第3話
朝食会の惨敗を経て、私は危機感を募らせていた。このまま土曜日も楽しく過ごしたら、叔母様に何と報告すればいいのか。あの観劇券に込められた期待は、薄い紙のくせに重かった。
木曜の夕刻、私は王宮の裏手にある大衆食堂の片隅に、アルジール様を呼び出した。
油の染みた素朴な木の丸テーブル。周囲は仕事帰りの職人や下級官吏たちで賑わい、ここなら母の観劇仲間と出くわす心配も少ない。通りには、送ってくれた従僕と馬車を待たせてある。
「……こちらからお呼び立てして、申し訳ありません」
向かいに座るアルジール様は、上着を椅子の背にかけ、シャツの袖を肘までまくっている。腕の筋が浮き出ていて、いつもの礼服姿よりぐっと生活感がある。
「いえ。こういう気取らない店の方が落ち着きます。王宮の食堂も似たような騒ぎですから」
運ばれてきたのは、熱々の豆煮込みと粗挽きの黒パン。そして、彼が注文したデザートの小鉢だ。ガラスの器に、鮮やかな黄色をした柑橘ゼリーが揺れている。
「お菓子がお好きだと仰っていましたが、いつもそれを召し上がるのですか。……ずいぶん柑橘の香りが強いですね」
「柑橘の皮まで煮詰めたやつです。目が覚めるので、夜勤の前によく食べるんですよ。……一口、召し上がりますか?」
「では、お言葉に甘えて」
まだ使っていない小さなスプーンを借り、端をひと匙すくって口に含んだ。
――ッ!
奥歯の付け根がきゅっと縮み上がり、思わず両目をぎゅっと瞑った。
「す、酸っぱい……! これ、お砂糖が入っていますの!?」
「入っていますよ。酸味も、これでも控えめだそうです。この渋みが美味いんですが」
「信じられません! レモンを丸ごと絞って塩を振ったような味がします!」
私が涙目になって卓上の水をあおると、アルジール様は本当に心外そうな顔をした。
「ローガン嬢は、もっと甘い菓子がお好みですか」
「当たり前です! お砂糖とバターの味がちゃんとする焼き菓子が好きです。こんな、罰ゲームみたいな酸味の塊はご遠慮したいですわ」
「罰ゲームとは手厳しいな……」
彼は少し唇を尖らせ、店員にもう一本スプーンを頼み、残りのゼリーを平然とすくった。
よし、と私は心の中で拳を握った。
(不一致が一つ見つかったわ! 味覚の完全な断絶よ!)
「カリスト様、いまの反応、覚えておいてください。観劇の幕間に甘味を買って、この好みの違いを叔母様にお見せするのです。今度こそ本当の不一致ですわ!」
「なるほど。これなら、少なくとも嘘をつく必要はありませんね」
アルジール様は胸ポケットから手帳を取り出した。挟まれていたのは、削り跡の残る滑らかな木製の細身のペン軸だ。市販の金属製のものとは明らかに太さも手触りも違っている。
「不思議なペンですね。細工がとても滑らか」
「自分で削ったんです。樫の木をナイフで少しずつ。市販のペン軸はどれも太すぎて、一日中台帳を書いていると指がこわばるので」
「本当にご自分で削られたのですね。お話には伺っていましたが、これほど滑らかに仕上がるとは。……分かります、太い軸って、何時間も数字を書いていると中指の付け根にタコができて、ずきずき痛むのですもの」
何気なくこぼした愚痴に、アルジール様の視線がふっと私の右手に落ちた。
人差し指と中指の側面をじっと見つめられ、私は慌てて手を引っ込めた。淑女の手としては、いささかペンダコが育ちすぎている自覚があったからだ。
「すみません。俺もそこが痛くなるので。……軸を削る時、指に当たるところだけ少し細くすると楽になりますよ」
