第11話 白と黒の翼
第一節 白い機体の朝
第十一戦の朝、SERAPHIM GRAND CIRCUITの海は、まだ青くなりきっていなかった。
TEAMヨフィエルのガレージには、黄金の機体がいない。第九戦の事故で損傷したX-05は、今も修復と検証の途中にあった。
その代わり、ガレージの奥には純白のSERAPHIMがあった。
赤と金の細い線が、朝の照明を受けて浮かび上がる。初代X-05。かつてTEAM蒼穹が、日本国内の支援だけで作り上げた原型機。翔の事故を経て長く眠り、今、再び走るために蘇った機体だった。
「……やっぱり、こいつを見ると落ち着くな」
山本駆は、白い車体の横に立っていた。
佐藤匠は点検端末から顔を上げない。
「落ち着くなら、まず健康診断の結果をもう一回読め」
「もう読んだ。出走の許可も出た」
「許可が出たことと、無茶していいことは別だ」
「分かってるって」
匠はようやく駆を見た。
「今度の機体は、ヨフィエルの競技仕様とは違う。原型機を修復して、最新の保護装備と制御系を組み込んだ。競技用に設けていた性能制限は外してある。だが、安全側の制御と緊急停止機能は残した。そこは絶対に変えない」
「うん」
「速く走れる余地があるからといって、どこでも速く走れるわけじゃない。タイヤも、路面も、お前の判断も必要だ」
駆は、白い機体にそっと手を触れた。
「この車を壊すために戻ってきたんじゃない」
「そうだな」
「翔と、もう一度ちゃんと走るためだ」
匠は一瞬、昔のように笑った。
「なら、準備を始めよう」
第二節 十三番目から見た白
LUCIFERのガレージで、鈴木翔は大型モニターを見つめていた。
画面には、第十一戦の出走一覧が並んでいる。十二の企業チームに加え、特別参加枠のX-06。そして、TEAMヨフィエルの欄には、見慣れた車両名が記されていた。
SERAPHIM X-05――初代試作機。
「……本当に戻してきたんだな」
翔が呟くと、主任技術者が頷いた。
「安全審査は通過している。事故前の仕様をそのまま使うわけじゃない。外装や保護系は再設計されているよ」
「分かってる。でも、あの白を見ると……」
翔は言葉を探した。
白い機体の色を決めた日のことを覚えている。これから先の未来を描ける、何も書かれていない紙みたいだから、と言ったのは自分だった。
あの頃、駆は何度も試走に付き合い、匠は何度も部品を作り直した。速さの話になると三人とも時間を忘れた。
「怖くないのかい」
主任技術者が尋ねた。
「何が?」
「君が事故に遭った機体と同じ原型が、また走ること」
翔は少し考えた。
「怖いよ。でも、駆が乗るなら、匠が絶対に手を抜かないことも知ってる」
「君の連勝は、今日で五つ目を目指す」
「そうだね」
翔は笑った。
「白い車が帰ってくる日に、俺が勝つ。最高の舞台だろ?」
それは挑発ではなかった。
ずっと会いたかった友人が、同じスタートラインへ帰ってくることへの喜びだった。
「駆。今度は俺の背中を追いかけてこい」
翔は画面の白い車体へ向けて、小さく言った。
第三節 最後尾の純白
車検を終えた白いX-05が、パドックから姿を現した。
観客席のざわめきが、波のように広がっていく。
『ご覧ください! 初代SERAPHIM X-05、純白の原型機が帰ってきました!』
実況の声が高くなる。
『かつてTEAM蒼穹が独自に開発した機体です。山本駆選手は、第九戦の事故から復帰。今日は最後尾、十三番手からのスタートとなります!』
十三番手。
前には十二台の機体が並び、その先頭に漆黒のLUCIFERがいる。
駆は、その景色をコックピットの中から眺めた。
