第6話
水曜日の午後五時半。西に傾いた陽光が、中央広場の石畳を長い影で染めていた。
円形の巨大な噴水からは、白く砕けた水飛沫が絶え間なく立ち上り、初夏の乾いた空気を冷やしている。
行き交う人々は日暮れ前の買い出しや仕事の片付けに足を速め、水音の周囲だけがぽっかりと喧騒から切り離されていた。
噴水の丸い石縁に腰掛け、手帳の表紙を撫でていると、人波を縫って歩いてくる長身の姿が見えた。
アルジール様だった。上着はきちんと着ているものの、歩幅が大きく、少し息が弾んでいる。
「お待たせして申し訳ない。交代の引き継ぎに手間取ってしまって」
「いいえ、私もいま座ったところです」
立ち上がると、彼は噴水と私との間に立ち、飛沫が風でこちらへ流れてこない位置へ自然に体を滑り込ませた。
そして、居住まいを正すように上着の裾を引き、真っ直ぐに私を見た。
「……まず、昨日の非礼を詫びさせてください」
「え?」
「昨日は、引き止めてすみません。貴女にもご予定があるのに、時間までこちらで決めてしまった」
そう言って頭を下げたあと、彼はまだ何か言いたそうに唇を結んだ。
「怒ってなどいません。ただ……少し驚いただけです。あなたが私に向かってそれほど強い調子で仰るのを、初めて聞きましたから」
「焦っていたんだと思います」
アルジール様は自嘲気味に口元を緩め、水面を見つめた。
「昨日まで、今度はどこで話せるだろうと考えていたんです。それなのに貴女に『口実が尽きた』と言われて、次はないのかと」
彼はそこで言葉を切った。噴水の飛沫が、上着の肩を濡らしている。
「俺は、もう一度会いたかった。それだけです」
それだけ、と言ったくせに、こちらを見る目は少しも平気そうではなかった。
私もとっさには返事ができず、手帳の留め金に触れた。そんなふうに言われて嬉しい顔をしたら、もうごまかしようがない。
私は視線を落とし、手帳からあの紙の端切れを取り出した。
「……ですがカリスト様。私たち、次の言い訳が本当に思いつきませんのよ」
差し出した紙片を、彼がそっと覗き込む。
「食の好みも、趣味も、観劇の態度も、全部失敗しました。残っているのは『生活リズムの違い』くらいですが、あなたも私も、日が昇ったら働き、日が暮れたら帳簿をつける生活です。朝型と夜型の不一致すら作れませんでした」
「そうだな。お互いに、驚くほど真面目に机に向かいすぎている」
アルジール様が肩を落とした。
二人の間に、張り詰めていた空気が抜け、ふっと乾いた笑いがこぼれる。
「そもそも、どうして私たちはこうも一人で抱え込んでしまうのでしょうね。別に家族から強制されているわけでもないのに」
「全くだ。……誰かに頼むのが、昔からひどく下手なんですよ」
アルジール様は苦笑し、ポケットに手を突っ込んだ。
「ルカが騎士学校に入学したばかりの頃、物入りだからと気を使って『街の酒場で皿洗いの下働きをする』と言い出したんです。俺は長男の見栄で止めましたよ。剣を握る手を荒らすな、勉強だけしていろ、と。……そのくせ自分が夜勤の伝票処理を引き受けて寝不足になり、翌朝宿舎の階段を踏み外しかけた」
「まあ。それはルカ様も余計に恐縮なさったでしょうね」
「ええ。『兄貴が怪我をしたら元も子もない』と怒られました。それ以来、父と二人で分担して学費を工面するように段取りを直したんですが……あの時は完全に空回りしていましたね」
「ふふ、目に浮かぶようですわ」
おかしさが込み上げてきて、私は口元をハンカチで押さえた。
「でも、人のことは言えません。私の父も、収穫期には『オリーブ、あとは管理人に任せて早く寝なさい』と何度も言ってくれるのです。それなのに、小作人の一軒の地代計算にたった銅貨三枚分のズレがあるのを見つけてしまって。気になって眠れずに、夜中にこっそり書斎へ忍び込んで灯りを点け、泥棒と間違われて大騒ぎになりました」
「銅貨三枚で」
「ええ、たったの三枚です。父には『お前のその執念は誰に似たんだ』と呆れ果てられましたわ」
二人して顔を見合わせ、声を立てて笑った。
水飛沫のきらめきの中で、広場を歩く人々が楽しそうにこちらを一瞥していく。
「では、眠れなくなる前に相談することにしましょうか」
「銅貨三枚の行方でも?」
「その時は俺の階段の話を思い出してください」
それは効きそうだ。笑いすぎて浮いた涙を、私はハンカチで拭った。
笑い声が静かに引いていくと、アルジール様が穏やかな眼差しで私を見た。
「少し、肩の力が抜けました。……ありがとう、ローガン嬢」
「私の方こそ。自分の頑固さを笑い飛ばせたのは、久しぶりです」
私は手元の紙の端切れを見つめた。
線で消された嘘の口実たち。もう、無理に新しい嘘を書き足す気にはなれなかった。
「カリスト様」
「はい」
「母には……もう少し、返事を待ってもらうよう伝えます。今度は、私がそうしたいからと」
アルジール様が、わずかに息を呑む気配がした。
「……いいのですか」
「ええ。それに……私も、あなたともう少しお話ししてみたいですから」
言い終えた途端、頬がじわりと熱くなった。
逃げるように視線を広場の時計塔へ向けたが、隣の彼が嬉しそうに、けれど慎重に息を吐き出す気配が伝わってきた。
「光栄です。……次は、何か大義名分が必要でしょうか」
「大義名分なら、ちょうどありますわ」
私は鞄を抱え直し、少しだけ顔を上げて彼を見た。
「明後日の金曜日、領地の干し草を納める保管倉庫の検分日を調整するため、書類を持って再び補給部の窓口へ伺うことになっています。十番窓口に提出するだけの手続きですが」
「十番窓口なら、俺の机のすぐ目の前です」
アルジール様の口元が、はっきりと持ち上がった。
「十一時から休憩です。手続きが済んだ頃、俺も窓口を離れられれば、少しお話しできます」
「……わざわざ時間に合わせて伺っても、ご迷惑ではありませんか?」
「迷惑ではありません。……楽しみにしています」
少し視線を泳がせながらも真顔で答える彼がおかしくて、私は小さく頷いた。
夕闇が広場を包み込み、街灯に柔らかなオレンジ色の火が灯り始める。私たちは水音を背にして、並んで駅馬車の乗り場へと歩き出した。手帳を鞄にしまうと、隣の彼が「金曜ですね」ともう一度確かめた。
「はい。明後日です」
たった二日が、長い。