「今度、削り方を教えてください」
「ええ、俺でよければ」
頷いてもらい、私は鞄を開いた。
「……さて、本題です。土曜日の作戦を固めましょう」
私は鞄から四つ折りにした古い羊皮紙を取り出し、広げた。先週、古書店街の露店で見つけた、半世紀前の旧街道の測量図だ。
「これをご覧ください。私の密かな趣味なのですが、古い時代の縮尺が狂った地図を集めるのが好きなのです。今回の観劇で、私はこの地図をわざと膝の上に広げて見せびらかします。『お芝居より古い紙の匂いの方が好きですの』と微笑んでみせますわ」
「なるほど。芝居を軽視する変わり者の令嬢を演じるわけですね」
「ええ。カリスト様は『観劇の席でそんな埃っぽい紙を広げるなんて非常識だ』と眉を寄せて冷たくあしらってください」
アルジール様は身を乗り出し、机の上に広げた地図を覗き込んだ。
しかし、彼の視線は私の意図とはまったく別の場所へ吸い寄せられていた。
「……ローガン嬢。この中央山脈の抜け道、川の合流点の手前で道が途切れていますが、標高差の書き込みがおかしいですね」
「え?」
「ここ、西側の等高線が詰まっているのに、荷車の記号がある。もし実際にこの傾斜で馬車を通したら、荷崩れを起こして全員谷底へ真っ逆さまですよ。当時の補給部隊は相当ひどい目に遭ったに違いない」
「……そこを見ますの?」
「見ますよ。道が通れるかどうかは死活問題ですから。……いや待ってください、この東の湖の真ん中に描かれている、妙に長いヒゲの生えた生き物は何ですか」
アルジール様が指さした先には、当時の絵師が余白を埋めるために悪ノリで描いたとおぼしき、ひどく間の抜けた顔をした大魚の挿絵があった。
「……『湖の主』らしいです。魚のくせに、なぜか前足が二本生えています」
「前足……? 歩く気なのか、この魚は」
「陸に上がりたかったのでしょうね。目が完全に虚ろですけれど」
ぷっと、アルジール様が吹き出した。
いつも整然としている彼の眉が八の字に下がり、口元を押さえて肩を揺らしている。つられるように私も笑いがこみ上げ、二人して食堂の片隅で、粗雑な地図を囲んでクスクスと笑い続けた。
周囲の喧騒が遠のき、古い紙の乾いた匂いと、彼の石鹸の匂いだけがやけに鮮明になる。
(……いけない)
私は喉元まで上がってきた笑いを飲み込み、居住まいを正した。
「カリスト様! 感心したり笑ったりしてどうするのですか。呆れる練習をしてください!」
「すみません、あまりに見事な前足だったもので」
彼は目尻を拭い、ペン軸をしまった。私の鉛筆を借りて、端切れのメモに書き足す。
『相違点:味覚の断絶(酸味の許容度)。劇場では甘味の選択で揉めること』
几帳面で整った、少し角張った字だ。
「では土曜日、劇場のロビーで。……開演中は、予定通り退屈そうにあくびをしてください。俺もできるだけ無愛想に腕を組んで前だけ見ていますから」
「約束ですよ。今度こそ『お話が合いませんでした』と叔母様にお伝えしましょうね」
大衆食堂の出口で別れる際、アルジール様は軽く頭を下げ、私の顔をまっすぐに見つめた。
「ええ。ですがローガン嬢、あの酸っぱいゼリー、次はもう少し砂糖の多い店を探しておきますよ」
「もう結構です!」
背中を向けて歩き出しながら、私は火照った耳たぶを指先で押さえた。
迎えの馬車へ乗ってからも、あの魚を見て笑った顔が頭から離れない。
土曜日は、どんな顔で無愛想を装うつもりなのだろう。
想像して口元が緩み、慌てて扇で隠した。失敗してもらわなければ困るのに、もう見てみたくなっている。




