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第10話 眠れる純白

第一節 空いたグリッド


第十戦のエントリーリストに、山本駆の名前はなかった。

TEAMヨフィエルは欠場を届け出ていた。第九戦の事故で黄金のSERAPHIM X-05は損傷し、駆も医師の経過観察を受けている。復帰を急がないという判断に、異論を唱える者はいなかった。

それでも、駆は病室の端末に映る出走表を、何度も見直していた。

「十二台、か」

国際共同開発車両LUCIFERを含めても、今回は十二台。開幕時と同じ数なのに、見慣れた黄金色がいないだけで、別の大会のように思えた。

「退屈そうだな」

佐藤匠が入ってきた。手には、病院の売店で買った小さな紙袋がある。

「退屈だよ。みんな走ってるのに」

「まだ走ってない。第十戦は明日だ」

「細かいなあ」

匠は椅子を引き寄せた。

「検査結果は良好だ。ただし、次の走行は医師の許可と段階的な確認が必要になる。そこは譲らない」

「分かってる」

駆は紙袋から飲み物を受け取り、少し間を置いて尋ねた。

「匠。あの白い機体、本当に残ってるんだよな」

匠の手が止まった。

「残ってる」

「翔が乗ってた、最初のSERAPHIM」

「……ああ」

窓の向こうで、雲がゆっくり流れた。

純白の試作機。細い赤と金のライン。日本国内の支援だけを頼りに、TEAM蒼穹が作り上げた原点。

事故のあと、もう二度と走らないと思っていた。

駆は飲み物を置いた。

「見に行きたい」

匠はすぐには答えなかった。

「見せたいものがある。だが、覚悟はしておけ。あの頃のままじゃない」



第二節 白い眠り


旧TEAM蒼穹の整備棟は、サーキットから離れた場所にあった。

大きな看板も、華やかなスポンサーのロゴもない。入り口の脇に、小さな文字で「試験開発棟」と書かれているだけだ。

駆は匠に付き添われ、ゆっくりと建物の奥へ進んだ。医師の許可を得た短時間の外出だった。

扉の前で、匠が足を止めた。

「先に言っておく。あの事故で、機体のすべてが無傷だったわけじゃない」

「分かってる」

「骨格の一部も、外装も、配管も損傷した。交換が必要なものは交換している。これは事故の直後から、残せる部品と記録を調べて続けてきた仕事だ」

駆は扉を見た。

「それでも、あいつなんだな」

匠は頷いた。

「製造記録も、車体の識別も、俺たちが積み重ねた試験の履歴も引き継いでる。別の車を白く塗ったんじゃない」

扉が開いた。

その向こうに、純白のSERAPHIMがあった。

駆は息を呑んだ。

細く走る赤と金のライン。滑らかなノーズ。今のX-05に比べれば、試験機らしい無骨さが残っている。

それでも、見間違えようがなかった。

「……ただいま」

思わず声が漏れた。

匠は何も言わなかった。

駆は機体の周囲を歩いた。事故の傷跡が残る部位もある。新しく作り直された外板もある。白い塗装の下に、三人が夜を明かして調整した日々が重なっていた。

「翔が白を選んだ理由、覚えてるか」

匠が尋ねた。

「何も書いてない紙みたいだから、って」

「そう。これからの未来を書ける、ってな」

駆は笑った。

「今じゃ、ずいぶん書き込まれたな」

「まだ余白はある」

匠はそう言って、機体のカバーを外した。



第三節 外すもの、残すもの


作業台に、二つの制御図が並んでいた。

一つは、現在のレース用X-05に適用される競技性能制限の構成。

もう一つは、純白の試作機を再び走らせるための改修計画だった。

