
ミルズが息を呑んだ。それは、「戦争の記憶」を、最強の武器へと転用する禁断の術だった。
フェリクスは耳元の銀の蔦を、静かに指でなぞった。指先に伝わる冷たい金属の感触は、自分が人間であることを辞めるための、引導の重みだ。
「……十分だ。自分自身の意志で『化物』になれるなら、これ以上の救いはない。」
その言葉を遮るように、ミルズが机を軽く叩いた。
彼はサングラスを指で押し上げ、フェリクスの貌を正面から見据える。瞳を凝らし、その奥に潜む「何か」を逃さぬよう、視線を固定した。
「『英雄さん』には、フェリクスを洗脳していた敵の残響が染み付いているはずだ。……今、そいつをここで引っ張り出す。フェイ、君はあいつの吐き出す言葉を一音も零さず、式典の図面に叩き込め。……あいつが隠し持っている『地獄の正体』を、すべて暴いてやる」
ミルズの声は低く、そしてどこまでも冷徹だった。
フェリクスは一度深く息を吸うと、膝の上で両手を握りしめて吐き出すように答えた。
「……ミルズ、約束してくれ。もし、あいつが暴走して君やフェイを傷つけるようなことがあれば、その瞬間に俺を殺してくれ。……俺を、俺のままで死なせてくれ。頼む。」
部屋を支配したのは、ただ、壁の時計が刻む正確すぎる秒針の音だけだった。
ミルズは椅子に深く腰を下ろしたまま、傍らの壁に立てかけていた杖へと、吸い込まれるように手を伸ばした。指先が樫の木肌に触れ、それを静かに手元へと引き寄せる。
答えず、膝の間でその柄をミシリと軋むほどに握りしめた。その指先の白さが、静寂の中で残酷に際立っていた。
「……分かった。地獄へ行く時は、俺が責任を持って幕を引いてやる。」
ミルズはそう吐き捨てると、杖を握っていた指先の力をふっと抜き、震えの消えた手で卓上のサングラスを手に取った。
「……ありがとう。」
フェリクスは憑き物が落ちたように顔を上げてミルズの瞳を見て微笑むと、すぐ隣に立つフェイへ耳を貸し出した。
彼女は震える指先を隠すように唇を噛んで頷いた。
(『どいつもこいつも、俺の頭をいじりやがって』……)
「お兄ちゃんの肉体が覚えている『音』を、直接彼から聞き出しましょう。」
フェイが銀のピンを弾くと、チチチ……という微細な駆動音が響き、フェリクスの身体が硬直する。
琥珀色の瞳から生気が失われ、代わりに氷のような鋭利な無機質さが宿った。「怪物」の顕現だった。
「あ……」
そのあまりに冷酷な気配に、フェイは喉を鳴らして後ずさった。
逃げるように向かった先は、椅子に座るミルズの斜め後ろだった。ミルズが椅子に深く重心を預け、怪物と化した兄を正面から見据えることで、二人の間に確かな「境界線」が引かれる。
フェイはミルズの肩越しに兄を伺いながら、その広い背中の存在感に、辛うじて自分の理心を繋ぎ止めていた。
(……冷たい。お兄ちゃんの体から、あんなに熱が消えていくなんて)
フェイは岩のように揺るがないミルズの背中の影に身を置くことで、ようやく一つ、呼吸を吐き出すことができた。
怪物はゆっくりと首を鳴らし、目を細めてミルズを睨み据えた。
「……ハッ、随分と手荒な招待じゃねえか、四眼。俺の脳をこじ開けて、一体何を盗もうってんだ?」
怪物は吐き捨てると、自らの耳元の蔦を、汚れた指先で慈しむようになぞった。その視線はミルズを捉えながらも、意識の矛先は背後に控える少女に向けられたままだ。
「……だが、小娘。この銀の蔦は悪くない。三流の指揮者が脳ミソに垂れ流しやがる『腐った旋律』よりは、幾分か『静か』でいい。……お前たちのクソ暑苦しい家族愛よりは、ずっとマシな寝床だ。」




