第4話
王立劇場のロビーは、開演前の華やいだ熱気に満ちていた。
二階の中央桟敷へ続く階段のふもとで、私は母の従姉妹であるエミリア叔母様と出くわした。叔母様は観劇仲間のご婦人方と連れ立っており、私たちを見つけると扇を揺らして微笑んだ。
「一階の平場から見守っているわね。若いお二人のお邪魔はいたしませんから、ごゆっくり」
そう言い置いて去っていった叔母様の背中を見送りながら、私は小さく息を整えた。見張りを立てられているわけではないが、視界の隅にいるだけで背筋が勝手に伸びる。
隣に立つアルジール様は、いつもの、手入れの行き届いた紺の上着を着ていた。肩幅が広いせいで、仕立ての良さより生地の頑丈さが先に目に入る。
「ローガン嬢。作戦の確認を」
彼が人の波を避けながら、低めの声で歩調を合わせてくる。
「開演したら、あの足の生えた魚の地図を膝に広げて、退屈そうにあくびをするのだったな」
「……やめました」
「え?」
「よく考えたら、演者の方々にも、周りで純粋にお芝居を楽しみに来ている方々にも大変失礼です。地図は鞄の底に置いておきますし、あくびの芝居をするとしても幕間の休憩時間だけにします」
常識的な判断だと自分では思う。アルジール様は虚を突かれたように目をしばたたかせ、それから納得したように頷いた。
「そうですね。楽しみに来た人たちには、何の関係もない。では、感想と菓子の好みだけで勝負ですね」
「ええ。お芝居の邪魔までして断る理由を作るのは、さすがに違いますわ」
階段を上り、中央桟敷の重い扉を開ける。二列だけ設えられた革張りの座席は、舞台全体が見渡せる素晴らしい位置だった。
開演を告げる鐘が鳴り、場内の豪奢なシャンデリアの光が徐々に絞られていく。
舞台の幕が上がると、そこは古い時代の港町を模した見事な書き割りの世界だった。交易船の船長と没落貴族の跡取りが、嵐の海を越えて失われた航路を探すという歴史冒険劇だ。
始まって十分も経たないうちに、私は船長の大ぼらに笑い、気弱な跡取りの行く末を心配していた。幕間に退屈そうな顔をすることなど、すっかり忘れていた。
そして第二幕の終盤、舞台転換の仕掛けに目を奪われた。
荒れ狂う嵐の場面から、夜明けの静かな入江へと景色が一変する大仕掛けだ。舞台裏の太い麻綱が張り詰め、巨大な船の舳先が滑車の回転と共に滑らかに舞台中央へ滑り込んでくる。
重厚な滑車の回転音――キィン、と高く澄んだ鉄の軋みと、乾いた木材同士が噛み合う鈍い振動が、客席の床を通じて微かに伝わってきた。
(あの大きな船を、どうやって動かしているのかしら!)
あの巨大な木組みの船が、横揺れひとつ起こさずに舞台の定位置へ滑り込んでくる。舞台裏で綱を操る技師たちの確かな腕前が目に浮かぶようだった。
思わず身を乗り出し、手すりに指をかけた瞬間、隣からもまったく同じタイミングで衣擦れの音がした。
アルジール様もまた、前のめりになって桟敷からわずかに見える舞台袖へ目を凝らしていた。
暗がりの中で、互いの視線が交差する。
「……綱の引き具合が見事だな。船体の重さを全く感じさせない」
アルジール様が、ささやくような声で言った。
「ええ。引き込みの速度も滑らかですわ。あれだけの大きな仕掛けを、役者の足元を揺らさずにぴたりと止めるなんて」
小声で返し、私たちは同時に口元を押さえた。
主役が船長から滑車に移っただけで、二人とも少しも退屈していない。目が合うと笑いそうになるので、私は慌てて舞台へ向き直った。隣で彼が咳払いをひとつした。
拍手に夢中になっているうちに、第一部の終わりを告げる幕が降りた。退屈な顔の作り方など、もう思い出せなかった。
場内に明かりが戻り、二十分間の休憩時間となった。
ロビーへ出ると、喉を潤す飲み物や菓子を買い求める客で列ができていた。
