第4話 守るための翼
第一節 守るという仕事
第四戦の朝、TEAMヨフィエルのガレージには、いつもと違う静けさがあった。
整備員たちは声を落とし、黄金色のSERAPHIM X-05を取り囲んでいる。中央の作業台には、外装部品でも駆動系でもない、人体を模した試験用の胴体が置かれていた。
「また人形を壊すのか?」
山本駆が尋ねると、佐藤匠は顔も上げずに答えた。
「壊さないために試験するんだ」
「こないだも同じことを言ってなかったか?」
「何度でも言う。お前が覚えるまでな」
匠の端末には、特殊シェル式コックピットの圧力分布が映し出されていた。
非ニュートン流体を基礎とする電子制御ジェル。全身の循環を保護する専用スーツ。ヘルメットに接続する呼吸供給系。そして、車体の状態を常時監視する中央制御AI。
それぞれは別の装置だが、実際の走行では一つの安全システムとして働く。
「ジェルの反応速度を変えたのか?」
「変えたのは制御の配分だ。衝撃を受ける瞬間だけ固くすればいいわけじゃない。身体の一部に荷重を集めたら、守ったことにならない」
匠は画面に表示された赤い領域を指した。
「首と肩に負担が集中する条件が見つかった。今日はその対策を確認する」
駆は黙って頷いた。
三戦を終えた今も、あの事故の記憶は薄れていない。
純白の機体。途切れた通信。救助が来るまでの長い時間。
「匠」
「なんだ」
「翔にも、この装備があったら……」
匠の指が止まった。
「分からない」
その返事は短かった。
「事故の結果を、今の装備だけで変えられたとは言い切れない。でも、同じことを繰り返さないために作ってる」
駆は試験用の胴体を見つめた。
「そうだな」
匠は端末を閉じた。
「今日も走れ。だけど、無事に戻ってこい。俺たちが確認したいのは、速さだけじゃない」
「了解。最高の走りで帰ってくる」
「後半だけでいい」
二人は少しだけ笑った。
第二節 黄緑の哲学
第四戦のパドックには、十二の企業チームが集まっていた。
ドイツのミカエルは、走行解析を繰り返している。アメリカのウリエルは、加速領域での出力配分を詰めていた。水色のガブリエルでは、空力担当者が風洞の計測値を見比べている。
その一角で、駆は黄緑色の機体に足を止めた。
TEAMラファエル。
スウェーデンのノルディック・ライフシステムズが運営するチームで、人体保護と安全技術に強みを持つ。
「ヨフィエルの山本だね」
声をかけてきたのは、パイロットのエリック・リンドベリだった。
「エリック。今日は何をいじってる?」
「速く走るための準備さ」
エリックは機体の側面を軽く叩いた。
「ただし、僕らの考える速さは少し違う」
「どういうこと?」
「最後まで身体が判断できる状態でいられること。集中力が切れたら、どんな馬力も使えないだろう?」
駆は思わず笑った。
「匠と同じことを言うな」
「君の整備主任は、きっといい技術者なんだね」
エリックは、ラファエルのコックピットを示した。
「圧力保護が強すぎれば、身体の感覚が鈍る。弱ければ、負荷に耐えられない。だから僕らは、操縦者が判断を続けられる範囲を広げようとしている」
「安全装置で、速くなるのか」
「安全だからこそ、次のコーナーでも攻められる」
駆は黄緑色の機体を見直した。
十二台のSERAPHIMは、同じX-05を基礎としている。それでも、何を優先するかで走りは変わる。
「今日は負けないよ」
エリックが言った。
「俺だって」
二人は握手を交わした。
競争相手であることと、相手の技術を尊敬することは矛盾しない。
駆はそのことが、少し嬉しかった。
第三節 五十キロの約束
スターティンググリッドに、十二色の翼が並んだ。
全長五十キロメートル。八つのセクションを持つSERAPHIM GRAND CIRCUIT。
超高速区間では機体の出力が試され、減速区間ではブレーキと姿勢制御が問われる。高速コーナーでは、空気の流れと路面に伝わる力の両方を読み取らなければならない。
駆はヘルメットを装着した。
呼吸供給ラインが接続され、特殊ジェルがシェルの内部を満たしていく。
『パイロット認証完了。山本駆』
『生体信号、正常。循環保護系、正常』
『SACCS、起動』
匠の声が届いた。
『今日の保護制御は更新済みだ。違和感があればすぐ言え』
「了解」
『それと、無理な追い抜きは――』
「分かってる。無事に帰ってくる」
『……ならいい』
