22 【紅の炎と、白の氷と・2】
著作者:なっつ
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口を固く結んだグラウスに、情け容赦なく氷塊が叩きつけられる。
尖った切っ先が服の袖を切り裂き、手の甲に紅い筋を滲ませる。
「それくらいたいした痛みじゃないよね? 俺の味わった痛みに比べたら」
覚えているのなら、いや、覚えていなくても、私は償わなければならない。
手から血が滴り落ちる。
手だけではない。全身に細かな痛みが走る。
でもきっと、こんなものは痛みに含むことすらおこがましい。
「何を、されたのですか? あなたは何度聞いても答えては下さらない」
魔王役に就任する直前まで、彼の身に何があったのか。
再会してからのこの10年、ことあるごとに探りを入れてみた。しかし彼は1度たりとも答えてはくれないし、それどころか何もなかったような顔で笑うだけ。
何もなかったような――なにもかも、忘れてしまった顔で。
そして今も。
目の前の青藍もその問いには答えない。答えないまま、氷塊をひとつ手に取る。
すっ、とその形に合わせて横に手を滑らせると、手の動きに溶けるように氷塊が氷の剣に姿を変えた。硝子のような細い刃に、月の光が反射する。
「お前は何も守れない。俺を倒すこともできない」
くるりと手を返し、刃をグラウスの鼻先に向ける。
「守ります」
その切っ先を握り、グラウスは膝をついたまま青藍を見上げた。
「お前は俺に手を上げられない。俺の許可がなければこの身に触れることすら叶わない。……そうだろ?」
「あなたが、青藍様なら」
握った掌から紅いものが滴っていく。
それは透明な刃を紅く染め、さらに床をも染めていく。
彼の一族を指す「メフィストフェレス」は古くから伝承の中に現れていた悪魔の名のひとつ。
「王」という統べる者を持たず己の能力でその優劣が決まっていく魔族の中でも、古くから知られる名を持ついくつかの家柄だけは別格扱いされている。
ただの貴族ではなく「上級」と冠されたその名称には、古くからの権威にしがみつく滑稽さを嘲りたい思いと、どれだけ力を付けても彼らの高みに辿りつくことのできない苛立ちと、その長けた魔力に純粋に憧れる気持ちとが混ざり込んでいる。
多くの魔族にとって、そのひと握りの「上級」は雲の上の存在でしかない。
そして「上級」の彼らは、その権威を守るために制約を作った。
いつか崩れるかもしれない自分たちの地位を守るためだけに作ったようなその制約は――陰で異を唱える者もいるだろうが――未だ忠実に守られている。
そのひとつ、「身分の低いほうから高い者に触れたり、声をかけてはいけない」という文言は、知らない者がいないほど有名な制約。馬鹿げた話だが、それを理由に処罰された者も多い。
裏返せば、「高い能力を持つが故にいつ下剋上に走るか危うい者を、事前に葬るためのもの」とも言える。
要するに罰する口実として最も多く使われて来たものだ。
上級貴族である青藍の身に、許可なしに触れることはできない。攻撃などもってのほか。
熱を測る時と抱き上げる時には一応断りを入れたが、あれだって本人のあずかり知らぬことだと言われてしまえば制約を破ったと同じことだ。
声をかけることにしろ身に触れることにしろ、業務に支障が出るから気にするな、と他でもない彼が言うのでこの10年好き勝手にやらせてもらっていたけれど、魔界で同じことをすれば何回首が飛んでいるかわからない。
この状況にしても青藍自身は咎めたりはしないだろう。
ガーゴイルたちのように制約を知る第三者から見たとしても、主を救うために仕方なく禁忌を破ったのだとわかってもらえるだろう。
だが。
当の本人が構わないと言っても、罰する理由があり、罰せようとする者がいるのは事実。
自分が青藍のそばに貼り付いていることを疎ましく思っているあの男など、その筆頭と言える。
「でもあなたは青藍様じゃない。ただのドラゴン。そうでしょう?」
目の前にいる人は、あの人ではない。
ただの氷を操るドラゴンでしかない。
だから、触れてもいい。攻撃しても構わない。