「ローガン嬢、いまこそ好みの違いを実演する機会です」
売店の列に並びながら、アルジール様が手帳を広げることなく小声で耳打ちしてきた。
「私はひたすら甘い焼き菓子を所望します。カリスト様は、あの不気味な酸味の塊をお選びください」
「不気味とは聞き捨てならないが……売店にあるかな」
硝子ケースの前に進み出た私たちは、それぞれ注文を告げた。
私は厚焼きのガレット。たっぷりの有塩バターと小麦の香りが漂う、甘みと塩気のしっかりした焼き菓子だ。
一方のアルジール様が指さしたのは、濃い緑褐色の平たい瓶だった。苦橙の皮を果汁と少量の砂糖で煮詰めて乾かした、見るからに舌の奥が痛くなりそうな保存菓子である。
トレイを受け取り、ロビーの柱の影にある丸テーブルへ運んだ。
「……やはり、見ていて眩暈がします。そんな刺激の強いものを好まれるなんて、味覚が信じられません」
私はガレットの端を小さく割り、口へ運んだ。サクサクとした豊かなバターの風味が広がり、満ち足りた心地になる。
「俺からすれば、その濃厚なバター菓子を休憩中に食べる方が胃にもたれそうで不思議ですよ。一口ごとに白湯が三杯要る」
そう言いながら、アルジール様は苦橙の皮を一枚つまみ、噛み締めた。渋みと酸味が効いているのだろう、彼が喉を鳴らして深く息をつく。
本来なら、ここで「こんなに好みが違う相手とはやっていけませんわ」と眉をひそめるべきだった。
私は残りのガレットを食べ、彼は苦橙の皮をもう一枚つまんだ。
「……もう一つ買っておきますか」
「何をです?」
「ガレット。ずいぶん惜しそうに召し上がるから」
そこへ、エミリア叔母様がご友人と通りかかった。私の皿と彼の手元を見て、にこにこと会釈なさる。
違います。いま、好みが合わないところをお見せしていたのです。
言う暇もなく、叔母様は人波の向こうへ行ってしまった。
「……カリスト様」
「何でしょう」
「私たち、好みが全く一致していないのに、驚くほど険悪になりませんね」
私の呟きに、アルジール様は手元の紙包みを畳みながら、ふっと口元を緩めた。
「そうですね。貴女にこれを全部食べてくれとは思いませんし。……俺の分が減る」
「ずいぶん正直ですこと! 私もガレットを譲る気はありませんけれど」
二人して同時に小さく息をこぼした。
後半の舞台も滞りなく終わり、劇場の外へ出た頃には、夕方の涼しい風が広場を吹き抜けていた。
遠くで馬車へ乗り込むエミリア叔母様の満足げな横顔が見え、私たちは申し合わせたように人の少ない街灯の脇へ足を向けた。
「……ローガン嬢」
アルジール様が上着の襟元を正し、少しばかりバツの悪そうな顔で私を見下ろした。
「申し訳ない。舞台転換の滑車に見惚れて、芝居どころではなくなってしまった。俺の芝居下手にも程がある」
肩を落とす彼があまりに大真面目で、私は手に持った観劇の記念パンフレットで口元を隠した。
「いいえ、カリスト様。お気になさらないで」
「しかし、これでは叔母上に『大変充実した時間を過ごした』としか報告がいかない」
「実際、大変充実していましたもの」
私の即答に、アルジール様が目を見張った。
「あ……いえ、お芝居と、舞台裏の滑車のことですけれど」
慌てて言い添えた私に、アルジール様は一瞬ぽかんとした顔をし、それから吹き出すように笑った。
「なるほど。では、次の機会までに、もっと滑車に興味の湧かない場所を探さねばなりませんね」
「ええ。うっかり感心してしまわない場所を、厳重に選定してください」
迎えの馬車に乗る前に、私は一度だけ振り返った。彼はまだ広場にいて、こちらに気づくと手を上げた。
つられて手を振り返してから、鞄を胸に抱く。
地図は一度も開いていない。次に見せればいい、と思ってしまった。




