ザッハトルテ【1】 ダニエルズ
我が家がパティスリー、ダニエルズと出会ったのは、帰宅途中の父が濃い甘い香りに気がついたことがきっかけです。スパイシーであり、どこか花の香りも含んでいる、食いしん坊で甘いものも大好きな父には魅力的でたまらない香り。それ以前にも、同じ場所で時々その香りに気付くことがあり気になっていたとのこと。その日は早めの帰宅で時間のゆとりがあったため、何か美味しいものであればお土産にしよう!と、その香りの元を探してみようと思ったそうです。
父ばかりでは無くわたくしも母も食いしん坊。食いしん坊一家です。
父がたどり着いたのは、表通りから1本入った細い道に面した小さな店。
黒地のオーニングに小さく金色でダニエルズの文字が記されていて、パティスリーとはどこにも書いてありません。3人も入れば一杯なりそうな小さなお店ですが、ダークブラウンのウォールナットとガラスの扉を開けて、迷うこと無く父は中に入りました。粋な雰囲気が一目で気に入ったのです。中に入ると丁度オーナーパティシエができあがったケーキをショーケースに並べているところでした。
それがザッハトルテだったのです。父を引きつけた香りは、オーナーが自ら厳選したカカオ豆から作ったチョコレートの香りでした。
父はザッハトルテを買い求め、帰宅しました。
その日は、わたくしがダニエルズのザッハトルテを初めて口にした日でもありますが、実はそのことを覚えておりません。わたくしはまだ3歳で、面白がる母に何度も聞かされた話です。
帰宅後、メイドにお願いしたコーヒーが準備できるやいなや、ザッハトルテををおやつに頂いていた食いしん坊の父母のところにやって来たわたくしが、ザッハトルテから目が離せない様子なのが面白くて、幼児にはまだ早いと思いながらも、一口わたくしの口元にも持っていったそうです。幼いわたくしはそれをしばらく見つめてから口にし、うっとりと味わっていたそうです。その恍惚とした表情に、ミリアムにも食いしん坊の血が伝わっている、と父母は笑ったそうです。
ダニエルズはそれ以降我が家のお気に入りとなりました。ダニエルズとは、オーナーパティシエの奥様であるお店のマダム、ダニエルさんの名前を冠したものでした。本来シェ・ダニエルとなるところだったのですが、音の響きが親しみやすいからと、ご本人のマダムが「ダニエルズ」の名を希望されたそうです。
そう、ケーキだけでは無く店のたたずまいをも気に入った父が、母とわたくしを店に連れて行ってくれてから、わたくしたちも小さなダニエルズのお店そのものがお気に入りとなりました。オーナーパティシエとマダムが、丁度お店を開店させたばかりの頃でした。
小さな店であり、接客のため店舗エリアに待機しているマダムは勿論、オーナーパティシエも気軽に店舗エリアに顔を出し、父母とわたくしと言葉を交わすことも珍しくありませんでした。オーナーは新しい可能性にとらわれ続ける研究者のような方で、このカカオ豆を使ってみたい、使うとするとどんなチョコレートにするか、そうすると調和する粉は何か砂糖は何か、その場合の焼成温度はどうするのがベストか、常に追求しているのです。マダムもオーナーに負けず博識な方でした。食いしん坊一家には興味深い話ばかりで、お店に伺うのが楽しみでした。
わたくしのお誕生日は、必ずダニエルズのザッハトルテでお祝いでした。わたくしに甘い父母のことですもの、誕生日に限らず何かお祝い事があれば、ダニエルズのケーキで祝ってくれました。それがザッハトルテのこともありました。ただ、お誕生日は必ずザッハトルテ。その濃厚なチョコレートのケーキは、幼い頃は一口だけと決められていて、お誕生日も、父母から分けてもらう一口用ザッハトルテの他にフルーツののった華やかなケーキを準備してくれていました。そちらのケーキも掛け値無しに美味しいのです。しかし、何が一番好きかと問われれば、断然ザッハトルテだったのです。学園小等部入学の年にはじめて、ザッハトルテもカットケーキ1個分を許されました。
その年の誕生日は、父が特別にダニエルズにお願いして、カットケーキ1個分くらいのホールケーキ、子供の手のひらくらいの大きさの丸いザッハトルテを作って頂きました。この、つやつやした綺麗なザッハトルテを小さいながらもホールで頂いたときは、感動で打ち震えました。食いしん坊ですから。
オーナーの追求とともに変遷するザッハトルテの味を、ほぼすべて知っていることが密かな自慢でした。
やがてダニエルズは、時とともに高い評価を得て表通りに移転、粋な雰囲気はそのままに、店舗は大きくなり、カフェスペースも新設されました。
オーナーパティシエが気軽に出てこられるお店でなくなったのは少々残念ですが、評価されるのも当然のこと。表通りへの出店のお祝いを申し上げました。
この頃オーナーパティシエが遊び心で作ったものがありました。それが今では有名になったダニエルズスペシャルボックスです。ごく稀に40個近くのケーキを購入される方があるのですが、ケーキの箱7つ位に分かれてしまうのがどうにも不粋に見える。そこで、40個前後のケーキを入れることのできる、浅い直方体のしっかりとした箱を作ったのです。もちろん材料は厚みのある紙で、蓋と本体が分離する「箱」です。大人が下から支えてそっと運ばなければならない位の大きな箱。彩色が施され、側面の金のラインと表面に小さく入った「ダニエルズ」のロゴがしゃれていると評判になりました。一見巨大な宝石箱の様でした。大量に購入される方は極々まれだろう、密かなサービスになるだろう、というオーナーパティシエの思惑を外れ、ダニエルズスペシャルボックスでケーキを購入することが一種のステータスともなったのでした。
