第17話:ロッカールームの空気と、背番号『39』
頑張った 今日5話目
遠征当日の朝。アイントラハト・フランクシュタットのトップチーム専用バスの前に、榊 迅は立っていた。
いつも乗っているユースチームのバスとは、まるで違う雰囲気が漂っている。黒塗りの大型バスの周りには、数人の熱狂的なサポーターやカメラを構えた現地メディアが集まり、選手たちの姿を追っていた。
「おい、ジン。荷物は自分でバスの奥に積めよ」
声をかけてきたのは、副主将を務めるベテランゴールキーパーのバウアーだった。34歳のベテランは、迅の緊張をほぐすように柔らかく微笑み、自分の隣のシートをポンポンと叩いた。
「プロの遠征は初めてだろ? 移動も仕事のうちだ。しっかり身体を休めろ」
「はい。ありがとうございます」
迅は支給されたスーツの襟元を少し緩め、指定された座席に深く腰掛けた。バスがゆっくりと動き出し、フランクシュタットの街並みが車窓の向こうへ流れていく。
バスの中は静かだった。音楽を聴く者、目をつむって集中を高める者、戦術データをタブレットで確認する者。ユースの時のように、大声で雑談を交わす選手は誰もいない。全員が、数時間後に迫ったブンデスリーガの「本番」に向けて、静かにエネルギーを充填していた。
(これが、プロの領域……)
迅はポケットからスマホを取り出し、自身の背番号が記されたメンバー表の写真をじっと見つめた。
『FW 39 JIN SAKAKI』
17歳でのベンチ入り。日本の同年代が高校の部活動やテスト勉強に追われている中、自分は今、ヨーロッパ最高峰の舞台へと向かっている。
目的地のスタジアムに到着すると、地鳴りのような歓声とスタジアムアナウンスの重低音が、バスの壁を透過して迅の肌を震わせた。収容人数5万人を超えるマンハイムのホームスタジアムだ。
アウェイ側のロッカールームに入ると、すでにそれぞれのロッカーにユニフォームが吊るされていた。
赤と黒の伝統的なクラブカラー。その一番端、39番のユニフォームの前に立ち、迅はそっとその生地に触れた。胸に縫い付けられたクラブエンブレムが、手触りとして確かに伝わってくる。
「おい、固くなってるぞガキ」
背後から声をかけてきたのは、主将のシュミットだった。一週間の練習で何度も激しくやり合った元ドイツ代表CBは、鋭い眼光のまま迅の肩に大きな手を置いた。
「ベンチに座るだけだとしても、ピッチの熱に呑まれるな。監督がお前を呼んだのは、客寄せパンダにするためじゃない。勝つための『札』としてここに置いたんだ」
「……分かっています」
迅は短く答え、シュミットの目を真っ直ぐに見返した。
ビビってはいない。むしろ、この重圧と熱気が肌を刺すたび、脳の奥底がじりじりと冴え渡っていくのを感じていた。
ユニフォームに着替え、スパイクの紐を一本ずつ慎重にしめ上げていく。足首を固定し、ポイントが芝を捉える感触を確かめる。
試合開始まで、あと1時間。
17歳のストライカーは、ベンチという特等席から、プロの本当の「狂気」を目撃しようとしていた。
これで今日の分は終わりです
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