「元の試作機には、今の競技規則に合わせた性能制限とは別の制御思想がある」

匠は説明した。

「復元するなら、レース用に設けた出力や制御の上限を、そのまま移す必要はない。だが、だからといって安全装置まで外すわけじゃない」

駆は画面を見つめた。

「SACCSは?」

「残す。しかも新しい保護制御を組み込む。吸着系も貫通ダクトも、異常を検知したときの減速もだ」

「ジェルとスーツは?」

「今の安全基準に合わせて更新する。コックピットのシェルも、必要な補強をする」

匠は駆へ向き直った。

「性能制限を外すのと、限界を無視するのは違う。車体の設計上の最高速度は七百五十キロメートルだ。サーキットが八百キロメートルまで想定しているのは安全余裕であって、そこを目指せという意味じゃない」

「分かってる」

「車体重量は千八百キログラム。駆動系の負荷も、冷却も、タイヤも、全部検証し直す。昔のまま走らせればいいなんて話じゃない」

駆は少し考えた。

「……匠。俺、速いから白い機体に乗りたいんじゃない」

「知ってる」

「俺たちが最初に何を作ろうとしてたのか、もう一回確かめたいんだ」

匠は静かに頷いた。

「俺もだ」

そのとき、整備棟の奥から声がした。

「だったら、俺にも手伝わせろよ」

駆が振り返る。

壁のモニターに、鈴木翔の顔が映っていた。

「翔!」

「驚いた?」

「お前、いつから見てたんだよ」

「『ただいま』のところから」

駆は顔を赤くした。

翔は笑った。

「いいじゃん。俺も、そう言いたかった」



第四節 三人の図面


翔はLUCIFERの開発施設から、遠隔で復元作業に参加していた。

車体に触れることはできない。それでも、当時の走行記録と試験結果を誰よりもよく覚えていた。

「このダクトの応答、昔から少し癖があっただろ」

モニターの向こうで翔が言う。

匠は配管図を拡大した。

「ああ。だから今回は圧力センサーを増やす。多段ファンの制御も、現在のSACCSに合わせて組み直す」

「俺が事故ったときのデータも使うんだな」

一瞬、空気が止まった。

匠は頷いた。

「使う。見たくない記録もあるが、捨てるわけにはいかない」

翔は穏やかに答えた。

「それでいい。あの事故を、無駄にしたくない」

駆は図面の端に手を置いた。

「俺も、第九戦のデータを全部渡す」

「もう解析してるよ」

匠が言った。

「早いな!」

「お前が寝てる間に、何をしてたと思ってる」

翔が笑う。

「相変わらずだな、匠」

「お前も次のレースがあるだろ。こっちは任せろ」

「そうはいかない。白い機体の最初のパイロットは俺だ」

駆は画面を見た。

「じゃあ、今度は俺が乗っていいか?」

翔は少し黙った。

そして、はっきりと答えた。

「もちろん。今度は、お前の番だ」

駆の胸に、温かいものが広がった。

「ただし条件がある」

翔が続ける。

「ちゃんと帰ってこい。それから、俺と勝負しろ」

匠が吹き出した。

「結局、それか」

「当たり前だろ」

駆も笑った。

「約束する」

三人の間に、昔と同じ空気が戻っていた。

けれど、昔のままではない。

失ったものを知り、それでも前へ進もうとする三人の、新しい時間だった。



第五節 第十戦の空


第十戦当日。

駆は整備棟の小さな休憩室で、公式中継を見ていた。医師から許可された範囲で、身体を休めながらの観戦だ。

画面の中では、十二台がグリッドへ並んでいる。

深紅のミカエル。朱色のウリエル。橙のラグエル。黄緑のラファエル。緑のザドキエル。青緑のハニエル。水色のガブリエル。青のカマエル。藍のラジエル。紫のメタトロン。赤紫のサンダルフォン。

