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お見合いを壊す約束でしたよね?  作者: 九葉(くずは)


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第10話

 歴史記録室の閲覧机の上で、厚い布張りの綴り本が、パタンと乾いた音を立てて閉じられた。


 土曜日の午後。天井の高い部屋には紙と防虫香の匂いが微かに立ち込め、先週の古書店街とはまた違う、静謐な空気が流れている。


「……本当にありましたね、あの林檎の記号の港」


 私が小声で囁くと、隣に腰掛けていたアルジール様が、控帳に走らせていたペン先を止めて微笑んだ。


「ええ。『マルムの船着き場』。当時は林檎の積み出し港だったそうです。ただ、六十年ほど前に上流の土砂崩れで浅瀬になり、役目を終えたとありました」


「あの林檎の絵は、港の目印だったのですね。……次は、その港が賑わっていた頃の交易記録も見てみたいですわ」


「いいですね。秋になる前にもう一度、申請を出して閲覧許可をもらっておきましょう」


 彼の控帳には、もう次に調べる本の名前が書かれていた。私も手帳を開いて、同じ名前を写した。



 記録室を出て、石造りの階段を下りると、初夏の明るい日差しが大通りを満たしていた。


「カリスト様、少し日陰に入っていただけますか」


 並木道の菩提樹の下へ誘導し、私は鞄からリボンをかけた小さな紙箱を取り出した。


「これ、先週いただいたサブレのお返しです」


「え……? 気を遣わせてしまいましたか」


「いいえ、私が渡したかったのです。劇場通りにある老舗の果実菓子店で見つけまして」


 彼が包みを開けると、中から現れたのは、深い琥珀色をした平たい干し蜜柑の砂糖漬けだった。皮の苦味と果汁の酸味をそのまま残して乾燥させた、通好みの菓子だ。


「味見にと一つ勧められたのですが……私には酸っぱすぎて、一口で降参しました。でも、カリスト様ならきっとお好きだろうと思いまして」


「……俺のために、わざわざ酸っぱい思いをして選んでくださったのですか」


「はい。奥歯が縮むかと思いました」


 私が真顔で言うと、アルジール様は喉の奥を鳴らして笑い、箱から一切れつまんで口へ運んだ。


 目を細めて噛み締めた彼の顔に、心底満足そうな色が広がる。


「美味い。苦味も効いていて最高です。……これは、全部いただいていいんですね?」


「もちろんです! 私にはもう勧めないでくださいね」


 もう一枚取る彼を見て、私は笑いをこらえた。


 先週のサブレを食べる私も、こんな顔をしていたのかもしれない。


 アルジール様が箱の紐を結び直していた、その時だった。



「――あれ? 兄貴?」


 通りの向こうから、通りの喧騒を突き抜けるような、よく通る若い声が飛んできた。


 振り返ると、騎士学校の制服に革の胴着を着た、体格のいい青年が大股でこちらへ歩いてくるところだった。日に焼けた肌と快活な目元が、アルジール様によく似ている。


 ただ、兄よりも少し表情が柔らかく、人懐っこい。


 アルジール様が目を見張り、菓子箱を慌てて背中に隠しかけた。


「……ルカ。お前、学校の厩舎当番はどうした」


「買い出しだよ、馬具の手入れ油が切れたからさ。……って、兄貴、何隠してんの?」


 次男のルカ様は私の姿を認めると、一瞬だけ驚いたように立ち止まり、それからパッと顔を輝かせて姿勢を正した。


「こんにちは! 弟のルカです。いつも兄がお世話になってます!」


「初めまして、オリーブ・ローガンと申します。ルカ様のことは、お兄様から伺っておりました」


「俺のこと? どうせ小言ばっかりでしょ」


 ルカ様は白い歯を見せて笑い、それからわざとらしく腕を組んで、兄の顔をジロジロと眺め回した。


「へえ……兄貴が休日に、部屋でペン軸削るか洗濯する以外の外出をしてるの、俺、生まれて初めて見たかも。しかも何、そのお洒落な紙箱」


「ルカ、余計な口を利くな。油を買ったらさっさと戻れ」


 アルジール様が低い声で威嚇するが、弟はまったく動じていない。長年、兄の不器用さに付き合ってきた余裕が窺えた。


「少しくらいいいだろ。……ローガンさん、兄貴、融通が利かないでしょう? でも来春には俺も任官して給料が出ますから! こいつの学費が、なんて言い訳はさせませんので!」


「ルカ!」


 アルジール様が本気で焦ったように弟の肩を掴み、進行方向へ力ずくで押し出した。


「早く行け! 点呼に遅れるぞ!」


「痛い痛い、兄貴の手が万力みたいなんだけど! じゃあローガンさん、また!」


 ルカ様は肩を竦めながら、ひらひらと手を振って人波の向こうへ駆けていった。途中で一度だけ振り返り、兄に向かって親指を立てた。



 静けさが戻った並木道で、アルジール様は深くうなだれ、手のひらで顔を覆っていた。


「……申し訳ない。あんな無礼な弟で」


「いいえ。とても気持ちのいい弟様ですね。お兄様のことが大好きなのが、よく伝わってきましたわ」


「からかわれただけです」


「ふふ、でも『部屋でペン軸を削るか洗濯する以外の外出』は、とても的確でしたけれど」


 私が笑いかけると、アルジール様は指の隙間からこちらを見上げ、それから参ったように息を吐き出した。耳の付け根が、うっすらと赤い。


「……反論できないのが情けないところです」


「いいではありませんか。休日にこうして、おかしな海図を調べたり、酸っぱいお菓子を食べたりするのも、悪くないでしょう?」


「ええ。想像していたよりもずっと、楽しいです」


 並んで歩き出すと、日陰の風が初夏の熱をさらっていった。


 大通りの辻広場まで戻り、別れの時間が近づいてくる。


 このまま「ではまた来週」と言って別れることもできた。けれど、私は鞄の持ち手をぎゅっと握り直した。


「カリスト様」


「はい」


「来月になれば……補給部での倉庫の検分日もありますね」


「ええ。七月十二日です。もちろん、公務として立ち会います」


「はい。……今度は、私からお誘いする前に、声をかけていただけませんか」


 自分でも驚くほど、声が素直に出た。


 アルジール様は足を止め、私を見つめた。驚きに目を見張ったあと、その琥珀色の瞳が、これ以上ないほど柔らかく細められる。


「もちろんです。貴女のご迷惑にならないか、そればかり考えていた。……俺からも、誘っていいんですね」


「だから、そうお願いしているのです!」


 言い切った途端に恥ずかしくなり、私は手帳を開いた。顔を見られないまま、七月の頁を差し出す。


「空いている日を、教えてください」


「……はい」


 横から覗き込んだ彼の耳も、まだ赤かった。


 私たちは広場の真ん中で笑い合い、穏やかな初夏の光の中、それぞれの家路へと向かった。


 帰宅してから気づいた。


 次に調べる本の名前を、もう忘れている。手帳を開いて確かめながら、私は別のことを思い出していた。


 菓子箱のリボンを結び直す時の、あの大きな指。


 あんなところまで覚えていて、肝心の書名を忘れるなんて。

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