第1話
銀のフォークが皿の縁に触れる、澄んだ高い音がサロンに響いた。
母は、お茶会用のレース手袋を外して、上品に焼き菓子をつまんでいる。向かいの長椅子には、母の従姉妹にあたるエミリア叔母様が、上機嫌で座っていた。
叔母様の屋敷へ招かれて、まだ半刻も経っていない。
「本当に、よくお似合いだこと。二人とも背筋が綺麗に伸びていて気持ちがいいわ」
「ええ、エミリア。わたくしも安心いたしました。オリーブは秋になると、領地の帳簿にかかりきりで肩をすくめてばかりですから」
母の朗らかな声に、私は愛想笑いを浮かべたまま、膝の上のナプキンをそっと握り直した。
私――オリーブ・ローガンは子爵家の長女で、今年で二十二歳になる。王都と領地を行き来しながら、秋になれば父や管理人と一緒に地代や収穫の帳簿を突き合わせるのが年中行事だ。
そんな私に、母とエミリア叔母様が「社交期の終わりに、一度だけでも」と熱心に勧めてきたのが、本日の見合いだった。
相手はカリスト男爵家の長男で、王宮の騎士団で補給調達の事務官を務めているアルジール・カリスト様、二十四歳。叔母様のご主人が彼の上司で、その縁で引き合わされた。
(……絶対に、あの人も別のことを考えているわ)
私は伏し目がちに、テーブルの斜め向かいの彼を観察していた。
アルジール様は仕立ての良い紺の礼服を着ているが、右袖のボタンだけ糸の留め方が少し新しい。自分で繕ったのだろうか。指先にはインクの染みがわずかに残っている。
机仕事ばかりではないのだろう。その手は節くれだって分厚かった。
何より雄弁なのは、彼の目だった。
母たちの言葉に丁寧に応対しているものの、会話の合間ごとに、壁の振り子時計の針へ視線が跳んでいる。締め切り前の帳簿を睨む私のそれとまったく同じ、切羽詰まった実務家の目つきだ。
「アルジール様は、補給部で大変重宝されているそうですのよ、オリーブ」
「まあ。日々たくさんの物資を差配なさるのは、骨が折れるお仕事でしょうね」
「恐れ入ります、ローガン嬢。帳簿と倉庫を行き来するばかりで、気の利いた話もできませんが」
声は落ち着いているが、口元の筋肉が微かに強張っていた。彼もまた、慣れない席で笑顔の維持に全力を注いでいるのだ。
実のところ、私は母と事前に約束を交わしていた。『この一件だけはちゃんとお会いします。それでもご縁がなければ、今年の紹介はこれでおしまいにしてください』と。
母も納得してくれたが、だからといって初対面で「忙しいので帰ります」などと言えるはずがない。以前の見合いでは、断ったあとも叔母様から「もう一度だけお会いしてみたら」と勧められた。
悪い方ではなかった、と付け足したのがいけなかったらしい。今回も同じことになるのは避けたかった。
ふと、アルジール様と視線が正面からぶつかった。
彼の眉がわずかに動いた。私も時計を気にしていたことに、気づかれたらしい。
「ご婦人方」
沈黙を破ったのは、彼の方だった。
「少し、風に当たってまいりましょうか。ローガン嬢に、中庭の薔薇をお見せしたいのですが」
「まあ、素敵ね。行ってらっしゃいな」
母たちが嬉しそうに頷き合うのを見届け、私は淑やかに立ち上がった。
サロンを出て重厚なガラス戸を抜けると、初夏の温かい空気が頬を撫でた。噴水の水音が心地よく響き、白い薔薇の生垣が周囲の視線を遮っている。
二人きりになった途端、アルジール様は短く息を吐いた。
「助かりました。息が詰まりそうだった」
「お察しいたします。時計の針を五分ごとに確認なさっていましたものね」
私の指摘に、彼は目を丸くし、それから参ったように眉を下げた。
「見苦しいところをお見せしました。……夕方までに、週明け納入分の手配書を一部、騎士団本部に通しておかねばならなくて」
「やっぱり、お仕事のことでしたか」
「はい。ですが、貴女もカップの紅茶が冷め切るまで、ほとんど口をつけておられなかった」
「観察がお早いですね」
「数をごまかす業者を相手にしていますので」
肩の凝らないやり取りに、私は内心で胸をなで下ろした。気取った駆け引きを好む人ではなさそうだ。生垣の陰で足を止め、私は向き直った。
「カリスト様。率直に伺ってもよろしいでしょうか」
「どうぞ。何でしょう」
「あなたも、年内のご結婚を急いでおられないのではありませんか?」
アルジール様は足を止め、琥珀色の瞳を少し見開いた。
「なぜ、そう思われますか」
「ご紹介の折に、弟様お二人がまだ学生でいらっしゃると伺いました。カリスト様はお仕事だけでなく、長男としてそちらの支えもおありなのではと」
少し踏み込みすぎたかと思ったが、彼は気を悪くした様子もなく、苦笑交じりに頷いた。
