第5話:デビューの熱量
公式戦の朝。アイントラハト・フランクシュタット U-19の遠征バスの窓から、榊 迅は流れるドイツの街並みを眺めていた。
手元にあるのは、プロ仕様と同じデザインの青いアウェイユニフォーム。背番号は『19』。練習生である迅に与えられた臨時の数字だった。
対戦相手は、育成の名門として知られるシュトゥットガルトのU-19。スタジアムには小規模ながらも熱狂的なサポーターが集まり、太鼓の音と発煙筒の匂いがピッチ全体を包み込んでいる。日本の部活動や中学のクラブチームとは全く違う、これがヨーロッパの「フットボールの日常」だった。
「ビビるなよ、ジン」
隣に座るクリスが、ガチガチに緊張した顔で言った。どう見ても緊張しているのはクリスの方だったが、迅は「大丈夫」とだけ言って小さく笑った。
試合は予想以上の激戦となった。
前半からシュトゥットガルトの激しい縦への推進力に押され、フランクシュタットは防戦一方。トップチームから調整で降りてきているFWルーカスも、執拗なマークに遭って前線で孤立していた。
前半を0-1の劣勢で折り返し、後半に入っても流れは変わらない。後半20分、中盤の競り合いから失点を喫し、点差は0-2に広がった。
「ジン、ウォーミングアップの強度を上げろ!」
ヘスラー監督の声が、張り詰めた空気を切り裂く。
迅はすぐにビブスを脱ぎ捨て、タッチライン際で何度も鋭いダッシュを繰り返した。冷たい秋の空気が肺を満たすたび、頭が冴え渡っていく。
後半30分。ついにその時が来た。
「交代だ。ルーカスに代わって、ジン」
ボードに『19』の数字が灯る。ピッチから退くルーカスは、疲れ切った表情で迅の肩を強く叩いた。
「……走れ、ガキ。裏が空いてるぞ」
「わかってる」
短く言葉を交わし、16歳の榊 迅が初めて公式戦のピッチに足を踏み入れた。
スタジアムのサポーターからは「誰だあのアジア人は?」という不審げな視線が注がれる。だが、迅にとって周囲の雑音はどうでもよかった。ただ、目の前のディフェンダーをどう剥ぎ取り、ゴールを奪うか。脳の演算が始まる。
(ルーカスが削ってくれたおかげで、相手のセンターバックは足が止まりかけている。ポゼッションで繋ぐフリをして、一気に食いつかせる)
迅はまず、あえて中盤のクリスと同じ高さまでポジションを下げた。
「おい、あいつCFだろ? なんであんな後ろにいるんだ」
シュトゥットガルトのDF陣に油断が生じる。迅が下がったことで、彼らのディフェンスラインが数メートル押し上がった。
(今だ)
クリスが前を向いた瞬間、迅は急制動をかけ、真後ろのスペースへ向かって爆発的な反転スプリントを仕掛けた。
「しまっ――!」
DFが気づいた時には、迅の176センチの身体はトップギアに入っていた。マークを引き千切り、広大なスペースへと抜け出す。
「ジンーー!」
クリスから、滞空時間の長い正確なロングパスが供給される。
落下点に入った迅は、迫り来るゴールキーパーの動きを完全に視野に収めていた。ここでトラップすれば、DFに追いつかれる。
(ワンタッチで仕留める)
迅は走る速度を緩めず、落下してくるボールに対して右足を鋭く振り抜いた。ダイレクトボレー。
強烈なインパクトの音がスタジアムに響き渡る。ボールはキーパーの指先を弾き、ゴール左上の天井ネットに突き刺さった。
「ゴーーーール!!」
スタジアムが一瞬の静寂の後、どよめきに変わる。フランクシュタットのベンチが総立ちになり、クリスが狂ったように迅に飛びついてきた。
1-2。まだ負けている。明確なゴールなんて相変わらず持ち合わせていない。
けれど、この圧倒的な熱量、思考が肉体を凌駕してネットを揺らす快感――それがある限り、自分はどこまででも走れる。
迅はクリスの手を引き剥がし、ボールを拾い上げてセンターサークルへと走った。その鋭い眼光は、すでに同点、そして逆転のシナリオを描き始めていた。
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