また、ご存じのように、ダニエルズスペシャルボックスでのケーキ購入者はプレゼントとして陶器でできた小さなキャンディーボックスを頂くことができましたが、これを小物入れとして使うことが密かなステータスとなったのです。
キャンディーボックスは箱と同じ色で、蓋には文字が入っていました。購入者は、複数のキャンディーボックスから、ふさわしい文字が入ったものを選ぶことができました。
わたくしも蓋に「いとしい娘に」と書いてある若葉緑のキャンディーボックスと、蓋に「愛する家族へ」と書いてある夏の青空色のキャンディーボックスを持っています。どちらも父母がダニエルズスペシャルボックスでケーキを購入したときに、私に贈ってくれたものです。
普段使いの小さなアクセサリーを入るボックスにして、大切にしています。購入者へのサービスであるとは思えないほどの綺麗なキャンディーボックスで、時折用も無く取り出しては手のひらに載せて眺めることもありました。
父母は、わたくしの学園入学の数年後、領地へ移動し王都にはおりません。もうお誕生日にケーキを買ってもらうことはありませんでしたが、そのこと自体を寂しく思うことはありませんでした。
誕生日には、両親は心のこもったプレゼントを領地から贈ってくれます。
そして、幼い頃からダニエルズのザッハトルテでお祝いしてもらった記憶があるのです。その記憶に心からの満足をおぼえていました。
また、両親が領地に移動して後、月に一度はダニエルズカフェで、本を読みながらケーキ(多くの場合新作ケーキ)を堪能するのが新たな楽しみになりましたから、特に誕生日にダニエルズのケーキを望むことも無く、ダニエルズのお誕生日のケーキは、両親が王都に戻ってきてからまた一緒に楽しめたらよいな、位に思っていました。
このダニエルズカフェに関しては、父母との約束がありました。領地に移転する前、これから本格的なインフラ整備が開始されることを知っていたわたくしは、お小遣いの減額を申し出ました。すかさず却下されました。
「突然のことではなく長期間にわたることだから、予算計画は無理なく組んでるわ。資金がたまったから整備を開始するの。無理を重ねては破綻するしね。あなたのお小遣いも減らさない。学園で多少のゆとりが無いと勉強でも交友関係でも辛いと思う。
ダニエルズのケーキを買って家族で食べることはしばらく出来ないから、これからは、ダニエルズカフェに行ってみるとよいわ。先日ダニエルズに立ち寄ったとき領地に戻る話もしてね、今後ミリアムがカフェにお邪魔します、ってお話ししといた。マダムも大歓迎ですって。ザッハトルテにあわせてダニエルズのコーヒーも是非賞味していただきたいっておっしゃってたわ。ベストマッチをオーナーとマダムで研究されたそうよ。遠慮しないで、月に一度位はダニエルズカフェに行って。新作ケーキの報告もしてね?」
父も母もわたくしをぎゅうぎゅう抱きしめて、そして領地へ出発しました。
最初は恐る恐る利用したダニエルズカフェですが、マダムの歓迎も温かく、学年が上がるにつれ、欠くことのできない場所になってゆきました。連絡しておくと、当日であってもマダムは、観葉植物が店内の他のテーブルからの視線を和らげてくれると同時に、大通りをガラス越しに見渡すことが出来る1,2人用の居心地の良い小さな席を確保しておいて下さるのです。勉強でも、交友関係でも、疲れてしまったとき、カフェテーブルについて窓の外を眺め、(お行儀は悪いのですが)観葉植物越しに学園とは関連のない人々のおしゃべりに耳を澄ませ、オーナー新開発のケーキにマダムおすすめの飲み物をいただく。それで学園の外にも世界があることを再認識できるのです。苦しいときはそれだけで呼吸が楽になりました。
特に、定期考査で上位に入らなければならなかった時期は、文字を見ても読めない、文字として認識できないところまでくると、マダムの歓待と世界一のケーキ、そして居心地の良い空間を求めて、ダニエルズを訪れました。
父母と離れ学園生活を送るわたくしにとって、いつか、このダニエルズのマダムが整えて下さる空間が、大切なそして必要不可欠な憩いの場所となっていたのです。
ダニエルズカフェから大通りを眺めていると、たまに、ダニエルズスペシャルボックスをそっと抱えているのに、そのまわりをはしゃぐ子供に足を取られそうになって、困った顔をしている父親らしき姿を見かけることがあります。何かお祝い事でしょうか。待ちきれなくて父親と一緒にお店にやってきたのであろう子供は嬉しくて仕方がないのでしょう。なんとも微笑ましい光景です。
この、一種のステータスとなったダニエルズスペシャルボックスですが、オーナーパティシエが全く意図していない方向にも進み、箱の色に意味を持たせる方が出始めました。緑は友達や家族に、青はかしこまった贈り物に、そしてピンクは恋人や婚約者に。
私も父や母に、婚約者ができたらピンクのダニエルズスペシャルボックスを贈ってもらいなさい、その時は父や母にも、是非ケーキ分けてね、沢山分けてね、などとからかわれたものです。
マリエル様のお誕生日に、フィリップ様がダニエルズのスペシャルボックスを差し上げて、クラスメートたちでお祝いしたと聞いたのは春頃でした。
ピンク色のボックスだったと教えていただきました。




