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第5話 堕天使、降臨

第一節 空席の名前


第四戦から三日後。

山本駆は、病室の窓から見える空を眺めていた。

「そんな顔するなよ」

背後から声がした。

鈴木翔は、医療支援用のベッドに身体を預けている。以前のように起き上がることはできない。それでも、笑うときに片方の口角が先に上がる癖は変わらなかった。

「どんな顔だよ」

「負けた日の顔」

「今日はレースじゃないだろ」

「だったら、事故のことを考えてる顔だ」

駆は言い返せなかった。

隣で佐藤匠が小さく咳払いをする。

「翔。こいつ、第四戦では少し賢くなったぞ」

「へえ。何を覚えた?」

「機体の警告を無視しないこと」

「遅いなあ」

翔が笑う。駆もつられて笑った。

三人で笑うのは、久しぶりだった。

ベッドの脇には、小さな端末が置かれている。翔の視線と生体信号に合わせて操作できる特別な装置だ。画面には、第四戦で黄金のヨフィエルがラファエルを抜いた瞬間が静止していた。

「この追い抜き、良かったよ」

翔が言った。

「本当か?」

「昔のお前なら、もっと手前で無理に入ってた」

「みんな同じこと言うな」

「だって本当だろ」

匠は黙って頷いた。

駆は映像を見つめた。

「なあ、翔。いつか、また一緒に見に行こう。あのサーキット」

翔は少しだけ目を細めた。

「見るだけか?」

「……いや」

駆は言い直した。

「一緒に走ろう」

翔は笑った。

「その言葉、忘れるなよ」

窓の外で、白い雲がゆっくり流れていった。



第二節 十三番目の登録


第五戦を控えたSERAPHIM GRAND CIRCUITでは、朝から報道陣がざわついていた。

公式の参加者一覧に、見慣れない一行が追加されていたからだ。

『第十三登録車両 SERAPHIM X-06』

その下には、機体名が記されていた。

LUCIFER。

堕天使の名。

『これはいったい、どういうことでしょうか!』

公式放送の解説者が声を上げた。

『従来の十二チームとは別枠の登録です。大会運営は、開幕前から開発車両の特別参加枠が存在していたと説明しています。ただし、出走には通常の車検に加え、専用の安全審査を通過する必要があります』

十二チームのガレージにも情報は届いていた。

TEAMミカエルのルーカス・ヴァイスは、端末の画面を静かに読んだ。

「新型……?」

深紅の機体を囲む技術者たちの間に緊張が走る。

TEAMウリエルのジャック・ハリソンは、面白そうに笑った。

「十二台じゃ足りないってことか」

TEAMラファエルのエリック・リンドベリは、別の点を気にしていた。

「新しい操縦方式? 安全審査の内容が知りたい」

一方、ヨフィエルのガレージでは、駆がその文字を何度も読み返していた。

「……ルシファー」

匠は、何も言わない。

「X-06って、まさか」

「駆」

匠の声は低かった。

「まだ、正式な発表を待とう」

駆は匠の顔を見た。

何かを知っているのか、と聞きかけて、やめた。

翔の病室で交わした言葉が、胸に戻ってきた。

一緒に走ろう。

あれは、ただの励ましではなかったのかもしれない。



第三節 漆黒の試験


同じ朝、開発施設の試験棟。

漆黒のSERAPHIM X-06は、専用の固定試験台に載せられていた。

白い照明を受けても、車体の黒はほとんど光を返さない。外装のわずかな曲面にだけ、深紅の線が浮かんでいた。

「生体信号の取得、開始」

「意図推定AI、起動」

「呼吸供給、正常。循環保護、正常」

鈴木翔は、特殊シェル式コックピットの内部にいた。

電子制御ジェルが身体を支え、ヘルメットから空気が供給される。自分の手足を思うように動かせなくても、脳波と生体パルスから操縦の意思を読み取る仕組みが用意されていた。

