第1章 第後話 前編 悔恨の鬼 ⑩
「さあ潮離。帰宅時間がすっかり遅くなっちゃったけど夕飯の支度するよ!」
「えー。今日くらいやらなくていいだろ。一日くらい煙が上がってなくても誰も怪しまないぞ」
夜の7時半を少し過ぎた頃、背中の籠と収穫した山菜と共に、あたし達は無事帰宅したわけなのだが、この状況においても潮音は日課を果たそうとする。
そんな潮音に不平を漏らすあたしだが、そんなもの気にも留めずに潮音は家に上がって台所へ直行する。
「はぁ。全く面倒臭い…」
潮音が料理をするということは必然的にあたしがそれを手伝わなければならないということになる。
仕方なくあたしは玄関に置かれた潮音の籠の隣に自分の籠を並べて置き、履物を脱いで家に上がる。潮音は急いでいたためか履物が揃えていなかったので揃えてから自分の履物を脱いだ。
「あ、潮離。ごめん、さっき履物揃えるの忘れてた。悪いけど揃えてきてくれない?火使ってるから手が離せなくて」
そう言った潮音の前には水の張られた鍋とその中に浮かぶ食材。朝に切った葱も浮いてる。そしてそれを下から撫でる炎。
あたしが家に上がるまでの短時間で火はすっかり点いてしまっていたようだ。
「安心しろ。それならもう揃えてある」
「ほんと?ありがとう。ありがとうついでにもう一つお願いしてもいい?」
「何だ?」
「さっき取ってきた山菜持ってきてくれない?一つの籠にまとめてくれると助かる」
「分かった」
あたしは玄関まで戻り、潮音の籠の方にあたしの籠の山菜を放り込んで、重くなった籠を両手で抱えて台所に向かう。
「あ、ありがとう。その辺に適当に置いておいて」
あたしは自分の足元に籠を下ろす。
「なあ潮音。これ、取った山菜が全部ごちゃまぜに入ってるけど、いいのか?」
籠の中身を見下ろして、ふと浮上した疑問をあたしは口にする。
さすがに調味料とかではないので味が混ざったり匂いが移ったりはしないだろうけど、潮音が家に置いてある野菜を全部種類ごとに分けていたことを思い出して気になってしまった。
「あ、そうだね。種類ごとに分けてくれると助かる」
「…俺が、やるのか?」
どうやらやぶへびだったようだ。聞かなければよかった。
しかし頼まれた以上やるしかないのであたしはのそりと体をかがめ、再び籠を持ち上げる。
「分けた山菜はどこにしまえばいいんだ?」
「そこに茣蓙があるでしょ?その上に広げておいて」
「分かった…ござっていうのはこれのことでいいんだな?」
言ってあたしは部屋の隅に巻いて置かれていた茣蓙を手に取る。茣蓙という物を知らなかったあたしだが、潮音の視線から何となく察しがついた。
あたしの推理を裏付けるように「そうだよ」と潮音が答える。
あたしは茣蓙を潮音の後ろ辺りに広げ、その横に山菜の入った籠を抱えて行き、潮音と背中を向け合う体勢で座る。座り方はもちろん、潮音に教えられた通りの正座だ。
正座のお蔭で座高が少し高くなり、籠に手を突っ込んで山菜を取りやすくなった。
まず片手にいっぱい、山菜を鷲掴みにして茣蓙の上に広げ、そこから種類ごとに選別するという方法をあたしは選んだ。
山で潮音に判別が難しいと言われたコゴミとワラビは、落ち着いてよく見てみると違いが分かったので、きちんと分けておくことにした。
「じゃあ潮離、今日は味付けについて教えるよ」
「え?…やるのか?」
今晩はあたしが山菜を分けているのでてっきり料理の指導は無いものと思ってたけど、当てが外れた。
「いや、でも俺は今山菜分けをしてるんだ。そっちを向くことさえ難しいぞ」
「大丈夫、分かってるよ。今日教えるのは技術的なあれじゃなくて心構え的なあれだから」
「心構え的な…『あれ』?」
一体どれのことを言ってるのかよく分からなかったが、とにかく潮音は今のあたしの仕事に配慮した指導をしてくれるみたいだ。
「料理の味付けはね、『さしすせそ』なんだよ」
「さしすせそ?」
「そう。あ、これは別に駄洒落とかじゃないからね」
この時あたしは、また潮音があたしをからかってると思ったのだが、しかしそれを潮音本人の口で否定されてしまっては仕方ない。
あたしは、まじめに聞くことにした。
「その『さしすせそ』って言うのは、何かの暗号か?まさかそんな名前の調味料じゃないよな?」
「うん。ご明察。調味料の名前じゃなくて頭文字だよ」
「頭文字…味付けの要点のか?」
「そうそう味付けの要点」
今のあたしは知っている。その「さしすせそ」が「砂糖」「塩」「酢」「醤油」「味噌」だということを。
しかしこの時のあたしは当然、「さしすせそ」が何を意味するかどころか「さしすせそ」という、料理における常識の存在さえ知らなかった。だから潮音の説明を素直に聞くこととなるのだけど、しばし茶番にお付き合い願いたい。
「まずは『さ』からいくよ。あたしに続いて復唱して」
「俺も言うのか?」
「そりゃそうだよ。聞いただけで覚えられる人なんて中々いない。声に出した方が覚えやすいんだよ」
この話は事実だ。先生に確認したので確かだ。
「じゃあいくよ。まずは『さ』。砂糖」
「…砂糖」
「次『し』。潮離」
「しお、いやちょっと待て。早速嘘だろ。俺でおいしい出汁を取ろうとするな」
「ごめんごめん。『し』は塩だよ」
「そうか。塩」