そして、漆黒のLUCIFER。

黄金のヨフィエルがいない。

「変な感じだな」

駆が呟くと、匠は工具を片づけながら答えた。

「自分のいないレースを見るのも勉強だ」

「匠は見ないのか?」

「音だけ聞く。手を止めたら、白い方が進まない」

駆は笑った。

画面の中で、スタートシグナルが赤く灯る。

青。

十二台が一斉に加速した。

LUCIFERは序盤から激しく飛び出したわけではない。翔は、車体と自分の意思の一致を確かめるように走っている。

ルーカスのミカエルが先行し、ジャック・ハリソンのウリエルが加速区間で迫る。

レースは、駆がいなくても容赦なく進んでいく。

「……悔しいな」

駆が言った。

匠は顔を上げない。

「悔しいなら、治せ」

「身体を?」

「身体も、走りもだ」

駆は頷いた。

モニターの向こうで、漆黒の機体が深紅のミカエルを追っていた。

「翔。今日は、どんな走りをするんだ」



第六節 四つ目の旗


レース終盤、LUCIFERとミカエルは先頭を争っていた。

ルーカスは減速の精度で優位を築き、翔はコーナー出口で車体を安定させて差を詰める。

その後方では、カマエルとガブリエルが順位を争っていた。

『鈴木翔、四連勝なるか! ルーカス・ヴァイス、ここで止めるのか!』

翔は前方の深紅を見つめた。

『生体信号、正常』

『操縦意図、確認』

『姿勢制御、安定』

「行こう」

翔は、少しだけ外側へ進路を取る意思を送った。

AIが周辺車両との距離を確認する。

『実行可能範囲』

漆黒の機体が並ぶ。

ルーカスは簡単には譲らない。

二台は同じタイミングで減速を始めた。

翔は無理に突っ込まなかった。姿勢が整うまで待ち、出口へ向けて加速の意思を重ねる。

LUCIFERがわずかに前へ出た。

『LUCIFER、先頭へ!』

深紅のミカエルが追う。

最後の区間。残された距離は短い。

翔はチェッカーフラッグを見据えた。

「駆。見てるか」

誰にも届かない声で呟く。

「先に行ってるぞ」

漆黒の機体がフィニッシュラインを越えた。

『鈴木翔、四連勝! 第七戦から第十戦まで、宣言どおり勝利を重ねました!』

歓声が響く。

翔は、ゆっくり息を吐いた。

「……あと二つ」

だが、その言葉に慢心はなかった。

二つの勝利を得るために、あと二度、無事に走りきらなければならない。

そのことを、翔は誰よりも知っていた。

整備棟の休憩室で、駆は画面を見つめていた。

「四連勝か」

匠が作業台から声をかける。

「どうする?」

駆は笑った。

「決まってる。追いかける」



第七節 眠りを解く手


第十戦の翌日から、純白のX-05の整備棟は忙しくなった。

事故で損傷した部位の検査記録を再確認し、必要な構造部材を交換する。新しい保護シェルを組み込み、特殊ジェルの制御を更新する。

匠は作業工程を一つずつ確認した。

「貫通ダクトの圧力試験、開始」

低い音とともに、多段ファンが回り始める。

「流量、正常」

「圧力応答、許容範囲」

「吸着系との協調制御、確認」

モニターには、SACCSの解析結果が並んだ。

古い機体に新しい技術を詰め込むことは、簡単ではない。

新しい部品が優れているからといって、組み合わせた車体が安全になるとは限らない。重量配分も、熱の流れも、応答の時間も変わる。

匠は何度も試験をやり直した。

「性能制限の設定は?」

整備員が尋ねた。

「競技用X-05に合わせた制限は、この試作機には適用しない。ただし、設計限界の監視とフェイルセーフは独立して残す」

「安全側の介入は維持ですね」

「当然だ。むしろ強化する」

匠は画面の一行を指した。

『緊急時、操縦要求より安全保持を優先』

それは、速さを奪うための言葉ではない。

走り続ける未来を守るための約束だった。

駆は作業を見守っていた。

「匠。俺、手伝えないかな」

