第9話
土曜日の午後二時。王立劇場の前の広場は、週末を楽しむ人々で賑わっていた。
中央の街灯の脇で待っていると、人波を抜けて歩いてくるアルジール様の姿が見えた。
見慣れた紺の礼服でも、腕まくりをした作業着でもない。落ち着いた淡い灰色のシャツに、濃茶の上着を羽織っている。胸元が少し開いていて、普段の引き締まった事務官の気配がずいぶんと薄れていた。
「ローガン嬢。お待たせしましたか」
彼は私の顔を見て、それから髪に結んだ青いリボンに目を留めた。
「その色、よくお似合いです」
選ぶのに鏡の前であれほど迷ったことは、黙っておこう。
「ありがとうございます。……あ、いえ、私もいま来たところです」
挨拶を交わした瞬間、二人の間にふっと奇妙な間が落ちた。
……何を話せばいいのだろう。
これまでは「前回の作戦の反省」か「次の不一致の仕込み」という明確な課題があった。だが今日は、嘘をつく必要も、誰かの目を盗む必要もない。
純粋に二人で出かけるだけの約束だと思うと、途端に喉の奥が引き締まり、手のやり場に困ってしまう。
「……いいお天気ですね」
「そうですね。風も穏やかで、歩きやすい」
「ええ、本当に」
あまりに無難すぎる会話に、私は内心で頭を抱えた。これなら見合いの初日の方が、まだ勢いよく言葉を交わしていた気がする。
アルジール様もどこか歩きにくそうに、拳を軽く握ったり開いたりしながら歩調を合わせていた。
「あそこを曲がると、古書店街です。……こちらへ」
「はい」
劇場裏の石畳の路地へ入ると、劇場の喧騒が嘘のように静まり返った。軒を連ねる古本屋の店先には、埃を払ったばかりの革装本や木版画が並び、乾いた古い紙の匂いが通りを満たしている。
目的の地図屋は、路地の突き当たりにある小さな店だった。
真鍮の呼び鈴を鳴らして中へ入ると、老店主が丸眼鏡の奥から目を細め、細長い作業台の上に一枚の大判の地図を広げてくれた。
「お嬢さん、手紙で仰っていた南沿岸の古い海図だよ。先代の測量士の遺品から出てきた珍品だ」
褪せた羊皮紙の端を木製の文鎮で押さえ、私たちは台の端に並んで覗き込んだ。
指先でそっと触れると、何十年もの時間を吸い込んだ紙肌は、なめした革のようにしっとりと冷たい。
「……これは、南のサントール半島ですね」
私が呟くと、隣に立ったアルジール様が、影を落とさないよう少し身を引いて視線を落とした。
「形が今と随分違うな。根元が異様に太くて、先端がしゃもじのように丸い」
「当時の測量船は、浅瀬を恐れて海岸線に近づけなかったそうですから。遠くの船上から見えた輪郭を繋ぎ合わせたのでしょうね」
「なるほど。……あ、こちらを見てください」
アルジール様が手元の虫眼鏡を取り上げ、地図の右隅を指さした。
「海の上に描かれている、この風の神」
指先の先を覗き込むため、私は自然と彼の方へ一歩踏み出した。肩と肩の間が、拳ひとつ分ほどに縮まる。
そこに描かれていたのは、頬をパンパンに膨らませて海へ息を吹きかけている風神の顔だった。
だが、童話に出てくるような愛らしい天使ではなく、眉間に深い皺を刻み、口をへの字に曲げて、あからさまに不機嫌な顔をしている。
「すごい形相ですこと。何か嫌なことでもあったのかしら」
「朝から上司に怒鳴られたような顔だな。『なぜ俺がこんな南の海まで風を吹かせねばならんのだ』と文句を言っていそうだ」
「ふふ、事務官の視点ですね。……あ、カリスト様、ここも見てください」
私が半島の港町を指さすと、彼がさらに頭を寄せた。上着の擦れる乾いた音が耳元で鳴る。