欺瞞だと罵しられるだろうか。しかし、こうして自分を正当化するしかない。そうしなければ動けない。
その間にも、グラウスの足元は凍りついていく。
氷の柱が生き物のように生えてくる。
尖ったそれは無数の棘となって、動こうとすれば、その足を貫く。
「この姿を前にして、まだ俺がドラゴンだって言える? この氷を見て、まだお前の主人だと言える? ドラゴンもお前の主人もない。もう既にひとつなんだよ」
何かの儀式を執り行っているようにも思えたその剣を、青藍はずるり、と引き戻した。
グラウスの手の中で刃が滑る。
舞い降りる氷の結晶の中で、血の粒が紅く散った。
グラウスの周囲に生える氷の棘が、さらに大きくなっていく。
1本1本が長く、高く、まるで檻のように伸びていく。その隙間を、さらに小さな棘が埋める。
刃先の汚れを指先で拭いながら、青藍は含むような目を跪いたままのグラウスに向けた。
「だからね、」
何を企んでいるのか、声が弾んでいる。笑みが零れる。
「お前がご主人様とひとつになるのは嫌だって言うから、俺が貰っちゃっ、」
「その誤解を招く言い回しはやめて頂けませんか!?」
階下にはまだルチナリスもガーゴイルもいる。
逃げるどころか興味津々に聞き耳を立てているであろうことは、彼らの性格からすれば容易く推測できる。そんなところで、関係が疑われるような発言はしないでほしい。
集団でいるから気が大きくなっているのだろうか。ルチナリスなどは実際に食べられそうになっていたのだから、さっさと避難してもらいたいのだが。
「へぇ? そんな恋人を寝取られたみたいな顔してるのに?」
「違う!」
この想いはあの人への忠義。
………………それ……だけ、だ。
「あなたとて、ひとつにはなれないでしょう?」
氷の棘の中に跪いたまま、グラウスは呟く。
「炎属性の青藍様と氷しか使えないあなたとは相容れぬ存在。今は青藍様の意識がないから自由に使えているのでしょうが、そのうち追い出されるのが関の山です」
目の前にいるこの人は、青藍ではない。
青藍ではないから、触れることも攻撃することも問題にはならない。
グラウスは暗示のようにその言葉を噛み砕いていく。
入り込んだドラゴンを追い出し、あの人を取り戻す。
目の前の「これ」は、あの人ではない。何故あのことを知っているのか、単なる偶然の一致なのかはいくら考えたところで無駄なこと。
これはあの人ではない。
あの人ではない。
あの人では……。
「意識? そんなものはとうにないわ」
青藍の口調が、ふいに戻った。その変化がグラウスの思考を止める。
今まで彼の口調で喋っていたのに、この急な変化は何だろう。
乗っ取られたといっても「彼」はあの中で眠っているだけで……眠っていて意識がないからドラゴンが幅を利かせているだけのことで。
回復の早い彼のこと、そろそろ熱も下がるだろう。復活の兆しが見えてもいい。
それが口調の変化だとしたら。
奪われていた何かを彼がドラゴンから取り返した証なのだとしたら。
そんな期待したような顔をしていたのだろうか、青藍がどす黒い笑みを浮かべた。
「……深淵に叩きこんでやったからな」
深、淵?
目が覚めたわけではないのか?
どこを指して深淵と呼んでいるのだろう。深層意識のあたりだろうか。そんなにも深い眠りについているのだろうか。
一瞬そんなことを考えたグラウスの目の前に、また左手が差し出された。
今度は握手を促すような形ではない。意味をはかりかねたように向けた視線にも、青藍はただ笑みを貼りつかせて手を差し出しているだけだ。
そして――。
パチッ、と小さな音を立てて手のひらから揺らめき上がったのは、見慣れた炎の竜だった。だが、少し違う。
日頃、魔王が繰り出している竜とは比べ物にならないほど小さく弱々しいそれは、苦しげに身をよじらせたかと思った刹那、弾けるように霧散した。
グラウスは目を見開いた。その目に怒りが浮かぶ。
炎の竜の消滅。それの意味することは、教えられるまでもない。
「お前の主は既に捕えた」
青藍は笑う。軽やかに、楽しげに。
「消えるのも時間の問題だ。いずれこの体は本当に私のものになる」
せせら笑う声がホールに響く。
嗚呼。
これは彼の笑い声じゃない。欠片ほども彼ではない。





