第1話 第後話 前編 悔恨の鬼 ⑨
「はぁ…はあ…そろそろ帰ろうか」
「ぜぃ…げほっ…そうだな」
じゃれ合いは思いのほか白熱し、気が付けば日が暮れ始めてた。
じゃれ合いと言っても、実際の所はあたしが一方的に虐められてた感じだったけど。
「つい盛り上がっちゃたね。日が落ちる前に帰ろう」
「そうだな」
じゃれ合いの際、邪魔だったので脇に置いた籠を背負い直して、あたし達は下山を始める。
山を下りる時はさすがに危ないとのことで来る時に通ったのとは違う、ちゃんとした道を通って行った。
「行きとは比べ物にならないくらい楽だな。帰りは」
「いやいや。下山する時の方が足にかかる負担は大きいんだよ実は」
「そうなのか?」
にわかには信じがたい話だった。実は今でも本当かどうか疑わしく思ってる。
まあ負担が大きいとは言ってもあたし達は牛鬼。人から大きく外れた者だ。特に問題は無い。
山を下りていると、時折変なものが見えたり聞こえたりする。足元にまとわりつくように渦巻く影だったり、風もないのに木が揺すられる音だったり。
「こいつらも俺達と同じ物の怪か?」
「うん。そうだよ」
潮音は首を縦に振る。
口調はいつもと変わらないのに、斜陽を受けた彼女の横顔はどこか威圧的というか、いつも以上に威厳のようなものを感じる。
昨日、これくらいの時間にあたしの気分が変になったことを思い出す。
その時潮音があたしを正気に戻した時に感じたのと同じ印象を感じる。
「今はねえ、逢魔時っていう物の怪の力が一日のうちで一番強くなる時間帯なんだよ」
「昨日俺が変な気分になったのも」
「うん。牛鬼としての本能が全部表に出ちゃたんだろうね。でもあの時は元に戻れたみたいでよかったよ」
潮音は「元に」という言葉を何の気なしに使って、この時のあたしもその言葉を何の気なしに聞き流したけど、実際は牛鬼の本能が出ているあの状態こそが「元に」戻ってると言える。
「お前は何ともないのか?今はまだしも、あの時は周りに人間がいたのに」
「うん。人を殺したくなるのはあくまで本能だから、抑えようとすれば抑えられるよ」
「抑える?」
もちろん本能についてそこまで深い見識があるわけではない。しかしあたしは昨日、本能に精神を乗っ取られそうになった。
その経験を基に言わせてもらうと、あんなものは気合とかやる気とかで抑え込めるようなもじゃない。
「そんなことができるなら俺だってそうしてた」
あたしは思ったことを素直に口に出す。
「それは、昨日の時点で本能のことを知らなかったからじゃない?変な気分だけどどうしていいか分からなくて、とりあえず身を任せてみたってところかな?」
「…どうだろうな。不思議には思ったが、どうしていいかなんて思うまでもなく、どうにかする必要はないと勝手に決めつけてた」
「ああ、なるほど…」
あたしの返答が意外だったのか、潮音はしばらく口をつぐむ。
「え、と。あー…駄目だよ。潮離」
潮音は本日何度目かになる「駄目だよ」を繰り出す。
「決めつけるということは悲しいことだよ。決めつけちゃうと色んな可能性が失われるんだよ」
「可能性?」
ちょっとした小言を食らう程度だと思っていた、いや、思っていたじゃなくて決めつけていたと言うべきかもしれないが、そう思っていたにも関わらず予想よりも壮大な話題に飛びそうだったためにあたしは思わず聞き返してしまう。
「そう。例えば…聞こえる?この音」
潮音は唐突に、下山の足を止めてお椀の形にした両手をそれぞれ耳の後ろに添えて、耳を澄ますような仕草をする。
あたしも立ち止まって、耳から入る音に意識を集中させる。
まず初めに耳に入るのは虫の声。さほど大きな音ではないが四方八方を囲むように聞こえてくる。夏を前にして虫達が活動を始めたのだろう。
次に入ってくるのは時折吹く風に木の枝が揺れ、木の葉同士がこすれる音。
あたしの周りの音は主にそれだけ。それに加えて僅かに水が流れるような音もするが、それのことを言ってるのだろうか。
「水、川か?これのことを言ってるのか?」
「いや、それじゃないけど惜しい。川の音に注意しつつ他の音、人間の声みたいなのにも注意してごらん」
「人間の声なんてそんなもの…」
あたしの耳には入っきてなかった。しかし決めつけはよくないという話を聞いた手前、それで諦めるわけにもいかない。あたしは川の音と、今はまだ聞こえない人の声とやらにひたすら意識を注ぎ続ける。
しかし注意すればするほど虫の声や、木々が風に揺れる音や、川のせせらぎまでもが人間の声に聞こえなくもないように思えてくる。あたしは完全にドツボにはまってしまった。
「すまん潮音。耳を澄ませば澄ますほど聞こえなくていいものまで聞こえてしまう。せめてその人間の声が何て言ってるのか教えてくれないか?」
そう言って潮音の方へ顔を向けたあたしが目にしたものは
「ふふっ潮離は素直でいいねえ」
ニヤニヤと笑ってあたしを見る潮音の顔だった。
「なっ…!」
何となくだが、潮音があたしにしたことの察しが付いた。あたしは騙されたのだ。この化け物に、またしても。
「この!お前はまた…」
「ああよしよし。潮離はいい子だよ」
潮音に掴みかかろうとしたあたしの動きよりも数秒早く潮音は動き、あたしを抱きしめる。
いや、抱きしめるというかただ単に攻撃されないように手を封じに来ただけだったんだろうけど。
「ごめんごめん。でも今ので分かったでしょ」
