第15話
九月中旬の王都は、抜けるような秋晴れに恵まれていた。
東区の高台へ続く並木道は、銀杏の葉が縁から黄色く色づき始め、吹き抜ける風が乾いた葉擦れの音を立てている。
先週話していた、東側と反対側に窓のある家を探して小一時間ほど歩いたあと、私たちは見晴らしのいい石段の上のベンチに腰を下ろしていた。
眼下には王都の赤い屋根瓦の海が広がり、遠く王宮の尖塔が秋の光を浴びて白く輝いている。
「少し、歩きすぎましたね」
「いい運動でしたよ。窓の位置がよさそうな家も、二軒見つかりましたし。空きが出るか、家賃はどのくらいか、また聞いてみましょう」
アルジール様が水筒の蓋をコップ代わりにして、冷たい水を差し出してくれた。
喉を潤しながら、私は膝の上で手帳を開いた。
新しい予定表には、来週の実家の収穫台帳の清算日や、彼の補給部の点呼日が几帳面に書き込まれている。そのページをめくり、手帳の革表紙の奥のポケットを指先で探った。
指に触れたのは、四つ折りにされた、小さな紙の端切れだった。
引き抜いて広げようとした瞬間、石段の吹きだまりから強い秋風が吹き上がった。
「あ」
パタパタと紙の端が激しくはためく。
だが、初夏の中庭の時のように紙が宙を舞うことはなかった。
私が左手で紙の端を押さえると同時に、隣から伸びてきたアルジール様の大きな右手が、迷いなく紙のもう一方の端を上からそっと包み込んだからだ。
二人の指先が触れ合い、紙片はベンチの上で静かに落ち着いた。
顔を見合わせ、同時に笑った。あの日も、風が強かった。
「……懐かしいですね」
アルジール様が指を添えたまま、紙片に並ぶ文字に目を落とした。
二重線だらけの、あのくだらない作戦の跡。
「朝食のパンの耳、でしたっけ」
「ええ。あなたが鮮やかに切り分けて自分の皿へ中身を奪っていった日のことは、一生忘れませんわ」
「奪ったわけじゃない、好物を譲り合っただけです。……それから、これ」
彼が指さしたのは、観劇の二日前に書き足した『味覚の断絶』の行だった。
「結局、あの酸っぱい柑橘の菓子は、今でも俺しか食べられないままだな」
「当たり前です。あんな奥歯の浮くようなもの、私は一口だって食べたくありません。……あなただって、私の好きなバターの厚焼きサブレを二枚も食べたら、胸焼けしそうな顔をなさるくせに」
「あれは確かに、紅茶が三杯欲しくなる」
アルジール様が口元を緩め、私も声を立てて笑った。
相性の不一致を演じるために探したはずの好みの違いは、何一つ消えていなかった。私は相変わらず硬いパンの耳と甘い焼き菓子を愛し、彼は酸っぱい果実と手早く腹にたまる食事を好んでいる。
なのに、菓子屋の前を通ると彼の好きなものを探してしまう。この春には、あの酸っぱいゼリーの名前さえ知らなかったのに。
紙の端で、私の鉛筆の字と彼の角張った字が並んでいた。
風が凪ぎ、紙を押さえていたアルジール様の指先の温もりが、私の人差し指の側面に伝わってくる。
私はそっと手帳を見つめ、それから息を吸い込んだ。
父への挨拶も、来春の約束も、先に済ませてしまった。
肝心の言葉だけ、私はまだ彼に伝えていない。伝わっているだろう、で済ませたくはなかった。
「……アルジールさん」
掠れたような小さな呼びかけに、彼の指がぴくりと震えた。
いつも「様」をつけて呼んでいた唇からこぼれた親しげな名前に、彼が驚いたように視線を上げて私を見る。
私は右手で手帳を紙の上に重ねた。それから左手を裏返し、彼の掌にそっと重ねる。
目が合うと、せっかく決めた言葉を忘れそうになった。だから、急いで言った。
「私、あなたのことが好きです」
秋の高い青空の下で、自分の声が驚くほどはっきりと響いた。
「お仕事をしている姿を見るのも好きです。でも、私を見つけて笑ってくださる時は、もっと。……会う約束があるだけで、一週間、何度も手帳を見てしまうんです」
アルジール様が、大きく息を呑んだ。
その顔が、見る見るうちに耳の付け根まで真っ赤に染まっていく。彼の手が小さく震え、それから、私の指を確かめるようにしっかりと包み込んだ。
「オリーブ……」
彼が私の名を呼んだ。事務官の低い声が、わずかに上擦っている。
彼は視線を泳がせ、それから意を決したように眉を寄せ、私を真正面から見つめ返してきた。
「俺も、あなたが好きです。……顔を見たくて、用もないのに十番窓口を気にしていたことがあります」
「お仕事中に?」
「それは、反省しています」
笑ったら、目の端に涙が浮いた。彼が急に心配そうな顔をするから、繋いだ手を強く握り返した。
「嬉しいんです。そんな顔をしないで」
「……はい」
彼は私の目元を指でそっと拭い、そのまま少しためらった。
「口づけても?」
返事をしようとして声が出ず、私は頷いた。
近づく顔をまともに見ていられなくて、目を閉じる。唇に触れた温かさは、すぐに離れていった。
目を開けると、彼も真っ赤だった。
何か言わなくては。
そう思うのに、さっきまで使えていた言葉がひとつも出てこなかった。
あまりの恥ずかしさに、二人して視線を逸らし、しばらくの間、眼下の赤い屋根を見つめて沈黙した。
けれど、繋いだ手の力だけは、どちらからも決して緩まなかった。
ふっと込み上げてきたおかしさに、私は吹き出しそうになるのをハンカチで押さえた。
「……そういえば」
「何ですか」
「最初、お見合いを壊す約束でしたよね?」
私の悪戯っぽい問いかけに、アルジール様は呆れたように肩を揺らし、それから心底嬉しそうに口元を崩した。
「……申し訳ない。その約束だけは、守れそうにありません」
大真面目に謝るので、とうとう声を上げて笑ってしまった。
「本当に、困った同盟者様ですこと」
「代わりに、春の約束は守ります」
「ええ。そちらは必ず」
彼の肩に、少しだけ自分の肩を寄せた。今度は離れず、そのままでいた。
名残惜しいけれど一度手を離してもらい、手帳の下から紙片を抜き取った。元の折り目に沿って畳み、奥のポケットへしまうと、また手が差し出された。
捨てるつもりだったのに、ずいぶん長く持ち歩くことになりそうだ。
「さあ、帰りましょうか。オリーブ」
「はい、アルジールさん」
立ち上がり、石段を一段ずつ下りていく。
「帰りに、あの角のパン屋へ寄りませんか。中の柔らかいところ、全部あなたに差し上げますから」
「皮は全部持っていく気ですね。……ちょうどいい、買いに行きましょう」
坂の途中から、焼けたパンの匂いがした。
「ひとつで足りるでしょうか」
「二つ買いましょう。明日の朝の分も」
私が答えると、彼がこちらを見た。つい、もう一緒に食べるつもりでいたことに気づく。
「……明日の朝も、お会いしていいですか」
「もちろん。今度は、誰にも頼まれずに」
私は頷き、繋いだ手を小さく揺らした。
「では、パンを分ける約束だけは、忘れないでくださいね」
「忘れません。皮は全部、あなたに」
今度の約束は、最初から守るつもりで交わした。




