第12話
「さて、オリーブ」
アルジール様の後ろ姿が門の向こうへ消えたあと、母はテラスのテーブルに残された硝子グラスをトレイに乗せながら、穏やかな、けれど逃げ道のない声を出した。
「立ち話も何ですから、中に入りましょうか。さっきはずいぶん楽しそうだったわね。私にも少し聞かせてちょうだい」
詰問、というには母の声は柔らかすぎた。けれど、娘の隠し事を見逃さない母親特有の眼差しに、私は思わず首をすくめた。
薄荷水の水滴をリネンで拭き取り、スコーンの欠片を掃き集めながら、私たちは屋敷の居間へと移動した。
夕暮れの居間には、庭の刈り草の匂いが薄く入り込んでいる。
母はトレイをサイドボードに置くと、私と向かい合うように長椅子へ腰を下ろした。
「六月にエミリアから手紙をもらった時はね、『二人とも慎重に見極めている最中だから、秋までは口を挟まずに見守りなさい』としか書かれていなかったのよ。でも……いまのアルジール様とのやり取りを見ていたら、とても見極めの段階とは思えないわ」
母は楽しそうに目を細めたあと、少し首を傾げた。
「エミリアが何かを隠しているのは分かっていたけれど、あなたたち、本当は最初から何をしていたの?」
観念する時が来たのだと思った。
エミリア叔母様は約束通り、母に余計な詮索をさせないよう防波堤になってくれていた。けれど、当事者である私が実の母親に嘘をつき続けるのは、もう筋が通らない。
「……母様、お怒りにならないとお約束してくださる?」
「内容によるわね。でも、聞き届けるわ」
私は居ずまいを正し、膝の上で指を組んだ。
「最初にお見合いをしたあの中庭で……私とアルジール様は、このお見合いを穏便に壊すための裏協定を結んでおりました」
母が目を丸くした。
「壊す……?」
「はい。好みが合わないからと、二人からお断りするつもりでした。朝食会ではパンの好みで言い合うはずが、あんなにきれいに分けてくださって。劇場へ行く前にも、食堂で作戦を立てたのに……」
一気に白状すると、母はぽかんと口を開けたまま固まった。
そして、数秒の完全な静寂のあと、ぷっと吹き出した。
「まあ……! あなたたち、そんな子供じみたことを真面目にやっていたの?」
「母様、笑い事ではありません。私たちは至極真剣に作戦を練っていたのです」
「笑うわよ、そんなの! 不一致を装うはずがパンの耳を譲り合って失敗しただなんて、聞いたこともないわ。それで、どうして今あんなに楽しそうにお茶を飲んでいるのよ」
「……作戦が、全部失敗したからです」
消え入りそうな声で白状すると、母はとうとう涙が出るほど笑い、ハンカチで目元を拭った。
ひとしきり笑い終えた母の顔からからかいの色が消え、静かな温かさが戻ってきた。
「……母様、ごめんなさい。母様やエミリア叔母様の善意を無下にして、嘘をついて誤魔化そうとしてしまいました」
頭を下げると、母はそっと私の手に自分の手を重ねてくれた。
「いいのよ。あなたを追い詰めてしまった私にも、原因があるわ」
母は重ねた私の指先を見て、少し眉を下げた。
「去年の秋、あなたが熱を出して寝込んだ時のことを覚えているでしょう」
「……ええ」
「帳簿の計算が合わないと言って、夜更けまで冷え切った書斎にこもっていたわね。お父さんも管理人に任せて休みなさいと言ってくれていたのに、あなたが意地を張って抱え込むのを、私は止めきれずに見過ごしてしまった」
「それは、私が意地を張って頼まなかったからです」
「お互い様よ。あなたが『今年はこのお見合いを最後にして、秋の台帳に専念したい』と言い出した時、私は本当は少し胸が痛かったの。家の仕事に責任を感じるあまり、自分の幸せを後回しにしようとしているんじゃないかって。だから、良縁だと思って少し強引に勧めてしまったのよ」
母にとっては、机に向かう私がずっと去年と同じに見えていたのだ。手伝いたくてやっている、と言っただけでは、心配まで消えなかった。
「でもね、オリーブ。いまのあなたを見ていると、去年のように一人で眉をひそめて抱え込んでいるようには見えないわ。……アルジール様のこと、本当はどう思っているの?」
真正面からの問いかけに、私は自分の胸の中を確かめるように、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「会えない日は、がっかりします。手紙が来ると、用件だけでも嬉しいです。あの方も仕事が好きだから、話していて気が楽で……でも、それだけではなくて」
うまく続かず、私は膝の上へ目を落とした。
「今日、もう少しいてほしいと思いました。仕事はまだ残っているのに」
「そう」
「領地の仕事は続けたいです。でも、あの方との時間も欲しいのです。両方欲しいなんて、欲張りでしょうか」
母は静かに耳を傾け、それから満足そうに深く頷いた。
「いいんじゃないかしら。そのために、今回はちゃんと管理人にも頼めたのでしょう?」
母は立ち上がり、居間の窓を開けて夕暮れの風を入れた。
「ねえ、オリーブ。九月の初めに、領地で麦の収穫祭があるでしょう」
「ええ。父様からも手紙が来ていました」
「アルジール様をお招きしてみてはいかが? うちの馬車なら片道二時間半ですもの、日帰りでいらっしゃれるわ。お父様にも、一度ちゃんとお引き合わせしたいですしね」
収穫祭に、彼を。
領地の青い空と、風に揺れる黄金色の麦畑の景色が、一瞬で頭の中に広がった。
「……お父様が、驚かれませんでしょうか」
「頑固な人だけど、娘が自分で選んだ人なら無下にはしないわよ。それに、日帰りで街のお祭りを歩くだけなら、アルジール様も気負わずにいらっしゃるでしょう」
「そうですね」
母が居間を出ていったあと、私は自室の書き物机に向かった。
彼に、丘から見える麦畑を見せたい。広場のパンの屋台にも連れていこう。あの店は、皮をしっかり焼いてくれる。
そこまで考えてから、急に困った。父に引き合わせると、手紙にどう書けばよいのだろう。
手帳から取り出した便箋の横に、樫のペン軸を置く。
深緑のインクで、日取りと祭りへのお誘いを書く。少し迷ってから、最後に書き足した。
『父にも、あなたを紹介したいと思っています』
その一行は、砂を振って乾かしてからも、しばらく折り畳めなかった。




