2-20
大聖堂を出て宿に戻った頃には、酒場の喧騒も聞こえないほどに夜が更けた時間だった。
そろりと開いた宿の戸の向こうでは、大方の明かりが消されたロビーの奥で、主人が受付カウンターでコクリコクリと船を漕ぐように眠りこけていた。
起こすのは申し訳ないと思いつつも、部屋の鍵を預けている以上は起こさないわけにもいかず、到底人を起こすような声量ではない、小さな声で呼び掛けた。
それでも、人の気配を察知したのか、はたまた宿の主人が持つ特殊技能なのか、主人はハッとして目を覚ますと、目を擦りながら二人を確認して、笑顔で「おかえりなさい」と返事をした。
オリーとフレアはその一連の動作に驚きつつも、主人の笑顔に心底癒された気分になった。
「伝言を承っていますよ。
『明朝街を出るので、準備ができたらファングェンリングへ来て欲しい』
だそうです」
終始にこやかな主人は、その後で「よかったら夜食にどうぞ」と言って、スモークされた羊肉を挟んだパンを渡してくれた。
少し硬くなりかけたパンと部屋の鍵を受け取り、丁寧にお辞儀をした後で、二人は気付かないうちにクタクタになっていた身体を動かして、どうにかこうにか二階の部屋に戻った。
開けたままの窓掛けのおかげで、水面に街の明かりを反射するルーミレル湖がよく見えた。
取るもの取らずに、そのままベッドに飛び込みたい気持ちを抑えて、まずはベアトリクスをベッドに寝かせた。まだ目を覚ます気配はない。
その後で、部屋の片隅に置かれているテーブルに移動して、貰ったパンに齧り付いた時、ようやく自分が空腹なのだということを思い出した。
口内の水分を奪われながらも、無心に咀嚼を繰り返す。
温かいスープが欲しいと感じながら、今後の行程に思いを馳せると、ゆっくりと湯浴みでもして疲れを取りたいと思いついた。しかし、眠気には勝てそうもなく、お湯を浴びるだけで済まそうと決めた。
早々に休む準備を整えて昨夜と同じベッドに潜り込もうとすると、そこには、先に用意を済ませて隣のベッドで眠りに就いているはずのフレアが、ベアトリクスにくっつくようにして眠っていた。
律儀にもベッドの隅の方で寝ているところを見ると、三人川の字で寝ることを想定しているようであった。
呆れ声が自然と漏れたが、だからといってフレアのベッドで寝たら寝たで、翌朝に憤慨されるのは目に見えていたものだから、仕方無しに空いている側に身体を潜り込ませた。
幸いベッドは大きく、三人が並んだところでまだ余裕はあった。
果たしてこんな状態で眠れるものだろうかと、目を閉じた次の瞬間には、深い眠りの中に落ちていた。
・・・
ルーミレル湖に朝靄がかかっている時刻に目が覚めた。
ほんのりと明るさを取り戻しつつある街並みが、湖から来る霧に包まれて幻想的だった。どこから聞こえてくる鳥の鳴き声も、新しい朝が来たことを告げているようだった。
フレアはいつの間にか自分のベッドで寝ていた。おそらくは、隅の方で寝ていたことで、寝返りを打った拍子に転げ落ちたのだろうと想像した。
馬車のキャビンで寝ている時とは大違いだなと、無意識に笑みがこぼれた。
盆地の朝の冷え込みは想像以上で、急激に目が冴えてくるのがわかった。
ベッドの誘惑に抗いつつ、何とか身を起こした。これからレイフォルスを出て、王都へ向かう旅に戻るのだ。
アウギュリエスの伝言では、朝に街を出るという。宿を出る準備と、難題であるフレアを起こす儀式を行わなければならない。
オリーは意を決するように、両手で頬を軽く叩くと、勢い良くベッドから飛び出した。
・
宿の主人に挨拶した後、ベアトリクスを抱きかかえながら、足を引き摺るようにして歩くフレアの手を取り、ファングェンリングへと向かった。
扉を開けて店内に入ると、一昨日の夜に入店した時とは異なる、朝の活気に満ちた空気が押し寄せてきた。
湖から戻ったばかりの漁師やこれから出発する様子の旅人。もちろん街の人の姿も確認できた。
その活気づいた人の中から、オリーとフレアを見付けたアウギュリエスが、手を挙げて二人を呼ぶ姿が見えた。
大きなテーブルに座ったアウギュリエスの周りには、グロムの他にヤーシーやマーニ、ニックの姿もあった。
レイフォルスを立つ前に、昨日の面々と顔を合わせられたことに、胸の奥が温かくなるような気持ちになった。
「ニックはもう大丈夫なのですか?」
席に着くなりフレアが声を掛けた。
ニックは少し照れたような表情で頭を掻きながら立ち上がると、二人に深く頭を下げた後で少しよろめきながら礼を述べた。
「リヴィとレイのお陰で命拾いした。
この恩は簡単に返せるもんじゃないが、返せるようになるまで少し待ってくれ」
マーニに支えられながら着席したニックは、一晩寝ただけでは完全に復調したわけではなさそうだった。それでもこの場に姿を見せたのは、オリーとフレアに感謝を伝えたい一心だったからだろう。
「こっちから声を掛けておいて、リヴィやレイが負傷していたら立つ瀬がなかった」
ニックはそう言って苦笑いとも取れる表情を見せた。
その様子にオリーもフレアも居た堪れない気持ちになった。
冒険者として北の村に同行したからには、怪我の一つや二つを負う覚悟はできていた。怪我一つ無く無事に戻ってこられたのはニックのお陰であり、礼を言うのはこちらの方だと、自責の念にかられたからだった。
二人は素直に「こちらこそありがとう」と礼を言った後で、「でも」と続け、「恩は早めに返してね」と冗談を交えて笑顔で答えた。
はじめはきょとんとしていたニックだったが、徐々にニヤリと笑みをこぼして「ああ」と答えた。
沈みかけたテーブルは、その一言で和やかな空気に一転した。
改めて全員が椅子に座り直したところで、あらかじめ注文されていたであろう朝食が運ばれてきた。
温かな湯気を立てたスープと、目玉焼きの乗った黒パン。クリームチーズが添えられた薄切りのスモークトラウトが、見た目にも食欲をそそった。
「食べながらで構いません」
アウギュリエスが食事を促す。
皆食事への感謝の祈りを捧げた後で、目の前の料理に手をのばした。




