残響楽曲と廃病院の決意
「いやー、今日はマジで最高だったわ! ケーキ食いすぎて腹痛え!」
「貴様が自分のタルトに飽きて、私のモンブランを強奪したからだろうが。全く、品性というものがない」
「いいじゃんかよー、非モテ同盟のよしみでさ!」
すっかり日の落ちた鳴鐘町の住宅街。
ケーキ屋での号泣事件を経て、俺――空色奏と陽川拓海、霧雨弦の三人は、すっかり結束を固め(?)笑い合いながら帰路についていた。
拓海が弦の肩をバシバシと叩き、弦が鬱陶しそうにそれを払いのける。いつも通りの、騒がしくて心地よい日常のノイズ。
だが、十字路に差し掛かった瞬間。
俺の肌を、ピリッとした冷たい静電気が撫でた。
(……なんだ?)
足を止め、背後の暗がりを振り返る。何もいない。だが、確かな『波長』が俺たちの背中にねっとりと張り付いているのを感じた。
ただの野良の残響使いではない。殺意すら伴う、訓練された淀んだ気配だ。
チラリと弦を見ると、彼もまた顔から表情を消し、ビニール傘の柄を密かに握りしめていた。
「……弦」
「ああ。少し、空気が冷えてきたな」
短い言葉で意思疎通を図る。俺たちは目配せをし、拓海を両側から挟み込むようにして歩調を速めた。
「お、おい、なんだよ二人して。急に早足になって」
「拓海、今日はもう遅いから、家までダッシュ競争な! ビリの奴は明日購買のジュース奢り!」
「はあ!? なんだよ急に! よーし負けねえぞ!」
俺が無理やりテンションを上げて走り出すと、拓海も負けじと駆け出した。
そのまま一気に拓海の家の前まで駆け抜け、玄関のドアに拓海を押し込む。
「じゃ、じゃあな拓海! また明日!」
「おう、お前らも気をつけて帰れよー!」
バタン、とドアが閉まる音を聞いて、俺と弦は同時に深く息を吐いた。
「……撒けたか?」
「いや。意図的に見逃してくれたのだろう。ターゲットは陽川ではない。……お前か、私だ」
弦が鋭い視線を闇に向ける。
「拓海の家の前でやり合うわけにはいかない。……弦、あそこに行くぞ」
「三丁目にある、市立病院の跡地か。あそこなら誰も来ないな」
俺たちは踵を返し、不気味な気配をわざと引き連れるようにして、夜の街を駆け抜けた。
――市立病院跡地。
数年前に閉鎖され、取り壊しを待つばかりのコンクリートの廃墟。割れた窓ガラスからは月明かりが差し込み、ひんやりとした空気が漂っている。
俺と弦が中庭の跡地に立ち止まると、コツ、コツ、と静かな革靴の音が闇の奥から響いてきた。
「……見事な誘導だ。一般人を巻き込まないための配慮。実に無駄で、青臭い」
現れたのは、黒いロングコートを着た細身の男だった。
青白い肌に、落ち窪んだ目。生気を感じさせないその風貌は、まるで死神のようだった。
「誰だ、お前」
俺が低く問うと、男はコートのポケットに手を入れたまま、薄く笑った。
「灰原柩。お前たちのように、無軌道に力を振りまく『野良』を回収、あるいは処分する者だ。……空色奏、そして霧雨弦だな。先日、うちの久我が世話になったな」
「久我……あの重力の残響使いか。なるほど、敵討ちというわけか」
弦が警戒を強め、ビニール傘を前方に構える。
「敵討ち? 下らない。あんな単細胞の末路などどうでもいい」
灰原は、まるで道端のゴミでも思い出すような冷酷な目で、鼻で笑った。
