第8話
火曜日の午後、エミリア叔母様のタウンハウスの小サロンは、針が落ちても聞こえそうな沈黙に包まれていた。
丸テーブルの上には、叔母様が用意してくれたベルガモットの紅茶と、銀のトングを添えた角砂糖の器が置かれている。
私とアルジール様は、二人がけの長椅子に並んで座っていた。どちらも背筋を定規でも入れたように固く伸ばし、膝の上に置いた両手からは一切の動きが消えている。
「それで?」
向かいの一人掛けの椅子から、叔母様の穏やかで、それゆえに逃げ場のない声が降ってきた。
「お二人とも、朝食会でも劇場でも大変仲睦まじく過ごしていらしたわね。アンナも喜んでいたのよ。……そろそろ、前向きなお返事を聞かせてくださるかしら」
叔母様は本当に善意から、私たちの背中を押しに来ていた。だからこそ、これ以上曖昧な微笑みで誤魔化すわけにはいかなかった。
私は膝の上の手帳をぎゅっと握りしめ、隣のアルジール様と視線を交わした。
彼が深く息を吸い、顎を引く。合図だった。
「エミリア夫人」
「叔母様」
声が完璧に重なった。
一拍の間が空き、アルジール様が先を促すように私へ小さく頷いてくれたので、私は覚悟を決めて口を開いた。
「お叱りを覚悟で、申し上げます。……私たち、最初の中庭でお会いした時から、このお見合いを壊すための協定を結んでおりました」
叔母様がカップを持ち上げようとした手をとめた。
「……壊す?」
「はい」
今度はアルジール様が引き取った。声は低く、だが滑らかに言葉を重ねていく。
「二人とも、今年は家や仕事のことを優先したいと思っていました。ですが、ただ忙しいと言うだけでは、もう一度会うよう勧められるのではないかと。それで、好みが合わなかったことにしようと……勝手に相談しました」
「……」
叔母様の顔をまともに見られず、私は言葉を継いだ。
「朝食会では私が硬いパンの皮を好み、彼は柔らかいところが好きだから、食卓が合わないということに。劇場では退屈そうにするはずが、二人とも船を動かす滑車に見入ってしまって……どちらも、楽しく過ごしました」
一気に白状し、二人して深々と頭を下げた。
カチャリ、とカップが受け皿に戻された。
そのあとが、長かった。
「……はあ」
叔母様が深いため息をついた。怒りというよりは、あまりの馬鹿馬鹿しさに力が抜けたような音だった。
「あなたたち、何をやっているの?」
「申し訳ございません」
「呆れたわ。パンの耳が固いだの、滑車が滑らかだの、そんなくだらない理由で私やアンナを納得させられると思っていたの? だいたい、見合いを壊すための口裏合わせで、どうしてそんなに毎回楽しそうに帰ってくるのよ」
痛烈な指摘に、私は喉を詰まらせた。返す言葉もない。
「もう一度と勧めたのが、断りにくかったのね。それは悪かったわ。……でも、パンの皮を食べる顔を見て察してくれと言われても、無理よ」
「……仰る通りです。申し開きもございません」
アルジール様がもう一度頭を下げた。
私も消え入りそうな声で「ごめんなさい、叔母様」と小さく縮こまり、詫びの言葉を続けようと手帳を持ち上げた。
その拍子だった。
手帳の留め金が緩み、表紙の隙間に挟んでいたものが、つるりと滑り出た。
コロン、と乾いた木質の音を立てて、テーブルの上に転がり出たのは――金曜日に彼から贈られた、樫のペン軸だった。蜜蝋で磨かれた滑らかな木肌が、サロンの陽光を反射している。
叔母様の視線が、テーブルの上のペン軸に吸い寄せられた。
「……ちょっと、カリスト君」
「は、はい」
「そのペン、見覚えがあるわ。うちの人が持っているのとよく似ているけれど……あなたが削ったものね?」
アルジール様が、耳の付け根をわずかに赤くして視線を逸らした。
「……はい。ローガン嬢が、帳簿書きで手が痛むと仰っていたので」
「見合いを断る相談をしている相手に、わざわざ木を削ってペンを贈ったの?」
叔母様の眉がこれ以上ないほど高く跳ね上がった。
今度は私が顔から火が出そうになる番だった。慌ててペン軸を拾い上げようとしたが、指先が滑って余計にカタカタと音を立ててしまう。
「ち、違うのです叔母様! これはその、事務官としてのお心遣いで……!」
「うちの人のは、頼んで半年かかったのよ。あなたのための一本は、ずいぶん早かったのね」
叔母様は扇で額を押さえ、天井を仰いだ。
「それで、お二人はどうしたいの? お断りするなら私から両家にお伝えするけれど、そのつもりで来たようには見えないわ」
静かな問いかけだった。
からかいの色は消え、大人の真面目な眼差しが私たちをじっと見つめている。
私は拾い上げた樫のペン軸を、両手でしっかりと包み込んだ。
隣で、アルジール様が背筋を正した。
「いいえ、夫人。断るための嘘は、本日で完全に終了いたします」
迷いのない、はっきりとした声だった。
「結婚のお返事を急ぐことはできません。ですが、ローガン嬢とは、これからも会いたいと思っています」
彼の言葉に、胸の奥が大きく跳ねた。
膝の上で、ペン軸を握り直した。私からも言わなくては。
「私も同じです、叔母様。……秋になれば領地の仕事で忙しくなりますし、カリスト様にも弟様方のことがおありです。すぐに結婚のお返事はできません。けれど……お仕事の合間に、彼と話す時間を諦めたくありません」
言い終えると、叔母様はしばらく私たちの顔を交互に見つめ、それからようやく、ふっと目元を和らげた。
「そう。そこは、口裏を合わせたわけではないのね」
「はい!」
また声が重なり、叔母様が小さく笑った。
叔母様は扇を膝に置き、小さく肩をすくめた。
「アンナには、私から適当に話をつけておくわ。『お互いに誠意を持って見極めている最中だから、秋までは周囲が口を挟まずに見守りましょう』とね。それで満足かしら?」
「……! ありがとうございます、叔母様」
「感謝いたします、エミリア夫人」
「お礼はいいわよ。その代わり、次はみっともない嘘をつかずに、堂々と出かけていらっしゃい」
屋敷の玄関を出ると、初夏の青空がどこまでも高く広がっていた。
門へ向かう砂利道を踏みしめながら、私たちは並んで歩いた。見合いの席の重苦しさも、芝居を演じる緊張感も、もうどこにもない。
「……怒られましたね」
「ええ。とても綺麗に呆れられましたわ」
顔を見合わせ、二人して思わず吹き出した。
門の前で立ち止まり、アルジール様がこちらを振り返った。
「ローガン嬢。……さて、次はどこでお茶を飲みましょう」
「それでしたら、一つお願いが」
私は鞄をぎゅっと抱え直し、手帳から取り出した白紙のメモを見つめてから、顔を上げた。
「今週の土曜日、午後から……古書店街の地図屋へ、ご一緒していただけませんか? 前足の生えた魚より、もっとおかしな古い海図が入荷したそうなのです」
アルジール様は一瞬目を見張り、それから今日一番の、肩の力を抜いた柔らかな笑顔を浮かべた。
「喜んで。午後二時に、劇場の前の広場でお待ちしています」