ただし、AIがすべてを決めるわけではない。

翔が何を望んでいるのかを推定し、その確かさを確認したうえで操作へ変換する。信号が曖昧なときには、車両は安全側へ移行する。

「翔、準備はいいか」

主任技術者の声。

「いつでも」

「今日は実走行の前に、最終的な安全停止の確認をする」

「分かった」

モニターに仮想コースが現れた。

翔は目を閉じる。

加速。

右へ旋回。

減速。

一つずつ、意思を送る。

漆黒の機体の姿が画面の中を走った。

『旋回意図、確認』

『操縦応答、正常』

次の瞬間、技術者が意図的に信号へ雑音を加えた。

『意図推定信頼度、低下』

仮想の車両が速度を落とす。

『安全保持モードへ移行』

「……止まった」

翔が言った。

「そうだ。君の意思が分からなくなったとき、勝手に走り続けない」

「これなら、もう一度試せるな」

主任技術者は一呼吸置いた。

「実走行の許可は、まだこれからだ。だが、ここまで来た」

翔は静かに笑った。

「長かったな」

誰も否定しなかった。

研究棟の窓の向こうには、まだ夜明けの色が残っていた。



第四節 黒い搬送車


第五戦前日の午後。

サーキットの整備区域へ、一台の大型搬送車が入ってきた。

荷台の扉には、企業名も国旗も描かれていない。ただ、小さく銀色の文字が刻まれていた。

SERAPHIM DEVELOPMENT PROJECT。

運営側の係員が立ち会い、厳重な確認の後に搬送車が開かれる。

中から現れたのは、漆黒の機体だった。

周囲の空気が変わった。

見慣れたX-05の輪郭を残しながら、外装の処理も、冷却系の配置も、細部が違う。大きく見せるための飾りはない。必要なものを、必要な場所へ収めたような姿だった。

「……あれが、X-06」

誰かが呟いた。

駆は、少し離れた場所で立ち尽くしていた。

純白の試作機。

黄金のヨフィエル。

そして今、目の前にある漆黒のルシファー。

すべては、同じ夢から生まれた。

「匠」

「……ああ」

「翔が、乗るんだな」

匠はゆっくり頷いた。

「そう聞いている」

駆は機体から目を離せなかった。

事故の後、何度も考えた。

もう一度走れる方法はないのか。

それでも、現実は簡単には変わらなかった。

だが、ここに答えの一つがある。

「本当に……戻ってくるのか」

声が震えた。

匠は何も言わず、駆の肩に手を置いた。

そのとき、漆黒の機体のそばで一人の技術者が振り向いた。

旧TEAM蒼穹で、三人と共に夜を明かしたことのある開発者だった。

彼は駆を見つけると、小さく頭を下げた。

その表情だけで、どれほど長い時間が流れたのかが分かった。



第五節 出走許可


第五戦当日の朝、特別審査の結果が発表された。

車体構造。

高出力駆動系。

SACCSによる吸着・姿勢制御。

特殊ジェルと生命維持スーツ。

神経系インターフェースの誤認識対策。

そして、操縦者の状態を含めた緊急時の停止・救助手順。

審査委員会は、すべての項目について確認を終えた。

『SERAPHIM X-06 LUCIFER。第五戦への出走を承認する』

会見場に、どよめきが広がった。

続いて、操縦者の名前が読み上げられる。

『鈴木翔』

駆は、モニターの前で息を止めた。

画面に映った翔は、専用の支援設備に身体を預けていた。だが、カメラへ向けた笑顔は昔のままだった。

「みなさん、こんにちは。鈴木翔です」

翔はゆっくり話し始めた。

「俺は以前、SERAPHIMの試験中に事故に遭いました。あの日から、もう走れないと思ったこともあります」

会場が静まり返る。

「でも、諦めなかった人たちがいました。日本で最初の機体を作った仲間たち。そして、その夢に技術を貸してくれた世界中の人たちです」

翔は一度、言葉を切った。

「LUCIFERは、俺一人の力でできた機体じゃありません。だからこそ、今日ここで走れることが嬉しい」

記者の一人が尋ねた。

「目標は優勝ですか?」

翔は笑った。

「もちろん、勝ちたいです。でも、まずは自分の意思でスタートして、自分の意思でチェッカーフラッグを受けたい」

その答えに、駆は目を伏せた。

匠が隣で言った。

「聞いたか」

「ああ」

「翔らしいだろ」

駆は頷いた。

「……あいつ、本当に戻ってきたんだな」

スクリーンの向こうで、翔が続ける。

「それと、昔の仲間に一つだけ言っておきたいことがあります」

駆は顔を上げた。

「待たせたな」

翔は、まっすぐカメラを見て笑った。

「今度は同じコースで会おう」



第六節 十三の翼


第五戦のスターティンググリッド。

十二台のX-05が並ぶ光景は、すでに世界中の観客に知られていた。

深紅のミカエル。朱色のウリエル。橙のラグエル。黄金のヨフィエル。黄緑のラファエル。緑のザドキエル。青緑のハニエル。水色のガブリエル。青のカマエル。藍のラジエル。紫のメタトロン。赤紫のサンダルフォン。

