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天子の重圧と月下の伴奏その1

昨夜、廃病院で繰り広げられた灰原との死闘は、俺たちの日常がいかに薄氷の上に成り立っているかを突きつけるには十分すぎるものだった。

 俺、空色奏そらいろかなでは、隣の席でいつになく沈痛な面持ちで新しいビニール傘——昨日の今日で、もう「四代目」だ——を眺めている霧雨弦きりさめげんに視線を送った。

(……灰原一人であれだけの手間だった。組織エコーロックが本格的に動き出せば、俺たち二人だけじゃ守りきれない)

 俺たちは、授業中に目配せだけで一つの合意に達していた。あの厄介極まる「元・相棒」、八雲調やくもしらべを呼び出し、三人の残響使いによる作戦会議を行うことを。

 だが、そんな張り詰めた決意を霧散させるように、昼休みのチャイムと共に「日常」が教室のドアを叩いた。

「お兄ちゃーん、……あ、霧雨先輩。また、いる」

 教室に入ってきた陽川律花りっかの足音は、今日も軽快なリズムを刻んでいる。だが、彼女の瞳はいつもより鋭く、獲物を定めるような冷徹な輝きを帯びていた。

「……む。陽川の妹君か」

 弦が背筋を伸ばして挨拶をするが、律花の視線は弦の机の横に立てかけられた、ピカピカのビニール傘に釘付けになっていた。

「……ねえ、霧雨先輩。その傘、また変わってませんか?」

「え……あ、ああ。いや、これは、その。前のものは、撥水機能が著しく低下してだな……」

「嘘ばっかり。それに、先輩。顔のアザ、昨日よりひどくなってますよね? 腕だって、隠してるけど包帯巻いてるし。奏くんも、なんか右手が腫れてる」

 律花の観察力は、俺たちの予想を遥かに超えていた。彼女は弦の机に身を乗り出し、逃がさないという強い意思で弦を見つめる。

「……霧雨先輩。ちょっと、いいですか? お話があります」

「わ、私にか?」

 有無を言わせぬ圧に押され、弦はロボットのような足取りで律花について教室を出た。

 人気のない廊下の隅。律花は壁に背を預けると、腕を組んで弦を正面から見据えた。

「正直に言ってください。お兄ちゃんたち、何をしてるんですか? 喧嘩なんてレベルじゃないですよね。あんなアザ、普通に学校生活送っててできるわけないもん」

 弦は口を真一文字に結び、視線を彷徨わせた。

「……答えられない。君に、話せるようなことではないのだ」

「またそれ。お兄ちゃんだけハブって、奏くんと二人で隠し事して。お兄ちゃん、最近寂しがってるの知ってます? 仲間外れならまだしも、何か危ないことに首を突っ込んでるなら、妹として放っておけません」

 律花の言葉は、刃のように正確に弦の痛いところを突いた。弦は苦しげに俯き、震える声で言葉を絞り出した。

「……陽川は、優しい男だ。あまりにも、真っ直ぐすぎる。……だから、あいつが今の状況を知れば、あいつ自身が『おかしく』なってしまう。……それだけは、絶対に避けなければならないんだ」

 弦の言葉に、律花は目を見開いた。冗談や秘密主義で言っているのではない。目の前の不器用な男が、兄の「心」を守るために必死で沈黙を貫いているのだと、その切実な波長が伝わってきた。