「港の波止場を示す記号の横に、小さな手書きの文字があります」
虫眼鏡を二人で覗き込む。
『この港の酒場のパンは石のように硬い。歯を一本欠いた』
当時の測量士が、余白に走り書きした愚痴だった。
沈黙のあと、アルジール様が堪えきれずに吹き出した。
「パンの硬さで愚痴を書くな。公的な海図だろうに」
「よほど痛かったのでしょうね。でも、保存の効く航海用の堅パンなら、確かに石と同じ硬さですもの」
「ローガン嬢なら、喜んで噛み砕くところでしたね」
「私を何だと思っていらっしゃるの!」
私が眉をつり上げると、アルジール様は声を立てて笑った。
いつの間にか、広場で感じていたぎこちなさは跡形もなく消え去っていた。昔の誰かが手探りで世界を歩き、腹を立て、記録を残した羊皮紙の上で、私たちはいつもの調子を取り戻していた。
結局、その南沿岸の海図は私が自分の小遣いで買った。店主が油紙で丁寧に包んでくれた筒を抱え、店を出る。
「少し、喉が渇きましたね」
アルジール様が時計塔を見上げ、通りの角にある小さな焼き菓子屋へ目を向けた。
「あそこで冷たい茶が飲めるようです。……少し待っていてください」
彼が足早に店へ向かい、戻ってきた手には、薄紙の包みと、冷えた麦茶の入った素焼きのカップが二つあった。
広場の木陰のベンチに腰を下ろすと、彼が包みを差し出してきた。
「食堂で、バターの味がちゃんとする菓子がお好きだと仰っていたので。ここのサブレがいいと、同僚に聞いたんです」
包みを開けると、こんがりと黄金色に焼き上がった厚いサブレが並んでいた。
口に運ぶと、豊かなバターの香りと優しい甘みが広がり、思わず頬が緩む。
「……美味しいです。すごく」
「よかった」
アルジール様は心底ほっとしたように息を吐き、自分は甘みのない冷たい麦茶をごくりと飲んだ。
私があれだけ酸っぱいと騒いでいた時に、好きだと言った方も覚えていてくれたらしい。
もう一枚取ろうとした手が止まる。彼の分は、ひとつもない。
「カリスト様も何か召し上がりません?」
「俺は、いまはお茶で十分です。貴女がそんな顔で食べるなら、買ってきた甲斐があります」
「……そんな顔って、どんな顔ですの」
聞き返すと、彼は困ったように笑った。
「すみません。また見ていました」
私はサブレをひとかけら割り、口に入れた。顔を見られていると思うと、急に噛むのが難しい。
「カリスト様」
「はい」
「今日は……見合いの芝居をしていた時より、ずっと時間が経つのが早いです」
素直に口にすると、アルジール様はカップを両手で包み、少し照れくさそうに視線を泳がせた。
「俺もです。……何を話せばいいのか、最初はひどく緊張していたのですが」
「私もです。お天気の話しか出てきませんでしたもの」
「あれは酷かったですね」
二人で笑い合い、木漏れ日が揺れる石畳を見つめた。
サブレを包み直しながら、私は隣に置いた海図の筒に触れた。
「あの、カリスト様」
「何でしょう」
「この海図の裏に、当時の商船が使っていた古い補給地の一覧が小さくメモされていたのです。もしよろしければ……来週、街の歴史記録室で、その補給地が実在したのかどうか、一緒に確かめてみませんか?」
調べものなら一人でもできる。そのくせ、誘う言葉は店にいた時から考えていた。
けれどアルジール様は、迷うことなくこちらを向き、琥珀色の瞳をまっすぐに細めた。
「喜んで。土曜の同じ時間でよければ、ぜひお供させてください」
帰りに二人でカップを店へ返した。店員に「またどうぞ」と言われ、私たちはどちらからともなく顔を見合わせた。
来週も、帰りに寄れたらいい。




