第7話
金曜日、午前十一時を少し前にして、王宮の騎士団補給本部は、週の終わりの帳尻を合わせる独特の喧騒に包まれていた。
私は十番窓口の木製カウンターに、父から預かってきた書類の束を差し出した。
ローガン領から騎士団へ定期納入している軍馬用の干し草について、今季の納品量確認と、来月行われる王都近郊の保管倉庫の検分日を調整するための公的な申請書だ。
窓口の若い書記官が書類を受け取り、奥のデスクへ声をかける。
「カリスト事務官、ローガン子爵家からの干し草納入の確認書です。検分日の候補が三つ入っています」
「分かった。確認する」
奥から現れたアルジール様は、火曜日に見かけた時と同じ、腕まくりをした作業着姿だった。ただし今日は革のエプロンではなく、手首にインク除けの黒い布カバーを着けている。
彼は私の顔を見ても決して態度を崩さず、慣れた手つきで書類を繰り、数字を確認した。
「火曜日にいただいた納品量の確認書と、相違ありません。検分は、こちらの担当者も空いている七月十二日で受け付けます。控えをお返ししますので、少々お待ちください」
無駄のない動きで真鍮の公印が押され、書類の束が二つに分けられる。ちょうどその時、王宮の鐘が午前十一時を告げて高く鳴り響いた。
窓口の書記官が立ち上がり、「交代時間です、カリストさん」と声をかける。
「ああ。ご苦労様」
アルジール様は書類の控えを手に取ると、カウンター越しに私へごく自然な調子で言った。
「ローガン嬢、これで手続きはすべて完了いたしました。……ちょうど交代の休憩に入ったのですが、私的な用件で少しだけ、あちらの面談席でお話ししてもよろしいですか」
「はい、失礼いたします」
交代の書記官がすぐに席へ入り、他に来訪者もいなかった。私はカウンター脇の扉をくぐり、執務室の片隅にある小さな仕切りの面談席へと案内された。
壁一枚で隔てられただけで、外の怒号や荷車を引く音はずいぶん遠くに聞こえた。
アルジール様は控えの紙を私に手渡し、向かいの椅子に腰を下ろすと、小さく息を抜いた。
「……無事に受理できました。あの量なら、秋の演習に向けた備蓄としても十分です」
「ありがとうございます。父も安心すると思います」
事務的なやり取りを終えると、彼は少しの間、視線を泳がせた。
何かを迷うように自分の膝を見つめていたが、意を決したように立ち上がり、仕切りの向こうにある自分の机へ戻った。引き出しを開ける音がした。
戻ってきた彼の手には、薄い麻布で丁寧に包まれた、細長い小包が握られていた。
「ローガン嬢。これを」
「これは……?」
「この前の食堂で、帳簿を長く書いていると中指の付け根が痛むと仰っていたでしょう」
差し出された包みを解くと、中から現れたのは一本のペン軸だった。
手にとってみて、思わず目を見張った。先日、彼が見せてくれた自作のペンと同じ、樫の木で作られている。けれど、彼のものよりも少し短く、指を添える部分が細めに削られている。
指が当たる部分は緩やかに窪み、表面は蜜蝋で磨き上げられて、吸い付くように滑らかだった。
「……私のために、削ってくださったのですか」
「教えると約束したのに、先に作ってしまいました。あの時の話を思い出して、少し細めに。……合わないところがあれば、教えてください。まだ削れますから」
早口で言い訳を重ねる姿が、いかにも彼らしい。
私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、その滑らかな木肌を指先でなぞった。市販の金属軸の冷たさとはまるで違う、柔らかな木の感触が掌に馴染む。
「私、教えていただくのを楽しみにしていましたのに」
「……すみません」
「でも、いただける方がもっと嬉しいです。ありがとうございます、アルジール様」
「本当ですか」
「ええ。……あの、さっそく試し書きをしても?」
「どうぞ。ペン先も包みに入れてあります。インクは、そこのを」
面談席の小さな机には、公用書類用のインク壺が三つ並んでいた。
樫のペン軸の先端に金属のペン先を取り付け、私は壺を見つめた。
「どれで書きましょう。黒は……なんだかお仕事の続きみたいですね」
「赤だと、俺の字に訂正を入れたくなりませんか」
「ふふ、そうですね。では、この緑色にしましょうか。領地の帳簿では、収支が完全に一致した時の確認印に使う色です」
緑色のインクにペン先を浸し、手帳の余白にペンを走らせた。
カリ、と紙を引っ掻く心地よい抵抗と共に、鮮やかな深緑の線が引かれる。
驚くほど軽かった。中指のタコに角が当たらず、手首を軽く滑らせるだけで、流れるように文字が紡ぎ出される。
『樫の木』
そう書いた後、私は隣に小さく書き足した。
『耳の固いパン』
アルジール様がそれを覗き込み、低く噴き出した。
「まだパンの耳を根に持っているんですか」
「忘れるわけがありません。あの日から、作戦が全部狂ったのですから」
「美味しかったのだからいいでしょう」
彼は笑いながら、ペン軸と一緒に持ってきた小さな紙包みを開いた。中には角砂糖が入っていた。
「酸っぱいゼリーのお詫びです。こちらはちゃんと甘いので、安心してください」
「まあ、お砂糖を机に隠していらっしゃるの?」
「疲れた時にひとつ齧るんです。机に置いておくと同僚に食べられるので、引き出しに。内緒ですよ」
二人して声を潜めて笑い合う。
彼の休日は、洗濯か、木を削ること。そう聞いた時には地味だと思った。
その時間を私のために使ってくれたのだと、握った軸を見下ろす。
「……大切に使います」
今度は彼も茶化さず、「はい」とだけ答えた。
こんな贈り物を手渡されて、こんなふうに笑い合っているのに、これ以上「生活のテンポが合いませんでした」などと嘘を重ねられるはずがなかった。手帳の中の紙のメモは、もう完全に役目を終えている。
「……アルジール様」
インクを拭き取りながら、私は改まった声を出した。
「来週、エミリア叔母様からお茶のお誘いを受けているのです。『そろそろ良い返事が聞けるかしら』と、とても楽しみにしていらして」
アルジール様が、表情を引き締めて頷いた。
「俺のところにも、上司経由で叔母上からの伝言が届いています。……もう、引き延ばす段階ではありませんね」
「ええ。嘘の不一致を並べるのは、もうやめましょう」
私はしっかりと彼を見つめた。
「叔母様に、正直にお話ししませんか。見合いを壊す約束をしていたことも、全部」
「……怒られるでしょうね」
「ええ、とても。呆れ果てられると思いますわ」
アルジール様は少し困ったように眉を下げ、それから静かに、けれど力強く微笑んだ。
「分かりました。二人で叱られに行きましょう。……そのあとで、お茶を飲み直しませんか。今度は作戦会議抜きで」
「望むところです」
壁時計の針が十一時十分を指し、私たちは席を立った。
ペン先を拭いて外し、軸だけを手帳の留め具に挟む。
来週、叱られに行くのだ。それなのに、帰り道では何度も鞄を開けたくなった。




