第5話
観劇のあった土曜日から三日が過ぎ、火曜日の朝を迎えていた。
六月に入った王都は日差しが少しずつ強くなり、屋敷の庭の木々も濃い緑を茂らせている。領地の収穫と地代の清算が本格化するのは秋風の吹く頃だから、私の机仕事もいまのところは平穏そのものだった。
私室の書き物机で朝の郵便を仕分けていると、ノックの音と共に母が入ってきた。トレイには温かいハーブティーが二杯乗っている。
「お仕事の前にお茶を淹れたのよ、オリーブ」
「ありがとうございます、母様」
母は向かいの椅子に腰を下ろし、湯気の立つカップに口をつけた。柔らかな眼差しが、私の手元に注がれる。
「土曜日の観劇、とても楽しかったようね。エミリアが嬉しそうに手紙をくれたわ。二人で身を乗り出して舞台をご覧になっていたって」
私はカップの縁に唇を押し当てたまま、内心で舌を出した。やはり見られていたのだ。
「舞台装置が珍しくて、少し観察していただけですわ」
「ふふ、アルジール様も熱心に説明してくださったのでしょう? あの方、口数は多くないけれど誠実で、とても感じの良い方ね」
母は微笑み、それから少し声の調子を落ち着かせた。
「ねえ、オリーブ。急かすつもりはないのよ。合わないと思ったら、遠慮なく言ってちょうだいね。約束通り、今年の見合いはこれで終わりにして、秋の領地の仕事に専念して構わないのだから。ただ……もし気乗りがしないなら、カリスト様のお時間を無駄に奪ってしまうのも申し訳ないでしょう?」
「……そうですね」
「ゆっくり考えて、あなたの気持ちを聞かせてね」
母はそれだけ言い残し、空になったカップを下げて部屋を出ていった。
部屋が静まり返ると、私は深く息を吸い込み、机の引き出しから手帳を取り出した。
挟んであった紙の端切れを机の上に広げる。
そこには、これまで必死に考え出した破談用の作戦が、几帳面な文字で並んでいた。
・食の好みの不一致(朝食のパン) →自然に分け合って大好評
・趣味の不一致(古い地図) →街道の構造で盛り上がり失敗
・観劇の感想 →二人とも舞台の仕掛けに夢中
・味覚の断絶(酸味と甘み) →互いの領分を侵さず平和に終了
項目にはすべて、二重線が引かれている。
使える口実が、もう一つも残っていなかった。
これ以上、合わない証拠を揃える必要はないのだろう。母には「結婚を考える気持ちになれません」と言えばいい。叔母様に引き止められても、母が間に入ってくれる。
断れる。最初に望んだ通りに。
――なのに。
ペンを持った私の右手は、一枚の白紙の上でぴたりと止まったまま動かなかった。
(……一方的に終わらせるのは、不誠実だわ)
頭の中で、もっともらしい言い訳が立ち上がる。
彼だって、弟たちのために今年の見合いを休止したがっていたのだ。私だけの都合で勝手に断りの返事を出して、彼側の調整に不都合が出たら申し訳ない。
事前に結んだ協定なのだから、終わらせるにしてもきちんと二人で相談して、同時に手を引くのが筋というものだ。
……そう、筋を通すためだ。
決して、あの無愛想な顔で酸っぱいゼリーを食べていた彼と、もう話せなくなるのが寂しいわけではない。
「よし」
私は立ち上がり、鞄を取った。午後には補給部へ書類を届ける用がある。彼が休憩に入る頃に行けば、少し話せるかもしれない。
手紙でも済むはずだという考えは、鞄の留め金と一緒にぱちんと閉じた。
予定を繰り上げ、昼前には王宮の一角にある騎士団補給部の建物へ足を運んでいた。
父から預かっていた軍馬用干し草の納品量を確認する書類を抱え、受付の列に並んだ。
石造りの補給本部は、革靴の足音と怒号混じりの指示が飛び交い、貴族の邸宅とはまるで違う乾いた空気が漂っている。受付の木製カウンターで書類の控えを受け取り、担当官に礼を言った。
カリスト様への伝言を頼もうか迷っていた、その時だった。
「――おい、第三倉庫の乾酪、搬入数が伝票と合っていないぞ。もう一度数え直させろ」
聞き覚えのある低い声が廊下に響いた。
振り返ると、書類の分厚い束を抱えたアルジール様が、早足で通路を歩いてくるところだった。
礼服ではない。紺色の作業用シャツの袖を腕まくりし、革のエプロンを腰に巻いている。髪は少し乱れ、眉間には深い皺が寄っていた。部下の若い兵士が「は、はい!」と慌てて駆け出していく。
普段見合いの席で見せる整った顔つきとはまるで違う、現場の指揮官の厳しさだった。
思わず息を呑んで立ち尽くしていると、アルジール様が私の姿に気づいた。
一瞬、彼の動きが止まる。
「……ローガン嬢?」
眉間の皺がふっと消え、彼は抱えていた書類を近くの棚へ手早く置くと、大股でカウンターの前まで歩いてきた。
「どうされたのですか、こんな場所まで。何かご実家の手続きで不備でも?」
「いえ、干し草納品の確認書類を届けに来ただけです。……お忙しいところをお邪魔してしまいましたね」
「いえ、書類はここで間違いありません。……少しなら、お話しできます」
アルジール様はカウンター越しに私を見下ろした。シャツの胸元から覗く首筋に、薄っすらと汗が光っている。
「何か、ありましたか」
周囲には他の事務官や兵士たちがいる。込み入った話などできるはずもない。
私は鞄から手帳を取り出し、指先で少しだけ開いて見せた。
「口実が、尽きました」
小声でそう告げると、アルジール様は一瞬だけ目を瞠り、それから自分の手帳の厚みを確認するように胸元に手を当てた。
「……そうでしたか」
落胆したような、あるいは別の何かを押し殺したような、静かな声だった。
奥の部屋から「カリスト事務官、輸送隊の馬車が着きました!」と呼ぶ声が響く。
長居はできない。私は頭を下げてその場を辞そうとした。
「あ、あの、カリスト様。ですから、無理に引き延ばすのもご迷惑でしょうし、私の方から母に――」
「ローガン嬢」
アルジール様が、少し強い調子で私の言葉を遮った。
カウンターの木の天板に、彼の分厚い指先が置かれる。
「明日の夕刻、街の中央広場にある大噴水の前まで来ていただけますか。勤務は五時で終わります」
「え……?」
「一度、落ち着いて話したいんです。……このままお別れするのは、困る」
言った彼自身が、驚いたように口をつぐんだ。けれど、私から目を逸らすことはなかった。
呼び出しの声が再び上がり、アルジール様は「明日、五時半に」と短く言い残すと、背を向けて奥の倉庫へと駆け戻っていった。
カウンターに残された私は、胸の奥が早鐘を打っているのを感じながら、静かに息を吐き出した。
破談の相談をするはずなのに、明日の夕暮れが、どうしようもなく待ち遠しかった。