ジェルが身体を包み、ヘルメットへ呼吸が供給される。最新の循環保護スーツが全身の状態を監視していた。
『生体認証完了。山本駆』
『SACCS、正常。保護制御、正常』
「久しぶりだな」
駆が呟くと、合成音声が答えた。
『走行準備が完了しました』
以前の起動時に聞いた「お帰りなさい、マスター」という言葉が、胸の奥に残っていた。
匠から通信が入る。
『駆。最初の数区間は車体の反応を確かめろ。今日の目標は、まず完走だ』
「分かってる。でも、それだけじゃない」
『知ってる』
駆は微笑んだ。
「匠、ありがとう」
『礼は戻ってから言え』
前方では、漆黒のLUCIFERがスタートを待っている。
駆は目を細めた。
「翔。追いつくからな」
赤いシグナルが灯る。
やがて青へ変わった。
十三の翼が、一斉に動き出した。
第四節 最初の追い抜き
スタート直後、純白のX-05はすぐに加速を重ねなかった。
駆は、足元から伝わる情報を慎重に確かめていた。原型機を基にした車体の挙動は、黄金のヨフィエルと似ているようで違う。
『路面状態、正常。吸着力配分、安定』
SACCSの表示が、視界の端を流れる。
「……そうか。お前は、こう動くんだったな」
駆はわずかにラインを変えた。
貫通ダクトの多段ファンが流量を調整し、車体の後流と姿勢を整える。必要な吸着力が生まれ、白い機体は落ち着いて次の区間へ入った。
前方には、赤紫のサンダルフォン。
路面への追従性を得意とするオーストラリアのチームは、コーナーの立ち上がりが滑らかだった。
駆は一度、その走りを見た。
次の減速区間。白い機体は無理に飛び込まず、出口で姿勢を早く整える。
「今だ!」
凶暴な加速が駆を押し潰す。
一瞬で純白が赤紫の横へ並ぶ。
『初代X-05、サンダルフォンをかわしました!』
観客席から歓声が上がった。
匠の声が届く。
『いい。車体は安定してる』
「まだ行ける」
『急ぐな』
「急いでない。確かめてるんだ」
駆は笑った。
次は紫のメタトロン。統合AIを得意とする中国のチームは、ラインの選択に迷いがない。
それでも、駆には見えるものがあった。
車体の動きがわずかに落ち着く瞬間。次の加速へつなげる余白。
白い機体が、また一台を抜いた。
『純白のX-05、二台目をオーバーテイク!』
後方から追う駆の走りに、スタンドが沸き始めた。
だが、前方にはまだ十台以上の影がある。
漆黒の翼は、そのさらに先にいた。
第五節 忘れなかった約束
レース中盤、駆はかつて翔が事故に遭い、自分も第九戦で制御を失った区間へ近づいていた。
モニターの表示が切り替わる。
『高速旋回区間。路面状態を確認してください』
駆は息を整えた。
あの日の衝撃が、身体の奥から蘇る。
横を向いた黄金の車体。
迫ってきた安全設備。
通信の向こうで自分を呼び続けた匠の声。
『駆』
匠が呼ぶ。
『無理に速度を保つな。今日はここを安全に抜けることが先だ』
「……分かってる」
駆は早めに減速を始めた。
前の車との差が、少し広がる。
それでも、焦らなかった。
SACCSが路面と車体姿勢を照合する。多段ファンが吸着力を整え、保護システムはパイロットの状態を監視する。
『車体安定。旋回可能』
白いX-05は、滑らかに向きを変えた。
駆は、アクセルを開くのをほんの少しだけ待った。
車体が完全に落ち着く。
それから加速した。
区間を抜けた瞬間、胸の奥に張りついていたものが少しだけほどけた。
「……通れた」
『ああ』
匠の返事は短かった。
「翔が事故に遭った場所を、また走れた」
『そうだな』
「俺が止まった場所も」
『ああ』
駆は前を向いた。
過去は、消えない。
