第14話
九月中旬の夕暮れは、足早に街を藍色へと染めていく。
王宮補給部の前で合流した私たちは、大通りを外れて、東区の閑静な住宅街へと足を向けた。
収穫祭から帰ったあと、彼から届いた手紙に「もし王都で暮らすなら、どの辺りがお好きですか」とあった。領地へ通いやすい場所、と返したら、今日の散策先が決まった。
何のための下見かは、二人ともまだはっきり口にしていない。
私の手帳には、初夏の頃に取り決めたあのくだらない『不一致リスト』が、今も一番奥のポケットに挟まれたままになっている。二重線だらけのあの紙片を捨てる気には、どうしてもなれなかった。
代わりに、いま頻繁に開かれているのは手帳の手前に挟んだ新しい紙だ。そこにはお互いの当番日や帳簿の締め切り、そして「木曜十七時・散策」という短い予定が几帳面に書き留められていた。
「オリーブ嬢、地図を」
「はい、広げますね」
立ち止まった街角で開いたのは、古書店街で買ったような大層な骨董品ではなく、市役所の窓口で配られているごく普通の紙の街区図だった。折り目のついた新しい地図を、二人で端をつまんで覗き込む。
「この辺りなら、街道へ出る乗り合い馬車の発着所まで歩いて十分ほどです。秋に領地へ通う時も、朝早くに出やすい」
「俺の足なら、王宮の東門まで歩いて十五分といったところだな。宿舎を出ても通勤に支障はない」
便利さの点検から入るあたりが、いかにも事務官と台帳係の散策だった。けれど、石畳の坂道をゆっくり歩き始めると、視線は自然と暮らしの細部へ向かっていく。
「あのお宅、二階の窓に鉄細工の手すりがついていて可愛いですね。植木鉢が置けそう」
「日当たりは良さそうだが、あの角のパン屋の煙突が近すぎる。朝早くから薪の煙が流れてこないか?」
「まあ、焼きたてのパンの匂いで目が覚めるなら、歓迎すべきことではありませんこと?」
「毎日あの匂いを嗅がされたら、朝飯を食べる前に腹が鳴って仕事にならない」
アルジール様が眉を寄せて言うので、私は思わず吹き出してしまった。
「それに、あの店先を見てください。石畳の段差が妙に高くて、雨が降ったら滑りやすそうだ」
「アルジール様は、本当に足元の危険ばかり見つけますね」
「荷車を引く兵士が躓かないか、いつも見張っている職業病です」
そんな調子で歩いているうちに、それぞれ部屋に欲しいものの話になった。
私は朝の光で書類を読める部屋がいい。彼は、仕事から帰ったあとに風を通せる部屋がいいと言う。窓が一つだけの小さな部屋は、夏になると暑さが抜けないそうだ。
「では、東に窓があって、反対側にも窓のある部屋ですね」
「そうですね。窓を二つ開けられれば、風が通る」
実際に部屋を借りる契約をするわけでもないのに、「もしも」の暮らしを言葉にするだけで、冷え始めた夕風の中でも指先が少しも寒くなかった。
運河にかかる小さな石橋の真ん中で、私たちは立ち止まった。
欄干の下を流れる黒い水面に、街灯の橙色の光が揺れている。
アルジール様が欄干に両手を置き、流れる水をしばらく見つめていた。横顔に落ちる街灯の影が、彼の高い鼻筋を際立たせている。
「……先週末、実家の父へ手紙を送ったんです」
不意の言葉に、私は顔を上げた。
「お父様に?」
「ええ。会い続けていることは六月に伝えていましたが、今度はもう少し詳しく。貴女のご実家へ伺ったことも」
「お父様は、何と仰いましたか」
「『今度はうちへもお連れしなさい』と。ルカにも別に話したら、『だから最近、小言が減ってたのか』と言われました」
彼の家にも招かれるのだ。あれだけ兄をからかったルカ様だけでなく、まだ会ったことのないお父様やニコ様にも。
何を着ていこう、と考えかけて、今日の彼の話が終わっていないことに気づいた。
アルジール様がこちらへ向き直った。
欄干から離した手を上着のポケットに入れ、また出す。言いかけて口をつぐむ彼を、私は黙って待った。
「オリーブ嬢」
「はい」
「来年の春、ルカが任官して、二人で暮らす支度の目処が立ったら……その時は、俺から貴女へ、正式に求婚させてほしいと思っています」
秋風が、橋の上をさっと吹き抜けた。
彼の言葉が途切れた。私は頷こうとして、頷くだけでは足りないと思い直した。
胸が大きく跳ねて、言葉が一瞬だけ喉につかえた。
半年先の約束なら、なおさら。私も同じ気持ちだと、いま伝えておきたい。
私は一歩、彼の方へ歩み寄った。
「アルジール様」
「はい」
「嬉しいです。……でも、支度を全部お一人でなさらないでくださいね。私も一緒に考えたいです。今日みたいに」
顔を見上げると、彼の唇が小さく開き、それから堪えきれないように息が漏れた。
嬉しそうに歪んだ口元を、彼は片手でそっと覆い隠した。普段の冷静な事務官の顔はどこにもなく、耳まで赤くなった一人の青年がそこに立っていた。
「……参ったな。貴女には、いつも一本取られる」
「一人で抱え込むのはやめる約束でしょう?」
私もまた、顔に集まる熱を隠すために、手帳を胸元に抱え込んだ。
新しい紙のメモを取り出し、鉛筆を走らせる。
「ほら、予定表の余白がまだこんなに空いています。来週は、東側と反対側に窓のある家を、もう少し探してみましょう」
書き込んだ文字を見せると、アルジール様は手をおろし、深く頷いた。
「ええ。次は家賃も調べておきます」
「そこは大事ですわね」
あまりにいつもの調子で答えたので、二人とも笑ってしまった。彼の指が私の手に触れ、今度は迷わず握られた。
石橋を渡り終えた私たちの歩幅は、初夏の中庭で歩いていた時よりも、ずっと自然に揃っていた。




