第11話
八月も下旬に入ると、朝夕の風にほんの少しだけ秋の気配が混ざるようになった。
七月十二日の干し草倉庫の検分では、アルジール様は最後まで仕事の顔をしていた。別れ際に、小声で「次の土曜は空いていますか」と尋ねられるまでは。
それから手紙と休日の散策を重ね、気づけば私の手帳には彼の誘いのメモが何枚も挟まっていた。呼び方も「アルジール様」に落ち着いている。
ふとカリスト様と呼ぶと、彼がこちらを見てから首を傾げるので、もう戻せなくなった。
だが、季節の移り変わりは、私の年中行事の始まりを告げる合図でもあった。
水曜日の朝、実家の領地から、頑丈な木箱に収められた地代と秋の収穫見込みに関する台帳の束が、王都の屋敷へ届いたのだ。
「いよいよ、この季節ね」
母が心配そうに覗き込む前で、私は木箱の蓋を開け、厚い帳簿の背表紙を指先で数えた。父と現地の管理人が大枠をまとめてくれたとはいえ、王都側で確認すべき数字は膨大だ。
今週の土曜日には、アルジール様と歴史記録室で交易記録の続きを調べる約束をしていた。
一瞬、睡眠時間を削って帳簿を終わらせ、約束通り出かけようかという考えが頭をよぎった。以前の私なら、間違いなくそうしていただろう。
人に頼るのが下手で、自分の都合で相手の予定を狂わせるのを極端に恐れていたからだ。
けれど、あの噴水の前で彼と交わした会話を思い出した。
(……階段を踏み外す前に、相談しなくては)
私は手帳を開き、新しい紙の端切れに、樫のペン軸を滑らせた。
『今日届いた領地の台帳を確認せねばならず、土曜日の外出を一週間延期していただけないでしょうか。勝手を申して本当にごめんなさい』
使者に頼んで補給部の窓口へ届けてもらうと、その日の夕方にはもう、彼からの返信が屋敷へ届いた。
届けられたのは、小さな紙包みと、彼らしい角張った文字のメモだった。
『了解しました。台帳の確認、どうか無理のないように。約束はいつでも待てますので、仕事の合間に甘いものでも齧ってください』
包みを開けると、以前劇場通りで一緒に食べた、あのバターを贅沢に使った厚焼きのサブレが四枚、綺麗に並んでいた。包みの端には、指が汚れないようにと清潔な油紙まで添えられている。
申し訳なさで何度も読み返した私の手紙より、返事はずっと短い。
怒っていない。それどころか、あの店へ寄ってくれたのだ。私は油紙を一枚取り、サブレを包んで持ち上げた。
サブレを一口齧ると、豊かな小麦とバターの香りが口いっぱいに広がり、肩の奥のこわばりがふっと解けていく。
(……よし)
私はサブレの包みを机の端に置き、帳簿に向き直った。
一人で抱え込むのはやめよう。小作人の過去三年分の照合など、管理人に手紙で問い合わせれば済む作業は箇条書きにして父への返信にまとめ、自分が王都で精査すべき箇所だけを絞り込んだ。
段取りを組み直すと、金曜日の夕暮れ時に、ほんの三十分ほどの隙間ができることが分かった。
翌木曜日、私は迷わず、彼へもう一度メモを送った。
『明日の夕刻、もしお仕事の帰りに少しだけお時間が許すなら、屋敷のテラスでお茶を一杯いかがですか』
五時半に伺います、という返事が届いたのは、その夜だった。
金曜日の午後五時半。西日が庭の木々の影を長く伸ばす頃、アルジール様が屋敷の門をくぐってきた。
上着を腕にかけ、少し早足で歩いてきたのか、額に汗が光っている。
お茶のつもりで誘ったけれど、暑さがぶり返したので薄荷水にした。テラスの卓に、母が厨房で焼いてきた干し葡萄のスコーンと並べて待つ。
「お忙しいのに、呼び立ててしまってごめんなさい」
「とんでもない。声をかけてもらえて嬉しかったです」
アルジール様はテラスの椅子に腰を下ろすと、差し出した薄荷水を美味しそうに飲み干した。
「……台帳の具合はどうですか」
「順調です。現地の記録が必要なところを管理人に頼んだら、進めやすくなりました。それに」
私は手元に置いてあった手帳を開き、挟んであった樫のペン軸を見せた。
「アルジール様が削ってくださったこのペンのおかげで、中指の痛みがずいぶん楽になりました。以前より手首の疲れも軽くて助かっています」
見せられたペン軸を見つめ、アルジール様は嬉しそうに目元を和らげた。
「ああ、よかった。使っているうちに合わなくならないか、気になっていたんです」
「サブレも、とても美味しかったです。半分は明日の作業用に大切に残してありますわ」
「それならよかった。あの店へ行くと、貴女の顔を思い出すんです。買わずに通り過ぎる方が難しい」
「それでは、毎回買うことになってしまいますわ」
「ええ。困っています」
全然困っていない声だった。私はスコーンを半分に割り、皿の上へ戻した。何でもない顔で食べ続けるのは無理だった。
「……今日は、顔が見たかったんです。三十分だけでも」
彼は手を止め、私を見た。
「俺も。土曜が延びると聞いて、思っていたよりがっかりしていました」
「そう書いてくださればよかったのに」
「書いたら、貴女は無理をするでしょう」
何も言い返せずにいると、彼が笑った。
「だから、今日誘ってもらえて嬉しかった」
王宮の鐘が六時を告げ、アルジール様が名残惜しそうに立ち上がった。
「では、来週の土曜日に。無理だけはしないでくださいね」
「はい。楽しみにしています」
門の向こうへ歩いていく彼の広い背中を、私は門扉に手を添えて、見えなくなるまで見送った。
ふう、と静かに息を吐いて振り返ると、テラスへ続く硝子戸の脇に、母が立っていた。
母はトレイを胸に抱えたまま、驚いたような、それでいてどこか眩しいものを見るような眼差しで、私をじっと見つめていた。
「……母様?」
「オリーブ」
母はゆっくりと歩み寄り、私の顔を覗き込んだ。
「あんなに分厚い台帳が届いて、朝から机にかじりついていたのに……あなた、いま、とても楽しそうに笑っていたのね」
指摘されて、私は自分の頬にそっと触れた。
スコーンを半分残してしまったことを思い出した。あのあと、何を話したのだったか。彼が嬉しかったと言った時の顔だけは、はっきり思い出せる。
「アルジール様といる時のあなた、本当にいいお顔をしているわ」
母の柔らかな声が、夕暮れの庭に静かに染み渡っていった。




