プロローグ
風が頬を強く叩いて通り過ぎて行く。
陽の光は近く、それは暖かいはずなのに、それでも肌寒さを感じるのは、季節のせいではなくこの場所のせいだ。
辺り一面を覆い尽くさんばかりの草原が、風に撫でられ、まるで白波が走るように滑らかな線を描いている。
無意識に、それを視線が追っていた。
遥か彼方に、曖昧に滲んだ蒼と翠の稜線が見える。
あの場所まで向かうには、何日歩けばいいのだろうかと、取り止めもないことを考えた。
不意に遠くで、大地が鳴る音がした。
轟音を立てて崩れ落ちる音。
大地の形を保つには、自分一人の力では到底足りることはなかった。
「魔力があっても大変なんだよ?」
少し悪戯っぽく口角を上げて、誰かを責めるような仕草を交えて独り言をこぼす。
それから虚空を見上げ、陽の光を遮るように片方の手で庇を作る。
「まったく、いつになったら帰ってくるのやら……」
その声を聞き留める相手はいない。
──少女は孤独だった。
少しして、自嘲するような表情をして、草の上に寝転がって「ハハハ」と声をあげて笑った。
声は笑っていたけれども、頬を伝う涙を誤魔化すことはできなかった。
・
少女は、母の血のおかげで時間の進みが緩やかだった。
その血に気付いたのは、もう随分と昔のことだ。
父の血のおかげで、他者の間に紛れることができた。
それは長くは続かなかった。
その血が忌み嫌われるものだという事実に、少女は程なくして、否が応でも気付かされた。
世界はその血を拒絶した。
父は少女の存在のせいで居場所を無くした。
彼は母と少女を残し、何処かへ姿を消した。
逃げたのか、奪われたのか、真実を知る術はもうない。
母は少女を連れて故郷に戻った。
少女の血は、彼女から母を奪った。
まだ十にもなっていなかった少女は、世界から独りで生きることを突きつけられた。
少女はそれを受け入れ、孤独であることで世界と繋がりを保つことにした。
一人で生きていくには、知恵も知識も経験も、何もかもが足りなかったが、それでも少女は生き長らえ、やがて少女の前に降り立った彼女(彼)と邂逅した。
それは必然だったのか、それともただの偶然だったのか、いずれにせよ、少女は彼女(彼)から世界の力を与えられた。
望んでなどいない力。
押し付けられた力。
「それは、ある女神の願いなんだ」と、そう言われはしたが、女神の願いなど少女には関係がなかった。
ただ共に歩き、旅をし、歌を教えてくれる彼女(彼)が側にいてくれることが、心強く、温かだった。
やがて不運が訪れ、少女はその命の時間を止めようとしていた。
それを掬い上げ、無償の善意を向ける人物が現れた。
彼の心根を知る手立てはなかったが、少女は初めて、誰かのために生きようと思った。
それは恩義なのか、それとも別の感情だったのか、少女自身もそれを見極めることはできなかった。
その彼が何者かに命を奪われ、世界はまた、少女に牙を向けようとした。
だから、少女は彼女(彼)から与えられた力を使い、彼を救った。
彼女(彼)の忠告を聞き、少女は彼の前から姿を消した。
──それが終わりで、始まりだった。
・・・
立ち上がって振り返る。
蔦が絡みついた、この世界を創った神を祀る神殿が目に入った。
「神の奇跡なんて、人を惑わす災厄でしかない……」
瞼を伏せて神殿から視線を外し、かつては通路だった石畳に裸足で降り立つ。
たった数年で、人の手を離れたそれは、隙間から草が顔を出すほどになっていた。
脚に触れる草の感触を、くすぐったく思いながら歩き始めた。
力とは神の奇跡。
世界は、力を宿す『私』という器を奪い合う争いを始めた。
女神の願いを叶えるための力は、その願いとは裏腹に、四十年もの長い間、六王国を災厄に陥れた。
少女だった私も大人になった。──そして気付かされた。
私は、失敗したのだ。
女神と、彼女(彼)の願いを叶えることに。
残された手立ては、争いを止めること。
各地で起きる不毛な争いに介入し、理不尽な力で彼らを屈服させた。
それでも止めようとしない争いを、圧倒的で、抗いようのない力を示し、彼らの戦意を消失させた。
大陸から大地を引き剥がした。
後悔など、していない……。
乱暴に、頬を伝う涙を拭う。
草原を駆け抜けてきた風が、優しく髪を撫でた。
気ままに、向かう先など決めもせずに歩き出す。
大地の際まで行って、この身を投じれば全てが終わるだろうか……。
きっと、何も変わりはしないだろう。
自らが招いた結果には、自分で幕を引かなければならないだろう。
視線の先に、一際大きな木が立っていた。
木の名前は知らない。
ひとまずあそこが目標だと、適当に決めて歩を進める。
時間ならたっぷりとある。
父の一生分の時間をかけて大地を巡るのも良いだろう。それを咎める者はどこにもいない。
少しずつ近付いてくる木に目が奪われる。
太い幹と、しっかりと大地に張った根。炎が燃えているような、橙色の葉。
通り過ぎる風がその木を揺らすと、数枚の葉が風に乗って飛ばされていった。
その葉を追った視線の先に、それは静かに佇んでいた。
真っ白な外套。
目深に被った尖塔帽。
木の葉を染め上げるような、風に靡く真っ赤な髪。
朧げに揺らめく輪郭は、それが人ではないのだと知らしめているようだった。
「こんな辺鄙なところへようこそ」
臆することもなく声をかけた。
その声に、微笑んでいるような表情を返してきた。
「あなたは……」
言いかけて頭を振って口を噤んだ。
この地に私が知る人などいないのだ。
少しして、それは胸元から書状を取り出すと、私に手渡すように差し出してきた。
見覚えのある紋章。
幻だと分かっていても、あの時の、命を掬い上げてくれた人の匂いがしたような気がした。
胸の内が温かくなる感じがした。
きっと、結末は悲劇にしかならないだろう。
それは分かりきってはいたけれども、私はあの人のためにここから降りる必要がある。
「気付いてくれるかな……」
書状を受け取り、それを強く抱きしめた。
──世界は優しくはなかったけれど、彼女は世界に優しくあろうとした。