 律花はしばらくの間、黙って弦の顔を見つめていた。やがて、彼女はふっと力を抜くと、これ以上ないほどの「天使のような笑顔」を浮かべた。

「……わかりました。今は、信じてあげます。でも——」

 律花の笑顔の奥に、得体の知れない重圧プレッシャーが宿る。

「いつか必ず、全部教えてくださいね? 約束ですよ」

 その笑顔に含まれた「逃げ場を許さない圧」に、戦場を潜り抜けてきたはずの弦の背中に、冷たい汗が流れた。

「……あ、ああ。……少し、知人と小競り合いをしただけだ。本当に、それだけなのだ!」

 弦はそれだけ言い残すと、逃げるようにその場を後にした。

 弦が教室に戻ってきた時、その顔は耳まで真っ赤に染まっていた。

「お、おい弦!? 顔真っ赤だぞ、どうした!」

 何も知らない拓海が、慌てて弦の肩を掴む。

「お前、律花に何をした!? あいつに何か変なこと言われたのか!」

「う、うるさいッ! 貴様、離せ! 私は……私はただ……!」

 弦は拓海の手を振り払うと、悔しさと気恥ずかしさが入り混じった顔で叫んだ。

「お前たちに、茶化されながら話すことなど何もない! ……私は、あのような恐ろしい圧を放つ少女とは、二度と二人きりにはならんぞ!」

「恐ろしい圧!? あいつ、天使だぞ!? なあ奏、霧雨がおかしくなった!」

 大騒ぎする拓海。だが、弦が頑なに詳細を話そうとしない様子を見て、俺と拓海はふと寂しさを共有してしまった。

「……なあ奏。弦のやつ、律花と秘密の会話を楽しんできたってことか?」

「みたいだな。俺たちの知らないところで、二人の『リズム』が共鳴しちゃったのかもな……」

「うわあああん! 俺、置いていかれた気分だわ! よし奏、今日は一緒に購買のポテチ食って傷を舐め合おうぜ!」

「おう。非モテ同盟の絆を見せてやろうぜ……」

 俺たちは、赤くなって俯く弦を横目に、友情の虚しさを噛み締めていた。

 放課後。

 鳴鐘町の夕闇が街を包み込む頃、俺たちは拓海を適当な理由で帰宅させ、駅裏の廃ビルの屋上にいた。

 冷たい夜風が吹き抜ける中、そこにはすでに先客がいた。

「……遅いよ、奏。待ちくたびれて、一曲演奏し終えちゃうところだった」

 柵の上に腰掛け、優雅に指を動かしていたのは八雲調だ。

「調。呼び出して悪かったな」

「いいよ。灰原をボコボコにしたんだって? 組織エコーロックの連中、今頃カンカンだよ。君たち、もうターゲットなんだから」

 調がくすくすと笑いながら、地面に降り立つ。

「……茶化しに来たのなら、帰れ」

 弦が、ひしゃげた昨日の傘の代わりに買った新しい傘を突きつける。

「おっと、怖い怖い。……で、本題は何? わざわざ俺を呼んだってことは、君たちだけじゃ組織に勝てないって理解したんだよね?」

 俺は、夜空を見上げながら、重く沈んだ口調で答えた。

「ああ。灰原は身内を壊すような奴らだった。……この町を、そして拓海のいる日常をあいつらの『静寂』に飲み込ませるわけにはいかない」

 俺は調をまっすぐに見据えた。

「調。お前の力が必要だ。かつての相棒としてじゃなく……この町のノイズを守るために、手を貸せ」

 調は一瞬、意外そうに目を丸くした。それから、ひどく楽しげに、残酷なほど美しい笑みを浮かべた。

「……奏がそこまで言うなら、付き合ってあげるよ。君の不協和音と、俺の五線譜。……また、一緒に鳴らそうか」

「……じゃあ、作戦は明日からってことで。俺は、拓海に変な疑いを持たれないように、上手く立ち回るよ」

 廃ビルの屋上。冷たい夜風が吹き抜ける中、奏は、かつての相棒と、新しい相棒にそう告げた。

「ふん、陽川の能天気さなら、貴様が少し挙動不審な程度では気づかんよ」

 弦が、真新しい四代目ビニール傘を杖のように突きながら、不愛想に鼻を鳴らす。

「あはは、奏の挙動不審は昔からだもんね。拓海は、奏の例のあの時だって、何にも気づかなかったくらいだし」

 柵の上に座った調が、挑発的な笑みを浮かべて、俺の古傷を抉るような言葉を口にする。

「……調。その話は、今は関係ないだろ」

 俺が低く睨むと、調はひらひらと手を振った。

「ごめんごめん。……でも、組織は待ってくれないよ。灰原が敗れたって報告が上層部にいけば、次はもっと『ヤバい音』を鳴らす連中が来る」

「……だからこそ、俺たちは手を組んだんだ。この町のノイズを守るために」

(……先は長いな。でも、やるしかない)

