第13話
九月上旬の風は、王都よりもずっと涼しく、乾いた土と実った麦の匂いを孕んでいた。
母も一緒の馬車の中で、アルジール様は何度も襟を直していた。返事の手紙には、来春までは結婚を急げないけれど私と会い続けたい、そのことを父にも伝えたいとあった。
私も賛成の返事を出していたが、いざ屋敷が近づくと落ち着かない。
街道を揺られること二時間半。麦畑の向こうにローガン領の小さな屋敷が見えた。
玄関先で出迎えてくれたのは、日焼けした顔に作業着の上着を羽織った父――ジョセフ・ローガンだった。私と同じ、少し頑固そうに引き締まった目元をしている。
「よく来てくれたね、カリスト事務官。手狭な田舎屋敷だが、くつろいでほしい」
「お招きいただき、心より感謝申し上げます、ローガン子爵」
居間に通され、父が淹れてくれた香ばしい麦茶を一口飲んだあと、アルジール様は自ら背筋を正した。
「子爵。お祭りの前に、私の口からきちんとお伝えしたいことがございます」
父が湯呑みを置き、静かに彼を見つめる。
「弟の学費を父と分担しており、新しい家庭の支度に取りかかれるのは、弟が任官する来春からと考えています。すぐに婚約のお話を進めることはできませんが、オリーブ嬢とはこれからもお会いしたい。そのことを、私からもお伝えしておきたくて」
膝に置かれた彼の手が固く握られている。いつもの滑らかな仕事の報告とは違い、一言ずつ確かめるような声だった。
父の視線が、私へと向けられる。私は迷うことなく、父の目を真っ直ぐに見返した。
「私も同じ気持ちです、父様。秋の地代や収穫の台帳整理をしっかり務めながら、アルジール様と少しずつ時間を重ねていきたいと思っています」
父はしばらく娘と青年の顔を交互に見つめ、それから短く息を吐いて口元を緩めた。
「まずは二人でよく話しなさい。私にも、そのくらい楽しそうに仕事の相談をしてくれるといいんだが」
「父様!」
「いや、毎度『計算が違います』から始まるからな」
「合っていれば申しません!」
母が笑い、彼の握っていた手もようやく緩んだ。
父は麦茶を飲み、今度は彼に笑いかけた。
「さあ、お堅い話はおしまいだ。広場の祭りはもう始まっている。夕方の馬車が出るまで、村を案内してやっておくれ」
村の中央広場は、収穫を祝う麦わらの人形やリボンで飾り立てられ、村人たちの歓声と笛の音で沸き返っていた。
広場のあちこちから、焼きたての麦粉パンや炙り肉の香ばしい煙が立ち上っている。
「アルジール様、あちらへ行きましょう!」
私は袖を少し引き、広場の中央で踊っている村人たちの輪へ彼を引っ張っていった。
「踊るのですか?」
「ええ! 毎年踊っていましたもの。私に任せてください!」
意気揚々と輪に加わった私だったが、途中から楽師が弾むように拍子を変えた途端、足が止まった。去年までの続きと違う!
太鼓の拍子に合わせて右足を出すべきところで、私の左足が前に出る。慌てて引っ込めようとして、隣でステップを踏んでいたアルジール様の革靴を踏みそうになった。
「おっと」
「ひゃっ……ご、ごめんなさい!」
「オリーブ嬢、拍子より半拍早いです」
「途中から違う曲になったんです! 去年は、こんなに速くなくて……!」
「では俺も、貴女の足を追っていたら駄目ですね」
アルジール様が吹き出し、輪の中で私の手を軽く引き直してくれたが、次の瞬間には私が彼の足首を軽く蹴飛ばしてしまった。
「す、すみません!」
「いえ、靴が頑丈ですから平気です。……一旦、退却しましょうか」
「……異論はありません」
二人してほうほうの体で踊りの輪から転がり出ると、広場の隅の干し草の山に寄りかかって、同時に大笑いした。
「あれだけ堂々と宣言しておいて、あの体たらくとは……穴があったら入りたいですわ」
「でも、貴女があんなに楽しそうに俺を引っ張るから、ついていきたくなったんですよ」
「からかわないでください!」
私は頬の熱を冷ますように、近くの屋台で買ってきた木の実のジュースをあおった。アルジール様は地元特産の、酸味の強い発酵麦酒を美味そうに喉へ流し込んでいる。
麦酒の泡が、彼の上唇に少し残っていた。指摘すると、慌てて拭くのでまた笑ってしまう。
父の前であれほど緊張していた人が、ここで笑っている。それが嬉しかった。
広場をひと通り歩き回り、屋敷の裏手にある小高い丘へ登った頃には、夕日が西の地平線へと沈みかけていた。
眼下には、見渡す限りの麦畑が夕暮れの赤と金に染まり、風が吹くたびにさわさわと優しい音を立てて波打っている。
「いい場所ですね」
アルジール様が、遠くの地平線を見つめながら呟いた。
「俺の生まれ育った領地は山が近いんです。ここは、空が広いですね。……連れてきてくださって、ありがとうございます」
「私の大好きな景色です。アルジール様に見ていただけて、本当によかった」
馬車の支度が整うまで、あと十五分ほど。
私たちは木製のベンチに並んで腰掛けていた。肩と肩の間には、拳ひとつ分の隙間がある。
「オリーブ嬢」
「はい」
「来年の春まで……まだ半年以上あります。その間、俺は王宮の倉庫で泥臭く働き、貴女は机の上で台帳と格闘する日々が続く」
「ええ。お互いに、逃げられない大事な仕事がありますものね」
「でも、会える日を作りましょう。仕事が片づくのを待っていたら、いつまでも終わらない気がしてきた」
アルジール様は視線を前へ向けたまま、ベンチの上に置いていた自分の右手を、ゆっくりと私の左手の上へ重ねた。
驚いて彼を見ると、こちらを見ないまま耳を赤くしている。
分厚く、少しざらついた温かな掌が、私の指先を包み込む。
私は息を呑み、それから自分の意思で、彼の指の隙間にそっと自分の指を滑り込ませた。
ぎゅっと、互いの力を確かめるように握り合う。
「私もです、アルジール様。……早く春になってほしいけれど、この秋も、冬も、あなたと過ごす時間が楽しみでなりません」
彼がようやくこちらを向いた。私は笑おうとして、うまく笑えなかった。こんなに近くで目が合うのは、落ち着かない。
「……手が、冷たかったので」
「はい」
「もう温まっているとは思うんですが」
「はい。……でも、このままで」
彼の親指が、私の手の甲を一度だけそっと撫でた。
「オリーブ、カリスト様! 馬車の準備ができましたよ」
母の呼ぶ声が丘の下から響き、私たちは名残惜しそうに、けれど笑顔で手を解いた。
帰りの馬車では母が向かいにいたので、もう手は繋がなかった。
けれど膝の上の左手は、屋敷に着くまでずっと温かかった。