「ああ、結局自分が聞こえないと思ったものは本当に聞こえない。つまり自分の直観に従えってことだろ?」
潮音の拘束から逃れようと身をよじるが、かなりきつく締め付けられて逃れられない。
観念してあたしはどのまま話を聞くことにした。
「違うよ。結論がそうなっただけ。さっき潮離はあたしが聞こえるって言った声を、自分にも聞こえると決めつけて周りの音が全部声に聞こえたんじゃない?」
「それは…」
潮音は的確にあたしの図星を射貫いていく。
「ごめんね。意地悪なことして。でもね。意地悪されて教えられたことの方が優しく教えられることより心に残るでしょ?」
「それは心に残るじゃなくて根に持つって言うんじゃないのか?」
「うん。そういう人もいるね」
しかし言ってることはもっともだと思う。「決めつけは駄目だ」という教訓を与えられた直後だったから自分の直観を安直に否定して、自分の思考をただ機械的捻じ曲げた。つまり、教えられたことが身に付いていないにも関わらず分かった気になっていただろう。
その勘違いを正してくれたと思えば感謝するべきなのかも知れないが、少なくともこのときのあたしはそこまで素直で謙虚ではなかった。今と違って。
「さ、できればもっと話したいところだけどそろそろ日が落ち切っちゃう。誰かさんがあたしの首筋に悪戯したせいで」
「先にしたのは潮音だったよな?」
「腕ほどくけど、襲い掛かったりしない?」
「しない。暑苦しいから早く離れろ」
もちろん離れて欲しいというのは本気だったけど、汗をかく必要のない物の怪にとって暑さで苦しむことはない。ただの口実だ。
「よし。もたもたしてると本当に夜になっちゃうから急ごうか」
素直に腕による拘束を解く潮音。あたしもここで潮音に仕返しをするだなんて大人げないことはせずに潮音が下山を始めるのを待つ。
「よし!じゃあ出発!」
言うが早いか物凄い勢いで山を駆け降りる潮音。それはもうすさまじい勢いで。風か、あるいは水のように山肌の岩などを避けていく。
あたしはというと、その潮音から2,3メートル遅れをとって必死で後を追う。
潮音の通った道を単純にたどればいい分何も考えなくて済んだけど、勢い余って変な藪に突っ込んだりはした。
その度に潮音は後ろを振り返って足を止めてくれたので下山するまでずっと潮音との距離は一定だったけど。
「はあ、無事下山だね」
そして来た時の半分以下という驚異的な時間であたし達は下山を終える。
「次は絶対あんな下り方しないからな」
「遠回しに次も来てくれるって言ってるの?」
「なっそれは」
「じゃあ帰るよ。もう夜になっちゃった。はやく夕飯の支度しないと」
違う。と、あたしが言い終わる前に潮音は歩き出してしまった。
その後ろ姿を見て、あたしの中にある疑問が浮かび上がる。
「潮音。お前は結局何がしたいんだ?」
その疑問をあたしは躊躇うことなく言葉にしてそのまま潮音にぶつける。
「何って、山菜を採りに行きたかっただけだけど」
「違う。俺のことだ。…今更ではあるが、これはお前…潮音にとって遊びなのか?ただの気まぐれで、俺を育てようとしてるのか?」
「遊びなんかじゃないよ。それだけは言い切れる。飽きたら終わりだなんて言わないし、そもそも飽きるとか、そう言うんじゃない」
潮音はあたしに向き直って、あたしをまっすぐ見てそう言い切った。その眼差しは優しかったが、この時のあたしにとってはその優しさの方が怖かった。
寝床やごはんのお世話までしてもらった上に畑仕事や料理の仕方、体の使い方まで教えてくれた恩人にこんなこと聞くのは今のあたしじゃとてもできなかったけど、このときのあたしはお構いなしにぶちまける。
決めつけはよくないという意味では潮音が味方であるという決めつけを捨てたこの時のあたしの方がいくらか立派ではあったのかもしれないけど。
「しいて言うならあたしが潮離を気に掛けてる理由、教育しようとしてる理由、それは復讐だよ」
「復讐?」
「そう復習にして復讐。私怨による支援」
この時潮音の顔は真面目そのもので、どこか憂いさえも帯びていた。その潮音に、「またしょうもないことを言うな」とは、さすがに言えなかった。
「あたしはね、後悔してるんだ。人間と仲良くなろうともしないで殺しまわってたことを。仲良くすれば楽しいことだらけなのに」
「じゃあお前が恨んでるのは…」
「もちろん人間じゃないよ。果たす復讐は殺してきた人達のため、恨んでるのはあたし自身」
そんな終わりのない戦いを彼女は続けていた。
果たされることのない悲願を果たすために、あたしは利用されただけみたいだった。
もちろんそれを批判するつもりはこの時のあたしにも、今のあたしにも無い。
それはいのはただ単に潮音に、あたしの最初の先生に感謝してるから。そしてこの時のあたしにはただ単に潮音言ってることが衝撃的過ぎてちゃんと頭が回らなくなってたからだ。
だって、相手の方がはるかに年上とはいえ、ここまで生き方も考え方も自分とは違うというのは、この時のあたしには少し刺激が強かった。
「そんな生き方は楽しいのか?」
あたしは同じような質問を、二人目の先生であるところのアーサー・マクダナムにもしたことがある。
「うん。楽しいよ。楽しむつもりでこの生き方を、人間と生きる生き方を、選んだんだから。」
そして奇しくもその問いに対する潮音の答えは、先生の答えとは正反対ともいえるものだった。