 俺は、ジンジンと痛む右手をポケットに突っ込み、住宅街の路地へと足を踏み入れた。

 静かだった。

 昼間の喧騒が嘘のように、鳴鐘町の住宅街は深い静寂に包まれていた。聞こえるのは、俺自身の足音と、遠くで聞こえる犬の鳴き声だけ。

 昨夜の灰原との死闘、昼休みの律花の圧、そして放課後の調との再会。

 精神的な疲労が、泥のように身体に溜まっていた。

(……拓海、今頃は何してるかな。律花に、俺たちのこと、変に突っ込まれてなきゃいいけど)

 脳裏に浮かぶのは、太陽のように笑う親友の顔。そして、その日常を守るために、親友を「秘密」の蚊帳の外に置かなければならない罪悪感。

「……俺、最低だな」

 ポツリと漏らした言葉は、夜の静寂に吸い込まれて消えた。

 ――その時だった。

 俺の鼓膜が、異質な『リズム』を捉えた。

 コツ、コツ、コツ、コツ。

 正確すぎる。メトロノームのように、一定の間隔を刻みながら、何かが後ろから近づいてくる。

 足音ではない。もっと、硬質で、無機質な何かが、アスファルトを叩く音。

 俺は足を止め、ゆっくりと振り返った。

 街灯の光が届かない、路地の暗闇。

 そこから、何かが這い出てきた。

「……ッ、何だ、あれ……!」

 それは、人間の形をしていなかった。

 黒い、金属のような材質でできた、無数の『糸』。それが複雑に絡み合い、縺れ合い、一つの巨大な球体を形成していた。球体の表面では、糸が生き物のように蠢き、不気味な軋み音を立てている。

「ターゲット確認。空色奏。波長、不協和音。危険度、A」

 球体の内部から、感情のない、合成されたような声が響いた。

残響楽曲エコーロック実働部隊、コードネーム『スパイダー』。……ミッション、排除」

 スパイダー。

 その名が示す通り、黒い糸の球体はバサリと解け、地面に八本の鋭利な『脚』を突き立てた。蜘蛛を模した、金属の魔獣。その中心には、不気味な青白い光を放つシングルアイが、俺を捉えていた。

「……組織の刺客か。灰原の次が、ロボットとはな」

 俺は両手をポケットから引き抜き、右の拳に『不協和音ディストーション』のノイズを纏わせた。

(解散した直後か。……弦や調のところにも、別の刺客が……!)

 焦りが走る。だが、今は目の前の敵に集中するしかない。

音響解析サウンド・アナリシス……。対象のノイズ、周波数が不安定。物理破壊による排除を推奨」

 スパイダーが、機械的な声と共に、鋭い前脚を鎌のように振り上げた。

「舐めるなァッ!」

 俺は地面を蹴り、スパイダーの懐へと飛び込んだ。

 不協和音を全開にした右拳を、スパイダーの中央にあるシングルアイに向けて叩きつける!

 ドォォォォォンッ!!!!