「よくご存じですね。次男のルカが騎士学校の最終学年で、来春の任官まで物入りなんです。三男のニコもまだ学生ですし、家計の分担が落ち着くまでは、自分の所帯を持つのは少し先送りにしたい。父にもそう話して、この見合いを最後に来春まで紹介は休む約束になっていました」
「まあ。実は、私もなのです」
思わず声が弾み、手元の扇を握り直す。
「秋から冬にかけて、領地の地代や収穫関係の台帳整理がありまして。父と管理人を手伝うため、私も今年はこの一件を最後にしてもらう約束でした」
「……では、お互いに同じ約束を抱えて、この席に座っていたわけですか」
「ええ。ですが、悪い方ではなかったと伝えると、『だったらもう一度』となるのです。忙しいだけなら待てばいいでしょう、とも。お相手に不満があるわけではないのに、断る理由を探すことになってしまって」
「……分かります。俺も父に、婚約だけ先にしてはどうかと言われました。待たせる約束をするほど、まだ何も知らないのに」
置かれた境遇があまりに似通っていて、私たちは同時に小さく笑ってしまった。サロンの重苦しさが嘘のように消えていく。
「ですから、提案です」
私は手帳から、折りたたんだ一枚の紙の端切れと鉛筆を取り出した。
「二人で口裏を合わせて、ささやかな『相性の不一致』を作りませんか? 人柄を否定するのではなく、『誠実にお話し合いましたが、生活のテンポが合いませんでした』と報告するのです」
「なるほど。穏便な理由での円満終了か」
「はい。そうすれば誰も傷つかず、今季の見合いを静かに終えられます」
アルジール様は手帳の紙片を見つめ、真面目な顔で考え込んだ。
「悪くないですね。……具体的には、どんな不一致を?」
「例えば……休日の過ごし方でしょうか。私は朝から静かに机に向かっていたい方ですが、カリスト様がもし、休日は日の出と共に馬を走らせたい派だと言ってくだされば」
「あいにく、俺の休日は部屋で洗濯をするか、木を削ってペン軸を作るくらいです」
「……地味ですね」
「貴女の休日と大差ないのでは?」
思わぬ突っ込みに、私は言葉を詰まらせた。確かに、それだと生活リズムが合いすぎてしまう。
「で、では! 食の好みはいかがでしょう。私は、パンはしっかりと噛みごたえのある固い耳の部分が好きなのですけれど」
「俺は、菓子には目がありませんが、食事は手早く腹にたまれば何でもいい方です。……待ってください、これではただの世間話だ」
アルジール様が額を押さえて低く笑った。喉を鳴らす笑い声が思いのほか耳に心地よくて、私は少しだけ頬が熱くなる。
「失礼、調子が狂いました。貴女と話していると、どうも仕事の打ち合わせのようになってしまう」
「お互い、実務ばかりやってきた弊害ですね」
「ええ。では、一度ゆっくり話して合わなかった、と二人から伝えることにしましょう。……問題は、その合わないところですが」
「叔母様のことですから、きっと次のお茶の席も用意なさいます。それまでに考えて、連絡いたしますわ」
私が紙片に『相性の不一致を探すこと』と書き留めた、その時だった。
ふいに強い風が吹き抜け、手元から紙片がふわりと舞い上がった。
「あっ」
薔薇の棘に引っかかりそうになった瞬間、横から伸びてきた手が、空中で鮮やかに紙を捕まえた。
「危ない」
身を乗り出したアルジール様の袖口から、石鹸と清潔な紙の匂いが漂う。彼は紙片をつまんだまま、棘に触れていないか私の手を確かめるように視線を落とした。
「お怪我はありませんか、ローガン嬢」
「は、はい……ありがとうございます」
「紙を追って手を突っ込んだら、棘で指を裂くところでした。帳簿を書く手は大切にしないと」
彼はそう言って、紙片を丁寧に折り、私の手のひらにそっと乗せてくれた。触れた指先の熱が、かすかに残る。
(……困ったわね)
この人、不器用そうに見えて、根が親切すぎるのだ。相性の悪さを演じる相手としては、少々厄介かもしれない。
紙片を手帳に戻しながら、私は先ほどの「菓子には目がない」という言葉を思い返していた。どんなものが好きなのだろう。
……いえ、作戦のために知っておくべきことだ。
「では、サロンへ戻りましょうか」
「ええ。ご婦人方には、少しぎこちない表情を見せておきます」
アルジール様は悪戯っぽく口の端を上げると、私に向けて右手を差し出した。
「協定成立の握手を。……今年の見合いを壊す同盟者として」
「ええ、カリスト様。くれぐれもお忘れなきよう」
差し出された分厚い手を握り返すと、温かな感触が指先を包んだ。
握手は短く済ませた。相性が悪いという報告をするのだから、戻ってからは少し距離を取らなくては。
そう決めたばかりなのに、サロンの戸を開けて私を先に通してくれた彼へ、つい笑いかけてしまった。