赤いシグナルが並ぶ。
消灯。
青。
十二台が一斉に加速した。
黄金のヨフィエルが、前方の機体を追う。深紅のミカエルは序盤から安定した走りを見せ、朱色のウリエルが超高速区間で差を詰めていく。
駆はアクセルを開いた。
速度表示が上昇する。ジェルが全身を支え、スーツが循環状態に応じて圧力を調整した。
『前方にラファエル。接近速度に注意』
「見えてる!」
黄緑の機体は、コーナー進入で急激な操作をしない。わずかな修正で姿勢を整え、速度を滑らかにつないでいた。
「上手いな、エリック」
『あいつの走りは安定してる。慌てるなよ』
「慌ててないって」
駆は進入位置を変えた。
一つ先の区間で、勝負する。
今はまだ、その時ではない。
第四節 警告灯の意味
レースが進み、ヨフィエルはラファエルの後方に迫った。
駆は前車の後流を避け、コーナー手前で減速を始める。
そのとき、路面の一部に温度差が検出された。
『接地状態の変化を予測』
SACCSが警告する。
駆の目には、路面は均一に見えた。だが、センサーは局所的な摩擦条件の変化を捉えていた。
「行ける……!」
駆はわずかに減速を遅らせた。
次の瞬間、車体の横方向の動きが想定を超えた。
『姿勢安定制御、介入』
貫通ダクトの多段ファンが流量を調整する。吸着力の配分が変わり、駆の出力要求が抑えられた。
同時に、コックピットのジェル圧力が細かく変化する。
『駆! 操作を重ねるな!』
匠の声。
駆は反射的に修正を加えようとした手を止めた。
一瞬の横揺れ。
視界の端を、黄緑色のラファエルが滑らかに抜けていく。
そして、ヨフィエルは進行方向を取り戻した。
『姿勢安定。車体損傷なし』
「……助かった」
駆の声は、自分でも驚くほど小さかった。
『状況を報告しろ』
「操作系は正常。身体も大丈夫だ」
『循環系も問題ない。次の区間で落ち着け』
駆は呼吸を整えた。
あの一瞬、自分は何を見落としていたのか。
目の前のラファエルを抜くことに意識を向け、路面が変化している可能性を軽く考えていた。
もし、制御が遅れていたら。
もし、ジェルの応答が追いつかなかったら。
答えは出なかった。
だが、考えなくていい問いではなかった。
「匠」
『なんだ』
「警告を、ちゃんと見てなかった」
通信の向こうが静かになる。
『……そうか』
「俺のミスだ」
『なら、次に生かせ』
駆は前を向いた。
「分かった」
それからは、無理に距離を詰めなかった。
機体が教える情報を読み、路面と相談するように走った。
速さを捨てたのではない。
速さを失わないために、走り方を変えたのだ。
第五節 誰のための制御か
同じ頃、LUCIFERの開発施設では、別の警告灯が点灯していた。
漆黒のSERAPHIM X-06は、まだ実走行の段階にない。
研究室の大型モニターには、鈴木翔の操縦意図を再現した仮想コースが映っていた。
『右旋回意図、検出』
『信頼度、基準未達』
仮想の機体は直進を続ける。
「また止まったか」
翔が呟いた。
主任技術者が頷く。
「止めた。君の意思だと断定できない信号だった」
「でも、俺は右へ曲がろうとした」
「分かってる。問題は、機械がそれを正しく判断できなかったことだ」
翔はモニターを見つめた。
脳波と生体パルスを組み合わせた意図推定は、少しずつ精度を上げている。
しかし、正しく曲がることだけが目標ではない。
誤って曲がらないことも、同じくらい重要だった。
「もし、レース中にこれが起きたら?」
翔が尋ねた。
「意図が曖昧な間は、AIが安全側へ移行する。車体を安定させ、必要なら減速する」
「俺が曲がりたいと思ってても?」
「そうだ」
翔は少し黙った。
「……悔しいな」
「分かるよ」
「いや、違うんだ」
翔は静かに首を振った。
「俺が悔しいのは、機械が止めたことじゃない。俺の意思を、まだちゃんと伝えられないことだ」
技術者は答えなかった。
翔は続けた。
「駆なら、きっと限界まで踏む。でも匠は、絶対に帰ってこいって言うだろうな」
「二人らしいね」
「うん。昔からそうだった」
翔は少し笑った。
「俺も、ちゃんと帰ってきたい」
主任技術者は、端末に新しい試験条件を入力した。
「だったら、まずは曖昧な信号を見分けよう。操縦者の意思を尊重するためにこそ、間違った操作をさせない仕組みが必要なんだ」
翔は頷いた。
「もう一回、頼む」
『意図推定試験、再開』
仮想の漆黒の機体が、静かに走り始めた。