だが、ここで立ち止まる必要はない。
「匠」
『なんだ』
「帰ってくるからな」
『待ってる』
その言葉を聞いて、駆はもう一度加速した。
第六節 十二の壁
純白の機体は、次々と前を走る車両へ迫った。
藍のラジエルは予測AIを駆使し、青のカマエルは追い抜きの駆け引きで抵抗する。水色のガブリエルは空力性能を生かし、青緑のハニエルは電子制御の正確さで譲らない。
駆は、そのすべてに真正面から挑んだ。
力任せではない。
相手の得意な場所を見極め、別の区間で勝負する。
『初代X-05、さらに順位を上げています!』
実況が叫ぶ。
『最後尾からの驚異的な追い上げ! しかし、上位陣との差はまだ残っています!』
駆の視界には、緑のザドキエルがいた。
剛性と耐久性に強みを持つ機体は、姿勢を乱さずコーナーを抜ける。
その先には、黄緑のラファエル。
エリック・リンドベリの走りは、いつもどおり落ち着いていた。
駆は通信を開いた。
「エリック。聞こえるか?」
『駆? 復帰おめでとう』
「ありがとう。でも、今日は抜かせてもらう」
『簡単には譲らないよ』
「分かってる!」
二台は次の区間で並んだ。
ラファエルは、安定した姿勢を保ったまま立ち上がる。
駆は白いX-05の反応を確かめ、少しだけ遅らせて加速した。
『初代X-05、ラファエルに並んだ!』
エリックはラインを維持した。
駆も無理には寄せない。
次の区間へつながる位置を確保したところで、白い機体がわずかに前へ出た。
『ヨフィエル、ラファエルをオーバーテイク!』
「やった!」
駆が声を上げる。
匠はすぐに返した。
『まだ前がいるぞ』
「分かってる!」
白い機体は走り続けた。
だが、追い上げるほど、前方の壁は厚くなっていく。
上位のチームは、どこも簡単には崩れなかった。
第七節 見えてきた漆黒
終盤、駆の前には深紅のミカエルがいた。
ルーカス・ヴァイスは、白い機体が背後に迫ったことを知っていた。
『初代X-05、接近中』
「確認した」
ルーカスは落ち着いて答えた。
「山本駆。復帰初戦で、ここまで来るとはな」
ミカエルは、減速から立ち上がりまでの動きを精密につないでいく。
駆は、その後ろで機会を探した。
「匠。ルーカス、やっぱり上手い」
『分かってる。無理に抜こうとするな』
「うん」
駆は一度、追い抜きを諦めた。
次の区間で、別のラインを選ぶ。
白い機体はコーナー出口で姿勢を整え、加速の余裕を作った。
『初代X-05、ミカエルの外側へ!』
ルーカスも加速する。
深紅と純白が並んだ。
駆はわずかに前へ出た。
『山本駆、ミカエルをかわした!』
歓声が湧く。
ルーカスは短く笑った。
「……いい走りだ」
その先に、漆黒のLUCIFERが見えた。
駆の心臓が強く打つ。
「翔……!」
何度も夢に見た景色だった。
純白の初代X-05で、漆黒のX-06を追う。
かつて同じ工房で夢を語った二人が、今は別々の翼を持っている。
『駆、落ち着け』
匠の声が届いた。
「分かってる」
駆は前方を見つめた。
漆黒の背中は、確かに近い。
だが、まだ届かない。
翔もまた、ただ逃げているのではなかった。
前を走りながら、自分の意思とAIの応答を重ね、ひとつひとつの操作を磨き続けていた。
第八節 白と黒の距離
LUCIFERのコックピットに、後続車の情報が表示された。
『後方、初代X-05接近』
翔は、思わず笑った。
「来たか、駆」
『接近速度に注意』
「分かってる」
翔は進路を維持した。
駆が追いついてくる。
白い車体が、視界の端に映った。
『翔!』
通信が開く。
「駆!」
『追いついたぞ!』
翔は笑った。
「まだ抜いてないだろ!」
