第2話
「朝の涼しいうちなら、騎士団の公務を控えたカリスト様もゆっくり過ごせるでしょう?」
そんなエミリア叔母様の計らいで用意されたのは、数日後の朝食会だった。場所は叔母様のタウンハウスのテラス。
白く塗られた鉄製テーブルの上には、焼きたての丸パンが山盛りに盛られた銀のバスケットと、湯気を立てるポトフ、数種類の果実ジャムが並んでいる。
同席しているのは、叔母様と私の母。そして、出勤前の制服姿で背筋を伸ばしたアルジール様だ。
(今日こそは、完璧にすれ違ってみせるわ!)
私はナプキンを膝に広げながら、昨晩手帳に書き殴った作戦を頭の中で反芻した。
本日の不一致テーマは『食の好み、特に主食の質感における埋めがたい溝』である。事前に交わした短い連絡メモで、私は彼に伝えてあった。
『私はひたすら固いパンの端を主張します。カリスト様はふわふわの柔らかいパン以外は認めない美食家を演じてください』と。
朝食の好みが根本から噛み合わなければ、「毎日の食卓を共にするのは難しそうだ」と母親たちに渋い顔をさせられるはずだった。
「まあ、美味しそうなパンね。こちらのパン職人は王都でも評判なのよ」
母が目を細め、バスケットから湯気の立つパンを取って私の小皿へ置いた。外側はこんがりと濃い焼き色がつき、見るからに頑丈そうな、私の大好物のカンパーニュだ。
よし、いまよ。
私はフォークを手に取り、少し大げさに眉をひそめてみせた。
「母様、わたくし、このパンの柔らかい中心部分は少し苦手なのです。噛みごたえのある、固く焼き締まった端の皮の部分しか受け付けませんの。贅沢で申し訳ありませんけれど」
どうだ、と言わんばかりに視線をアルジール様へ送る。
さあカリスト様、出番です!「朝からそんな硬いものを噛むなんて信じられない、私は絹のように柔らかいパンしか口にしたくない」と、眉を吊り上げて不快感を露わになさい!
アルジール様は一度私の皿を見つめ、それからパン用のブレッドナイフを手に取った。
「失礼。切り分けても?」
いよいよ柔らかさを比べて文句を言うのだと思い、私は皿を差し出した。彼はパンをすっと二つに切り分ける。
――そして。
ナイフとトングを鮮やかに使い、外側の分厚く香ばしい耳の部分をごっそりと私の皿に残し、ふんわりとした白い中心部分だけを、自分の小皿へ軽やかに移した。
「……え?」
思わず声が漏れた。
アルジール様はごく平然とした顔で、バターナイフを取り上げながら言った。
「ちょうどよかった。俺は外側の硬い皮を残しがちで、中の柔らかいところばかり食べてしまう行儀の悪さがありましてね。ローガン嬢が皮を好まれるなら、何も無駄になりません」
ちょっと待ってほしい。
(何やってるんですか、あなた――!?)
テーブルの下で、私はドレスの裾に隠して彼の革靴の爪先をトン、と小さく小突いた。一回だけ。渾身の抗議を込めて。
けれどアルジール様は痛がりもせず、それどころか私の皿の上のパンの耳を見つめ、「足りなければ俺の分の皮も差し上げますよ」と至極穏やかに微笑んでいる。
「まあ……!」
エミリア叔母様が、胸の前で両手を合わせて感嘆の声を上げた。
「なんて自然なお気遣いなの。お互いの好みを補い合って、一つのパンを綺麗に分け合えるなんて。滅多にない相性の良さですわ」
「本当ですねえ、エミリア」
母までがうっとりと頬を染めている。
「オリーブは家でも皮ばかり食べたがって、中の柔らかいところを主人に押し付けて小言を言われておりましたの。カリスト様のような方がお隣にいてくだされば、朝から無駄がなくて助かりますわ」
「恐れ入ります。実家でも弟たちとパンを奪い合って育ちましたので、好みが分かれている方が平和で助かります」
アルジール様がこともなげに言い、自分の皿に移した柔らかい白パンをちぎって口に運んだ。いかにも美味しそうに頬を緩めている。
違う。そうじゃない。
私は引きつりそうな頬の筋肉を総動員して、紅茶のカップへ手を伸ばした。
「カ、カリスト様。お気遣いはありがたいのですが、毎朝こうしてパンを解体して分け合うなど、少々手間がかかりすぎて煩わしくはありませんこと? 食卓のテンポというものが……」
「これくらいなら、すぐです。それに」
アルジール様はジャムの小鉢をこちらへ寄せながら、真面目な顔で続けた。
「さっきまで難しい顔をなさっていたのに、いまは嬉しそうなので。……いや、食事中にじろじろ見て失礼しました」
(見ていらしたんですか!?)
抗議したいのに、頬が熱くてうまく睨めない。これでは機嫌よく見つめ合っているようにしか見えないではないか。
叔母様と母はもうすっかり上機嫌で、「まあまあ」「本当にねえ」と目を見交わしている。完全に裏目だ。手帳の計画が、開始十五分で灰燼に帰した。
食事が終わり、叔母様が満足げに銀のトレイを運ばせた。乗っていたのは、小さな封筒だ。
「実はね、お二人にぴったりのものをご用意したのよ」
叔母様が取り出したのは、王立劇場の紋章が箔押しされた二枚の紙片――今週末の観劇券だった。
「中央桟敷の、とても良いお席なの。朝食をご一緒して、これほど息が合っていらっしゃるのだから、きっとお芝居の好みも通じ合うはずですわ。私も友人と参りますから、幕間には感想を聞かせてちょうだい。土曜日の午後は空いているでしょう?」
ここでお断りすれば、朝食会で何があったのかを聞かれる。何もなかった。むしろパンは美味しかった。
私が返事に詰まると、アルジール様がちらりとこちらを見た。もう一度だけ、というつもりで小さく頷き、二人で礼を述べた。
「……お心遣い、心より感謝いたします」
「ありがとうございます、エミリア夫人。大切に使わせていただきます」
母と叔母様は、このあと連れ立って仕立て屋へ向かうという。私たちも帰り支度をして、屋敷のエントランスへ出た。
母たちが従僕へ馬車を回すよう指示を出しているわずかな隙に、私たちは玄関脇の円柱の陰へ滑り込んだ。
「……カリスト様」
私は扇を広げて口元を隠し、低く鋭い声を絞り出した。
「お見合いを壊す約束でしたよね? なぜそんなに鮮やかにパンを分けてしまうのですか!」
アルジール様は長身を少し屈め、困ったように眉を下げた。
「すみません。中の柔らかいところは本当に俺の好物で、これなら残さずに済むと思ったら、つい。弟たちと食べている時の癖が出ました」
「つい、ではありません! その親切心が一番の協定違反です!」
「善処する。……だが、あのパンの耳、美味しかっただろう?」
「……とても香ばしくて最高でしたけれど!」
思わず本音で返してしまい、アルジール様が喉の奥で小さく笑った。その笑い方が悔しいくらい悪びれていなくて、私はぐっと言葉を詰まらせた。
「次は劇場ですね」
彼は手元のチケットを上着の懐へしまい直しながら、悪戯っぽく琥珀色の瞳を細めた。
「今度こそ、芸術に対する見解の不一致で大失敗してみせますよ」
「ええ、絶対に失敗してくださいね。頼みますよ、同盟者様」
次こそは、と手帳を開く。
食の好みの項目に二重線を引いてから、少し迷い、余白に書き足した。
『柔らかい中身は、本当にお好き』
忘れて同じ失敗をしないためだ。もちろん。