「あいつは敗北という結果で組織の顔に泥を塗り、完璧なルールにヒビを入れた。だから我々で『再教育』してやったのだよ」
「再教育……?」
「もっとも……組織の与えた絶対的な恐怖と、強すぎるトラウマに精神が耐えきれなかったようでな。今は瞳孔を開いたまま、二度と口もきけない抜け殻になって施設に転がっているがな」
「なっ……! 身内を、お前ら自身で壊したっていうのか!?」
俺の背筋に、ゾクッとした悪寒が走った。
負けたとはいえ、久我はこいつらの仲間だったはずだ。それを「使えない」という理由だけで、言葉も発せないほどのトラウマを植え付けて廃人にするなんて、異常すぎる。
「当然だ。我々の組織の名は『残響楽曲』。……世界に満ちるすべての残響を管理し、統制する者たちだ」
灰原の目には、狂信的な光が宿っていた。
「残響という力は、人間の持つ醜いトラウマや負の感情から生まれる。放っておけば、いずれ世界は無秩序な力の衝突で壊れる。だからこそ、我々が絶対的な恐怖と力をもって管理する。誰も逆らえない圧倒的なルールを敷き、無駄な争いのない、完全なる静寂の平和を創り上げる。それが理念だ」
灰原はそこで言葉を区切り、俺たちに手を差し伸べた。
「空色奏。お前の持つ特異な波長は、我々の偉大なる指導者も高く評価している。……どうだ。我々の同志となり、共に争いのない平和な世界を創らないか?」
静まり返る廃病院の中庭。
俺は、灰原の差し出された手をじっと見つめ……そして、心の底からの嫌悪感を込めて鼻で笑った。
「……断る」
「何?」
「争いのない、完全な平和? ……笑わせんな。身内を恐怖でぶっ壊して縛り付けるような息苦しいモン、生きた人間の世界じゃねえよ」
俺は両手をポケットから引き抜き、右の拳を強く握りしめた。
「俺が欲しいのは、恐怖で押し殺された無音の世界なんかじゃない。ムカついたら殴り合って、言いたいことぶつけて……最後は笑って終われる、騒がしい世界だ!」
俺の拳から、チリチリと『不協和音』のノイズが漏れ出し、空間を歪ませる。
「お前らの言う平和には、俺の大事な日常が欠けてる。だから、お前らは……俺の敵だ」
俺の明確な拒絶を聞いて、灰原はゆっくりと差し出していた手を下ろした。
「……そうか。ならば、ここで死ね」
灰原が、右手の指をパチンと鳴らした。
その瞬間――世界から「音」が消えた。
「なっ……!?」
弦が驚愕の表情を浮かべるが、その声すら俺の耳には届かない。
ただ音が消えただけではない。俺の足元で揺れていた雑草の動きが止まり、風が止んだ。空間そのものの「振動」が、強制的に停止させられたのだ。
「これが私の残響……『強制休符』」
灰原の声だけが、脳内に直接響くように聞こえてくる。
「私が指定した空間のあらゆる振動は死に絶える。……さあ、動けまい」
灰原が、コートの裏から冷たい光を放つ軍用ナイフを引き抜いた。
俺は一歩踏み出そうとしたが、身体が泥の中に沈んだように重く、言うことを聞かない。筋肉の収縮という「振動」すらも、強制的に停止させられているのだ。
「終わりだ、空色」
無音の世界の中、灰原が音もなく滑るように距離を詰め、俺の心臓に向けてナイフを突き出してくる。
(……動け、動けっ!)
刃先が俺の胸に届く寸前。
俺は、全身の血を沸騰させるような怒りと共に、自分の中にあるすべての『不協和音』を爆発させた。
「おおおおおおおッ!!」
ギャリィィィンッ!!!!