第六節 黄緑の背中
第四戦も終盤に入った。
駆は再びラファエルの背後につけていた。
先ほどの揺れから、ヨフィエルの挙動に異常はない。だが、駆はもう、無理に隙間へ飛び込もうとはしなかった。
エリックは、驚くほど落ち着いた走りを続けている。
高速区間で得た速度を、次の減速へつなげる。コーナーでは荷重を急に移さず、立ち上がりで無駄な修正をしない。
その走りを見て、駆はふと思った。
エリックは機体を信頼している。
そして、機体の警告を自分への挑戦状とは思っていない。
『駆、次の区間で追い抜きの機会がある』
匠の声が届く。
「分かった」
『ただし、進入時の路面条件はまだ不均一だ』
「了解。無理はしない」
駆はラインを一段外側へ取った。
わずかに距離が開く。
それでも、次の立ち上がりでヨフィエルは速度をつないだ。
『吸着力配分、安定』
『出力要求、許容範囲』
黄金の機体が、黄緑の機体に並ぶ。
エリックも引かない。
二台は互いの位置を保ち、次のコーナーへ向かう。
駆は早めに減速を始めた。
以前なら、ここで踏み続けていたかもしれない。
だが、今日は違う。
ブレーキを終えた瞬間に、機体が向きを変える。
余裕を残した姿勢から、立ち上がりへ移る。
ヨフィエルがわずかに前へ出た。
『ヨフィエル、ラファエルをかわした!』
実況が叫ぶ。
『山本駆、鮮やかなオーバーテイク!』
駆は笑った。
「やった!」
『よし。今のはいい』
匠が答える。
「珍しく褒めたな」
『珍しく考えて走ったからだ』
「ひどいなあ」
駆は笑いながら、前方を見つめた。
レースの先頭では、深紅のミカエルを中心に激しい競り合いが続いている。
今日の勝負は、まだ終わらない。
けれど駆には、順位とは別の収穫があった。
機体に守られることと、自分の意思で走ること。
その二つは、決して反対のものではない。
チェッカーフラッグを受けたあと、駆は通信を開いた。
「匠」
『なんだ』
「今日のヨフィエル、いい仕事したな」
『お前もな』
その返事に、駆は少しだけ驚いた。
そして、ヘルメットの中で大きく笑った。
第七節 翼の意味
レース後のガレージで、駆はコックピットから出たばかりのスーツを眺めていた。
細かな圧力制御の記録が、整備端末に表示されている。
「こんなに動いてたのか」
匠が頷く。
「お前が揺れを感じたとき、ジェルとスーツは別々の役割を果たしてた。車体はSACCSが安定させた」
「全部が同時に、か」
「そうだ。一つだけ良くても駄目なんだ」
駆は椅子に腰を下ろした。
「昔の俺たち、機体の速さばっかり見てたな」
「翔も含めてな」
匠は静かに答えた。
しばらく、二人は何も言わなかった。
やがて駆が尋ねた。
「翔のところ、最近どうなんだ?」
匠は少し考えてから答えた。
「試験は続いてる。詳しい数字は聞いてないが、本人は諦めてない」
「そっか」
「……会いに行くか?」
駆は黄金色の機体を見つめた。
「行きたい。でも、何を話せばいいのか分からないんだ」
「レースの話でいいだろ」
「それでいいのかな」
「翔が一番聞きたがる話だと思うぞ」
駆はゆっくり頷いた。
「じゃあ、次の休みに行こう」
「そうしよう」
その夜、遠く離れた研究施設では、翔が試験結果を見つめていた。
仮想コースでの意図推定は、前回よりも安定している。
まだ実機を動かせる段階ではない。
だが、危険な誤認識を抑えながら、本人の操作を通す方法が少しずつ見えてきた。
「翔。今日はここまでだ」
技術者が声をかける。
「もう一回だけ、駄目?」
「駄目。休むのも試験のうちだ」
翔は苦笑した。
「匠みたいなこと言うな」
「いいことを言う人なんだろ?」
「うん。口は悪いけどね」
技術者が笑った。
翔は漆黒のLUCIFERへ目を向けた。
十二の天使が競う世界に、自分もいつか戻る。
そのためには、速さだけでは足りない。
自分の意思を正しく伝え、機体に守られ、そして帰ってくる。
かつて三人で追いかけた夢は、形を変えながら続いていた。
「……駆」
翔は小さく呟いた。
「今度会ったら、レースの話を聞かせてくれよ」
研究室の照明が落ちる。
漆黒の機体の輪郭だけが、薄明かりの中に残った。
翼は、速く飛ぶためだけにあるのではない。
その先の空へ、何度でも飛び立つためにあるのだ。
――第4話「守るための翼」完――
次回、SERAPHIM GRAND PRIX― 蒼穹の駆 ―
第5話 「堕天使、降臨」