突然のボケにも臆することなく的確なツッコミを入れるあたし。成長のスピードたるやなかなかのものだ。
「じゃあ次は『す』。これはそのまんまだけど酢。お酢のことだよ」
「『す』はそのまま酢。分かった」
「『せ』。醤油」
「しょう、いや待て。それは『し』だろ」
「あ、またあたしが冗談言ったと思ってるんでしょ」
当然だ。ほんの数秒前に犯した前科のことを忘れるわけがない。
「これはね、昔は醤油のことを『せうゆ』って書いてたからなの。だからぎりぎり『せ』で合ってるよ」
「本当にぎりぎりだな。じゃあ『せ』は醤油で覚えるぞ」
若干訝しみながらもちゃんと調味料の名前ではあったのであたしは「醤油」を受け入れた。
「さて、次はお待ちかね。『そ』だよ」
「別に誰も楽しみになんてしてない。いや、この話が終わるという意味では待ち遠しくはあったかもしれないが」
あたしの言葉に、ひどいなあと漏らしながらも気を取り直して潮音は最後の調味料を発表する。
「最後の一文字『そ』はねえ…」
一度言葉を切る。何をもったいぶっているのだか。「し」でボケられて、「せ」で無駄にツッコんで、この時既にあたしはもうお腹いっぱいだったので若干じれったく感じる。
「それはお前だ!」
ようやく言ったかと思えば、意味が分からない上に背中が重い。後ろから潮音が覆いかぶさってきたせいだ。
「ぐっ…やめろ。重い!」
あたしは懸命に潮音を押し返そうとするが、潮音は予想以上の力であたしにしがみついてなかなか離れない。
「駄目だよ潮離。女の子に『重い』何て言っちゃ。袋叩きにされるよ」
「言っただけで何でそんな仕打ちをされないといけないんだ。とにかくどけ。折角採ってきた山菜が潰れてもいいのか」
「それはいけない」
急に体重が消えたと思ったら潮音は背中から脚を出し、それらであたしを囲むように床について空中で姿勢を維持していた。
あたしと潮音の位置関係は保たれたままだ。
しかし何とも脚の使い方が板についてる。この時のあたしには思いつきさえしないような使い方だ。
「火を使ってるから手が離せないんじゃなかったのか?」
「今は弱火で煮込んでるところだから大丈夫。しばらく放置」
上にいる潮音を見上げて指摘したあたしだったがさらりと流される。
「お、うまくできてるね」
そして潮音は頭上からあたしの仕事に評価を下す。どうやら高評価のようだ。
「コゴミとワラビもちゃんと分けられてる。違いが分かったの?」
「まあな。落ち着いてよく見たら分かった」
「そっかー。でかした。偉いぞ」
潮音はあたしの頭上から手を伸ばしてあたしの頭を撫でる。さっき覆いかぶさってきたときの鬱陶しさと比べてしまったしまったためか、自分でも不思議なくらい嫌悪感は無い。
しかし代わりに、「これ以上好きにさせておくとまた調子に乗る」という危機感があたしの中でむくむくと鎌首をもたげる。
「潮音。いい加減下りてこないのか?」
「うん。それもそうだね」
あっさりと潮音は足をしまい、あたしと山菜の乗った茣蓙を挟んで向かい合う。
あたしが山になるように積み上げていた山菜を、手で平らにならしていく。問題があったのかと聞いてみると
「ううん。問題ってほどのことじゃないんだけど、山菜って植物で、根っこと切り離されてるでしょ。だからあんまり長持ちしなくて、なるべく風通しよくしておいた方がいいんだよ」
「そうか。分かった。気を付けるようにする」
「うん。大事なのは根っこだからね。植物はもちろんのこと、あたし達、物の怪にとっても」
そう言っていつもと同じように笑う潮音だが、しかしあたしの目にはいつもと違う潮音のように映った。
何が潮音をそんな風に見せているのか、答えは明白だった。笑い方だ。
いつもと違う笑い方。こんなに悲し気な笑い方をする潮音に、あたしは違和感を感じたのだ。
その物言わぬ表情は、しかし雄弁にあたしに語り掛けてくる。「これ以上聞かないでくれ」と。全く勝手な話だ。話してるのは自分なのに、聞かないでくれだなんて。
まあ、現実的な話をすれば、会話に於いて、自分の話したいことを話せるということは滅多にない。相手がいるから、自分の話したいことだけを話してはいられないし、聞きたいことだけを聞かせてもくれない。
もっともこの時のあたしにそんな思慮深さなんてあるはずもなく、ただ単にその場の空気を読んで、話題を変える。
「そういえばさっきの『さしすせそ』の件、『そ』の正しい意味をまだ教えてもらってなかったぞ」
「ほんとだ。忘れてた。駄目だねえあたしも年だわ」
潮音の実年齢を考えると年であることには間違いないんだろうけど、しかしここは、「違うだろ」とツッコむのが正解な気がする。
「まあ冗談はここまで、『さしすせそ』最後の一文字『そ』それが表す調味料はずばり」
一呼吸おいてもったいづける潮音。放置してある鍋はそろそろ見なくていいのかという余計な心配をしてしまいそうなほどに間を置く。
「味噌です!」
長い間を置いて発表された言葉に、あたしは先ほど芽生えた心配を一瞬で吹き飛ばすほどの勢いで
「それは絶対違うだろ!」
と叫んでいた。
あたしが味噌を「さしすせそ」の「そ」として認めるのに、さらに暫く不毛な説得が続いたけど、本当に不毛なので省略することとする。