俺の体内から放たれた極大のノイズが、灰原の作り出した「休符(無音の檻)」を内側から強引に食い破った。
「なにっ!?」
無音の世界がガラスのように砕け散り、俺の鼓膜に再び夜風の音が戻ってくる。
「人の日常に、勝手に休符を打ってんじゃねえよ!!」
拘束を脱した俺は、右の拳に不協和音を纏わせ、驚愕に目を見開く灰原の顔面へと全力で叩き込んだ。
ドゴォッ!!という鈍い音と共に、灰原の身体が吹き飛び、廃病院の壁に激突する。
「……チッ。野良犬の分際で、私のルールを破るとはな……」
灰原は壁際で体勢を立て直し、口元の血を拭いながら、死神のような冷たい目をギラリと光らせた。
「上等だ、エコーロック。……弦、やるぞ!」
「言われるまでもない。あのような無音の世界、私の傘に叩きつける雨音の方がよほど音楽的だ」
廃病院のコンクリート壁に叩きつけられた灰原は、口元から流れる血を手の甲で拭いながら、忌々しげに俺を睨みつけた。
無音の檻である『強制休符』を物理的に破られた驚き。しかし、灰原の冷たい瞳に焦りはなかった。
「勘違いするなよ、空色。お前のその下品なノイズが、私の『静寂』を完全に上回ったわけではない。檻の隙間を突いて、一瞬だけ弾け飛んだに過ぎない」
灰原が再び右手を高く掲げた。
「次は隙間など作らない。お前の心臓の鼓動、肺の膨張、血液の流れる音……そのすべてに『休符』を打ってやる」
パチンッ、と指が鳴る。
先ほどよりもさらに濃密で、絶望的な「無音」が廃病院の中庭をドーム状に包み込んだ。
「ぐっ……!?」
奏の動きがピタリと止まる。呼吸すらも強制的に停止させられ、顔が苦痛に歪む。
少し離れた位置にいた弦もまた、足元から急速に這い上がってくる『停止』の波長に捕まり、膝を突いた。
「終わりだ。私の完璧な静寂の中で、永久に眠れ」
灰原が音もなく滑るように距離を詰め、その手にある軍用ナイフの切っ先を奏の喉元へと突き出した。
(……ふざけんな)
息ができない。身体が1ミリも動かない。
だが、奏の瞳に宿る闘志の火は、まったく消えていなかった。
(俺たちは、お前らみたいな気取った大人のルールに従うために生きてるわけじゃねえ! 俺たちの日常は、俺たちのペースで鳴らすんだよッ!!)
奏は、止まりかけた心臓の鼓動を、無理やり怒りの感情で叩き起こした。
体内の全エネルギーを『不協和音』へと変換し、一点に圧縮する。そして、灰原のナイフが喉元に触れるそのコンマ一秒の瞬間に、溜め込んだノイズを全方位に向けて大爆発させた。
「ギャリィィィィィィィンッ!!!!」
鼓膜を直接引っ掻くような、凄まじい黒いノイズの波。
それは単なる音の爆発ではなかった。空間そのものを狂わせる、暴力的なまでの『不協和音』。灰原の展開した無音のドームの中に、無数のヒビが入る。
「なに……!? まだこれほどの出力が……!」
灰原が目を見開き、咄嗟にナイフを引いて防御態勢を取る。
「弦ッ!! 今だ!!」
奏の咆哮が、破れた無音の檻を突き抜けて響き渡った。
「……お前の不快なノイズも、今日だけは最高の伴奏に聞こえるな」
奏の放つ不協和音が灰原の『休符』を相殺している今、この空間だけは完全に自由だ。
自由を取り戻した弦は、深く沈み込んでいた膝をバネのように弾き、一気に灰原の死角へと跳躍した。
「チッ、小賢しい……!」
灰原は背後の弦に対応しようと振り返り、再び指を鳴らして『休符』を打とうとする。
「させねえよ!!」
だが、奏は灰原の足首に泥臭くしがみつき、直接その身体に『不協和音』を流し込んだ。