 凄まじい衝突音。俺の拳から放たれたノイズの波が、スパイダーの金属ボディに炸裂する。

 手応えはあった。灰原の能力すら食い破った俺のノイズだ。並の金属なら、粉々に砕け散っているはず。

「……なにっ!?」

 俺は、自分の目を疑った。

 スパイダーのシングルアイは、無傷だった。

 それどころか、俺が拳を叩きつけた瞬間に、スパイダーの表面を覆う黒い糸が、俺のノイズに合わせて細かく『振動』し始めたのだ。

 まるで、俺の不協和音を、エネルギーとして『吸収』したかのように。

音響吸収サウンド・アブソーブ。……不協和音のエネルギー、体内の動力へ変換完了」

 スパイダーの声が、一段と高く、力強くなった。

「なに……? 俺のノイズを、吸収した……?」

 灰原の能力は『強制休符』、つまり音(振動)をゼロにする能力だった。だからこそ、俺の無限のノイズは天敵だった。

 だが、このスパイダーは違う。

 こいつの残響は……『音響摂食サウンド・イーター』。

 周囲の音(振動)を吸収し、自らの動力や、物理的な強度へと変換する能力。

 つまり、俺が不協和音を鳴らせば鳴らすほど、こいつは強く、硬く、そして速くなる。

(最悪の、相性……!)

「戦闘モード、フェーズ2。……出力最大」

 スパイダーの全身を構成する黒い糸が、俺のノイズを吸収して、青白く発光し始めた。

 ブォォォォォンという、巨大なトランスが唸るような、重低音のノイズ。

「 exclusion(排除)」

 次の瞬間、スパイダーの姿が消えた。

 速い! 俺のノイズをエネルギーに変えた、圧倒的な機動力。

「がっ……あァッ!?」

 俺の視界が、ぐにゃりと歪んだ。

 スパイダーの、超振動する前脚が、俺の腹部にまともに叩き込まれたのだ。

 壁を突き抜け、住宅街の路地から裏の廃ビルへと吹き飛ばされる俺。

 背中からコンクリートの壁に激突し、口から血がこぼれた。

「……痛っ、てぇな……」

 瓦礫の中から、這い上がる。

 スパイダーは、破れた壁の向こうから、静かに俺を見下ろしていた。

「分析完了。対象の肉体強度、C。……次の攻撃で、排除を完了する」

 スパイダーが、再び前脚を構える。その先端は、超振動によって高熱を帯び、オレンジ色に輝いていた。

(……くそっ、どうする。不協和音は効かない。物理攻撃も、こいつを強くするだけだ)

 窮地。灰原戦とは比較にならないほどの、絶望的な状況。

 一人で帰るんじゃなかった。弦がいれば、調がいれば……。

(……違う)

 俺は、強く唇を噛んだ。

(俺たちは、手を組んだんだ。……弦や調が、それぞれの敵と戦っている。なら、俺も……俺の敵を、俺一人でぶっ倒さなきゃならない!)

 脳裏に浮かぶのは、屋上で共闘を誓った、あの三人の『リズム』。

 不器用な弦の傘の音。挑発的な調の五線譜の音。そして……俺の、泥臭い不協和音。

「……音を食べるなら、食べきれないほどの『音』を、食わせてやるよ」

 俺は、よろめきながらも、再びファイティングポーズをとった。

 右拳だけでなく、全身から『不協和音』を放出する。

 それは、灰原戦で使ったような、一点集中の爆発ではない。

 もっと、細かく、無数で、予測不能な、空間全体を狂わせるような……『ノイズの雨』。

「音響解析、……っ、ノイズ多数、解析不能……っ!」

 スパイダーのシングルアイが、俺の撒き散らす無数のノイズに処理が追いつかず、激しく点滅を始めた。

「俺の不協和音は、単なる音じゃない。……俺の、拓海や弦、調と一緒に、この町で鳴らしたい……『生きた日常』の音だッ!!」

 俺は、ノイズの海の中で、一気にスパイダーへと突っ込んだ。

 食い破れ、不協和音(ディストーション)

 俺の、騒がしい日常を、勝手に『排除』しようとする奴は、全員……俺のノイズで、噛み砕いてやる!!

 夜の廃ビル。

 不協和音の爆発と、金属のきしみ音が、激しく交錯した。

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