「まず身体を治せ」

「そればっかりだな」

「何度でも言う」

匠は笑った。

「お前の仕事は、乗れる身体で戻ってくることだ」

駆は、白い機体を見た。

「……了解」



第八節 初代の声


数日後。

純白のSERAPHIMは、整備棟の試験台に載せられていた。

駆は医師から段階的な操縦評価の許可を受けていた。ただし、今日は実走行ではない。固定された機体で、操縦系と安全装置の連携を確かめる試験だった。

「無理はするなよ」

匠が言う。

「分かってる」

「少しでも違和感があれば中止する」

「分かってるって」

駆はヘルメットを装着した。

呼吸供給ラインが接続され、特殊ジェルがシェルの内部を満たしていく。

新しい保護制御が身体の状態を読み取り、スーツの圧力を細かく調整した。

『生体信号、正常』

『循環保護系、正常』

『SACCS、待機』

駆は目を閉じた。

懐かしい匂いがする気がした。

初めてこの機体を見た日。

翔が白を選んだ日。

匠が工具を握ったまま眠ってしまった夜。

そして、あの事故。

全部が、ここにある。

「駆」

通信に翔の声が入った。

「聞こえるか?」

「翔!」

「俺も見てる。遠隔だけどな」

匠が割り込む。

「二人とも、試験中だぞ」

「了解」

「はいはい」

三人は笑った。

匠が深く息を吸う。

「それじゃ、システムを起動する。駆、準備はいいか」

駆は、静かに答えた。

「いつでも」

匠が起動指示を送った。

短い電子音。

一瞬の静寂。

そして、長い眠りから目を覚ますように、機体の表示が灯った。

『生体パルス認証、完了』

駆の胸が高鳴る。

次に聞こえたのは、かつて三人で選んだ、あの合成音声だった。

「お帰りなさい、マスター。SERAPHIMシステム、起動シークエンスを始動します」

駆は言葉を失った。

目の前に、純白の機体の制御画面が広がっていく。

「……ただいま」

その声は、少し震えていた。

翔が通信の向こうで笑った。

「待ってたぞ、駆」

匠は何も言わなかった。

ただ、静かに頷いた。



終節 白が向かう空


試験台の上で、純白のSERAPHIMは静かに起動していた。

車輪はまだ、サーキットの路面に触れていない。

走行許可も、競技への復帰手続きも、これからだ。実際の速度域で安全性を確認する試験も残っている。

それでも、三人には分かっていた。

長い時間、止まっていた何かが動き始めたのだ。

駆はコックピットから出ると、白いノーズにそっと手を置いた。

「匠。これで翔と戦えるかな」

「まだ分からない」

匠は正直に答えた。

「性能も、耐久性も、実走行で確かめる必要がある。お前自身の復帰も、段階を踏む」

「そっか」

「でも、走らせるための準備は始まった」

駆は笑った。

壁のモニターには、翔の顔が映っている。

「駆」

「なんだ?」

「次は第十一戦だ」

「知ってる」

「俺は五連勝を狙う」

「俺は、お前を追う」

翔は、昔と同じ笑顔を見せた。

「待ってる」

駆は白い機体を見た。

黄金のヨフィエルは、彼を世界のレースへ連れてきた。

漆黒のLUCIFERは、翔を再びサーキットへ連れ戻した。

そして今、純白の初代SERAPHIMが、三人の夢の原点を思い出させている。

過去へ戻るためではない。

過去を抱えたまま、まだ見ぬ未来へ進むために。

整備棟の扉が開き、夕方の光が差し込んだ。

白い車体が、その光を静かに受け止める。

駆は、まだ走り出していない機体へ向かって呟いた。

「次は、一緒に空を見に行こう」

純白の翼は、目を覚ました。



――第10話「眠れる純白」完――


次回、SERAPHIM GRAND PRIX― 蒼穹の駆 ―

第11話 「白と黒の翼」

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