「ガァァァァァッ!!」
ピーガァァッという耳障りなノイズが灰原の全身を駆け巡り、彼の体内の残響エネルギーを無茶苦茶に掻き乱す。
「がっ、あああああッ!?」
灰原が悲鳴を上げた。
彼の『強制休符』は、極めて精密な波長コントロールによって「ゼロ」の空間を作り出す能力だ。そこに奏の無軌道なノイズを直接叩き込まれたことで、灰原の脳内で処理しきれないエラーが爆発。彼自身の能力が暴走し、逆に灰原自身の身体の動きを強制的に「停止」させてしまったのだ。
「ば、馬鹿な……私の休符が……ノイズに、飲み込まれるなど……ッ!」
全身が硬直し、指一本動かせなくなった灰原。その目は、信じられないものを見るように見開かれていた。
彼にとっての絶対的なルール(静寂)が、ただの高校生たちの理不尽な感情の前に、完全に崩れ去った瞬間だった。
「チェックメイトだ、気取った葬儀屋」
硬直した灰原の頭上。月明かりを背に受けて、弦がふわりと宙を舞っていた。
その手には、コンビニで買った五百円の、透明なビニール傘。
だが、今の弦にとって、それはどんな名剣よりも頼りになる最強の武器だった。
「私とお前の決定的な違いを教えてやる。お前の残響は、すべてを拒絶するだけの『死』の音だ」
弦が、空中で身体を捻りながら傘を大上段に構える。
限界まで引き絞られた弓のように、弦の全身の筋肉が軋みを上げ、莫大な残響エネルギーが傘の切っ先に集束していく。
「だが、私の傘は……どんな理不尽な雨も受け止め、弾き返すための『生』の盾だ。この重み、貴様の安っぽい無音で止められると思うなッ!!」
弦の三白眼が、鋭く光る。
「すべてを穿て……『崩傘・驟雨』!!」
轟音。
弦の全体重と、極限まで高められた残響エネルギーを乗せたビニール傘の突きが、隕石のような速度で無防備な灰原の胸元へと叩き込まれた。
「がはァァァァァァッ!!??」
凄まじい衝撃波が廃病院の中庭に吹き荒れる。
灰原の身体はくの字に折れ曲がり、コンクリートの地面を深く抉りながら十メートル以上も吹き飛んだ。背後の廃病院の壁を二枚、三枚とぶち抜き、大量の瓦礫と共に砂埃の中に沈黙する。
「……はぁっ、はぁっ……」
着地した弦は、肩で激しく息をしながら、ゆっくりとビニール傘を下ろした。五百円の傘は、先ほどの極限の一撃に耐えきれず、柄の部分からひん曲がって無惨な姿になっている。
「また……買い直しだな」
弦がボソリと呟くと、背後から足を引きずりながら歩いてきた奏が、その背中をドンッと叩いた。
「安心しろよ。明日、もう一本奢ってやる。……特売のやつな」
「貴様、命の恩人に向かって……せめて千円以上のものにしろ」
軽口を叩き合いながら、二人は瓦礫の山に埋もれてピクリとも動かなくなった灰原を見つめた。
圧倒的な強者だった。だが、俺たちの泥臭い連撃が、確かに奴のルールを打ち破ったのだ。
「……残響楽曲、か。面倒な組織に目をつけられたものだな、空色」
「ああ。でも、誰が相手だろうと関係ねえよ」
奏は、瓦礫の隙間から見える星空を見上げながら、力強く笑った。
「俺たちの日常に勝手に休符を打とうとする奴は、全員、俺たちのノイズでぶっ飛ばすだけだ」
夜風が、二人の火照った身体を冷ましていく。
巨大な組織の影。それを束ねる未知の指導者。
戦いはまだ始まったばかりだが、二人の心に迷いはなかった。
廃病院の跡地には、無音の恐怖はすでに消え去り、遠くから聞こえる虫の音と、二人の静かな呼吸の『リズム』だけが、確かに響き続けていた。