『今から抜く!』
二人の声が重なる。
その瞬間、コース上には純白と漆黒、二つのSERAPHIMが並んでいた。
初代X-05と、その先を目指したX-06。
日本だけの支援で生まれた夢と、世界の技術を集めて広がった夢。
どちらも、同じ三人の時間から始まっている。
駆は外側へラインを取った。
翔は内側を維持した。
二台は同時に減速し、コーナーへ入る。
駆は、白い機体の挙動を信じて旋回を始めた。
翔は、操縦意図をAIへ送り、漆黒の車体を安定させた。
立ち上がり。
純白がわずかに前へ出る。
『駆、いいぞ!』
匠の声。
だが、次の瞬間、LUCIFERが姿勢を整えたまま加速した。
漆黒が並び、そして半車身ほど前へ出た。
『LUCIFER、先頭を守る!』
実況が叫ぶ。
駆は歯を食いしばった。
「……速い!」
翔も、余裕などなかった。
「駆……すごいな!」
二人とも、機体の安全限界を無視することはしなかった。
その範囲の中で、できる限り速く走る。
だからこそ、差は簡単には広がらない。
けれど、チェッカーフラッグは近づいていた。
終節 五つ目の勝利、最後の約束
最終区間。
漆黒のLUCIFERが先頭を走る。
その後ろを、純白の初代X-05が追った。
『残りわずか! 鈴木翔、五連勝なるか! 山本駆、復帰初戦で逆転できるか!』
駆は、前方の漆黒を見つめていた。
翔の背中が、そこにある。
かつて、病室で再び走ることを約束した友人。
今は、自分より少しだけ先を走っている。
「……翔!」
駆は加速を重ねた。
白い機体が応える。
だが、翔も同じように前を向いていた。
『LUCIFER、操縦意図、正常』
『姿勢制御、安定』
「まだだ……!」
翔は静かに呟いた。
二台の距離は、最後まで縮まり続けた。
それでも、チェッカーフラッグを先に受けたのは漆黒だった。
『鈴木翔、五連勝達成! 第七戦から第十一戦まで、宣言どおり五つの勝利を積み重ねました! 残るは最終十二戦だけだ!』
歓声が、サーキット全体を包んだ。
翔は深く息を吐いた。
「……勝った」
その声には、喜びと疲労が混ざっていた。
そしてすぐに、後方の白い機体を確認した。
「駆は?」
『二位でフィニッシュ。無事に完走した』
翔は目を閉じた。
「……よかった」
一方、駆はコックピットの中で笑っていた。
「匠。負けた」
『ああ』
「でも、楽しかった」
『そうか』
「次は、勝てる気がする」
匠は少し黙った。
『気がするだけじゃ困る。帰ってきたら、データを見直すぞ』
駆は声を上げて笑った。
「了解!」
レース後、二人はピットの前で向き合った。
翔は専用の支援設備に身体を預けている。駆は、まだスーツの上半身を脱いでいなかった。
「おめでとう、翔。五連勝」
「ありがとう。駆も、復帰おめでとう」
「あと一つだな」
「うん」
翔は笑った。
「六連勝、最後までやるよ」
駆も笑った。
「させない」
その言葉に、翔は目を細めた。
「そう言ってくれると思ってた」
匠が二人の間へやってきた。
「次のレースまで、時間はないぞ」
「分かってるよ」
駆と翔が、同時に答えた。
三人は顔を見合わせ、笑った。
最終戦。
五十キロメートルのサーキットに、もう一度、白と黒の翼が並ぶ。
一人は、六つ目の勝利を求めて。
もう一人は、その連勝を止めるために。
そして二人を支える匠は、どちらにも無事に帰ってきてほしいと願っていた。
海の向こうで、夕暮れの空が深い青へ変わっていく。
決着のときは、もうすぐだった。
――第11話「白と黒の翼」完――
次回、SERAPHIM GRAND PRIX― 蒼穹の駆 ―
第12話 「蒼穹の世界」




