2-43
フレアがオリーの部屋に入って真っ先に口にしたのは、放浪の魔女の話だった。
「塔の上で魔女がお休みしているらしいです!」
すでに日は落ちていて、辺りはすっかり暗くなっていた。
それにも関わらず、通りの人だかりはまだ消えておらず、皆口々に放浪の魔女の話をしているらしい。
真っ白な装束を纏い、真っ赤な髪を靡かせて空を翔る。
現れる理由も、その目的もわからず、古い文献には災厄の前触れだという記載さえ存在している。
興奮冷めやらずといったフレアを落ち着かせ、書き写してきたはずの石碑の文字を見せるように促した。
「オリーなら読めるはずです」
フレアから根拠のない自信が感じられる。
ニコニコしながら鞄から取り出した手帳を受け取った。
フレアがいつも持ち歩いている、掌ほどの小さな手帳のページをめくる。
「そこはヘフタんの覚書ですね。次のページです」
フレアに言われてめくったページに、書き写してきた石碑の文字が現れた。
今は使われていない古い時代の文字。
学園で学び、全てではないにしても、大方は読めるようになった文字。
読み解くことができるようになった文字が示したのは、つい先刻、詩人が書き綴った歌詞と同じものだった。
蒼穹染める緋糸の息吹……
一言一句違わない文字に、オリーは息を呑んだ。
「ヘフタんを切り飛ばそうとしたら、地面に穴が空いたのです」
言いながらフレアが笑う。
フレアの魔法の威力に驚きもするが、それよりも、石碑の文字と詩人の書いた歌詞が同一であるという事実に、呼吸も忘れてしまいそうになっていた。
地面に空いた穴から出てきた石碑。
それは、誰かがいたずらに埋めるにしては大業過ぎるだろう。
古語が使われていた時代の、詩碑とでもいうのだろうか。
共通する詩編の存在に、オリーはひたすらに混乱した。
「なんて書いてあるのです?」
フレアが手帳を覗き込みながら訊ねてくる。
その声に我に返ったオリーは、詩人から受け取った、歌詞が書かれた紙を取り出してフレアに見せた。
「同じ……ですね?」
フレアの独り言に頷いて、それが『放浪の魔女』の唄の歌詞だと告げる。
小首を傾げるフレアに、オリーは静かに答えた。
「書かれている文字は一緒で、内容はたぶん、楽しいことではなさそう」
-
青空が、まるで赤い糸を張り巡らせたような不気味な夕焼けに飲み込まれていく
その正体は、底知れない不気味な災いの影が動き出している気配
ついにしんしんと冷え切ったような、逃れられない静寂がすぐそばまでやってきた
黄昏時なのに、もう死後の世界の夜のような暗さが漂っている
明け方になっても、希望の光が差し込むことは決してない
ただひたすらに、終わりのない暗闇の中を虚しく回り続ける運命を待つだけ
・
蒼い海月亭のいつもの中二階の席で、オリーとフレアは夕食をとっていた。
テーブルの中央には、フレアの手帳と詩人が書き記した紙が置かれている。
「よくわからないですね」
オリーに詩の訳を聞かせられたフレアが、顔を顰めながら果実茶に口をつける。
フレアの感想の通り、この詩篇を噛み砕くほどに、ただただ不穏になっていくばかりで、何を伝えたいのかわからなくなっていく。
「もっと単純に考えたら良いのかな?」
オリーの思考は、考えるほどに拗れていく。
「放浪の魔女の唄だから、きっと放浪の魔女のことを書いているはずです」
フレアの言う通り、詩篇は『放浪の魔女』の唄なのだ。
一度思考を白紙に戻す。
もっと単純に、放浪の魔女の唄であることを念頭に置いて……。
「緋糸……、赤い糸……、魔女の髪……」
オリーが独り言をこぼす。
「空に魔女が現れた時……」
そこまで言って、オリーは頭を抱え込んで項垂れた。
詩編の全てを読み解こうとすれば、それは必然的に不穏な内容になってしまう。
そうだとしても……、そうであるならば、詩篇が伝えたいことを正しく受け取らなくてはいけないような気がしてくる。
今にも呻き声が出そうなオリーの様子を見ていたフレアが、空になったグラスをテーブルに置いて、明るい声で話しかけてきた。
「放浪の魔女が現れたら、何か良くないことが起きる。
たったそれだけのことかもしれないですよ」
実に単純で、それを聞いた後では、もうそれ以外には考えられないほど単純なもののように思えた。
「月が赤いと、『天空の瞳が朱に染まった』とかいう、あれと一緒です」
フレアが笑いながら話す。
古くから伝えられた放浪の魔女の唄は、魔女の出現と、それに関わる災厄を繋げるための唄なのかもしれない。
深く考え込むのはよそう。
オリーはそう考えて、すっかり冷めてしまった夕食に手をつけた。
翌日の朝早く、それは訪れた。