だが今日は、もう一台がいる。

漆黒のLUCIFER。

『皆様、ご注目ください!』

実況が叫んだ。

『開幕以来、十二の翼が競ってきたこの舞台に、十三番目の機体が加わりました! SERAPHIM X-06、LUCIFER!』

歓声と戸惑いが入り交じる。

『なお、X-06は特別参加枠での正式出走です。出走前の安全審査を通過し、他車と同様に競技管制と緊急停止の規定に従います』

駆はコックピットの中で、漆黒の機体を見つめていた。

通信回線に匠の声が入る。

『駆、聞こえるか』

「聞こえる」

『いつもどおり走れ』

「無理だろ」

『……だろうな』

匠も、少しだけ笑った。

そのとき、別の音声が回線に割り込んだ。

『駆』

懐かしい声だった。

駆は息を呑んだ。

「……翔?」

『久しぶりだな。コースで話すのは』

「お前……」

言葉が続かない。

翔は笑った。

『泣くなよ』

「泣いてねえよ!」

『声が変だぞ』

「お前こそ、無茶するなよ」

『それ、匠の台詞だろ』

二人の笑い声が、通信に重なった。

匠が割り込む。

『二人とも、レース前だ。無駄話はそこまで』

『はいはい』

『了解』

昔と同じ返事が、同時に返ってきた。

三人は一瞬、黙った。

それから、誰からともなく笑い出した。

スタートシグナルが赤く灯る。

駆は前を向いた。

翔も、意識を漆黒の機体へ向けた。

青。

十三台が一斉に飛び出した。

黄金と漆黒。

二つの翼が、同じ空へ向かって加速していった。



第七節 初めての一周


LUCIFERの加速は、派手ではなかった。

むしろ、驚くほど滑らかだった。

『生体信号、正常』

『操縦意図、確認』

『車体制御、安定』

翔の視界に情報が流れる。

自分の意思が、AIを介して車体へ伝わっていく。

加速したい。

少しだけ進路を変えたい。

次の区間へ備え、減速したい。

その一つひとつに、漆黒の機体が応えた。

「……動く」

翔は呟いた。

当たり前のことのようで、当たり前ではなかった。

かつて失った感覚が、別の形で戻ってくる。

路面の振動は、機体のセンサーから整理された情報として届く。加速度はジェルとスーツが受け止める。翔の身体が動かなくても、走る意思は消えていない。

前方では、深紅のミカエルが正確なラインを刻んでいた。

黄金のヨフィエルも、集団の中で機会を探っている。

『翔、次の区間は慎重に』

開発チームの声が届く。

「了解」

翔は少し笑った。

「まだ最初の一周だ。焦らないよ」

LUCIFERはコーナーへ入った。

操縦意図の信頼度が一瞬下がる。

『安全側補正、実施』

出力が穏やかに抑えられた。

翔は抵抗しなかった。

「分かってる。まだ行けるかどうか、確かめてるところだ」

機体は安定したまま、コーナーを抜けた。

その瞬間、翔の目に涙が浮かんだ。

「……曲がれた」

研究室の仮想映像ではない。

本物の路面。

本物の風。

本物のレース。

「俺、走ってるんだな」

通信の向こうで、誰かが小さく息を呑んだ。

やがて主任技術者が答えた。

『ああ。走ってる』

翔は笑った。

『それで、どうだ?』

「最高だよ」

その声は、かつて純白の試作機を初めて走らせた夜と同じだった。



終節 堕天使はまだ飛び始めたばかり


第五戦のチェッカーフラッグが振られた。

先頭集団は最後まで激しく争い、十二チームの技術力が拮抗していることを示した。

LUCIFERは、初めての実戦を完走した。

勝者にはならなかった。

それでも、漆黒の機体がピットへ戻ったとき、開発陣の誰もが立ち上がっていた。

「お帰り、翔」

通信の向こうで声がした。

翔は、しばらく返事ができなかった。

そして、ゆっくり答えた。

「……ただいま」

少し離れた場所で、駆と匠がその光景を見ていた。

駆は両手を握りしめている。

「匠」

「なんだ」

「俺、負けたくない」

匠は駆を見た。

「翔にか?」

「ああ。でも、それだけじゃない」

駆は漆黒の機体へ目を向けた。

「俺たちが作った夢に、置いていかれたくないんだ」

匠は静かに頷いた。

「だったら、走れ。お前にはお前の翼がある」

その夜、サーキットの大型スクリーンには、第五戦の映像が何度も流された。

黄金のヨフィエル。

深紅のミカエル。

そして、漆黒のLUCIFER。

世界は、新しい競争の始まりを見た。

だが、翔が目指しているのは、ただ速くなることではない。

失ったものを取り戻すだけでもない。

自分の意思で走り、仲間と競い、無事に帰ること。

その願いが、十三番目の翼を生んだ。

そして、その翼はまだ、飛び始めたばかりだった。


――第5話「堕天使、降臨」完――

次回、SERAPHIM GRAND PRIX― 蒼穹の駆 ―

第6話 「十三番目の翼」


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