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うつろう傘と忍び寄る足音

四時限目を告げるチャイムが鳴り終わり、教室はあっという間に昼休みの喧騒に包まれた。

 昨日の放課後、八雲調やくもしらべという最悪のジョーカーと路地裏で死闘を繰り広げたばかりだというのに、学校の空気は拍子抜けするほど平和だった。

「奏、弦! 飯食おうぜ!」

 陽川拓海ひなかわたくみが、いつものように自分の机を引きずって俺たちの間に割り込んでくる。

「陽川、机の脚が床と摩擦するノイズが不快だ。持ち上げて運べ」

「いいじゃんか減るもんじゃなし! おっ、今日の弁当はハンバーグだぜ!」

 弦の小言を完全にスルーして弁当箱を開ける拓海。俺――空色奏そらいろかなでも、購買で買った焼きそばパンの袋を開けながら、弦の横顔を盗み見た。

 弦の顔にはまだうっすらと昨日のアザが残っているが、本人は気にする様子もなく、自分の席の横に立てかけた『透明なビニール傘』を真剣な目で見つめていた。

 昨日の戦いで、弦の傘は調の能力によってズタズタに破壊された。今ここにあるのは、今朝コンビニで俺がまた五百円で買ってやった「三代目」だ。

「お兄ちゃーん! ちょっと、いる?」

 教室の入り口から、小鳥のような明るい声が響いた。

 緩いウェーブのかかった栗色の髪を揺らしながら入ってきたのは、拓海の妹の律花りっかだった。彼女が教室に入ってくると、パッと花が咲いたように空気が一段と明るくなる。

「おお、律花! どうした、兄ちゃんに会いたくなったか?」

「うるさい、キモい。昨日借りた赤ペン返しに来ただけ」

 律花は拓海の頭を軽く小突いてペンを机に置くと、「奏くんもヤッホー」と俺に手を振った。

「お疲れ、律花。相変わらず拓海への当たりが強いな」

「だって本当のことだもん。……あ」

 律花はふと、俺の隣で背筋をピンと伸ばして座っている弦に視線を移した。

「霧雨先輩、こんにちは」

「……む。陽川の妹君か。今日も君の歩行のリズムは乱れがなく、非常に整っているな」

 弦が真面目腐った顔で挨拶を返す。相変わらず変な褒め方だが、律花はもう慣れたのか、「ふふっ」と小さく笑って弦の机の横に立った。

「あれ? 霧雨先輩、その傘」

 律花が、弦の真新しいビニール傘を指差した。

「ん? この傘が何か」

「それ、新しく買ったんですか? この前見た時より、ビニールのシワが少ないし、持ち手のところの傷もなくなってるから」

 俺と弦は、同時にビクッと肩を震わせた。

(マジかよ……同じコンビニの、全く同じ型番の五百円傘だぞ!?)

 昨日ボロボロに破壊されたことなど言えるわけがない。俺が冷や汗を流して言い訳を考えていると、弦が少しだけ視線を泳がせながら口を開いた。

「……あ、ああ。以前のものは、その……寿命を迎えてな。これは新調したものだ」

「えー? 奏くんから貰った大切な傘だって言ってたのに? たった数日で壊しちゃうなんて、あんまり大切に使えてないんじゃないですかー?」

 律花が、からかうように小首を傾げてニシシと笑う。

 図星を突かれた弦は、さらにたじろいだ。残響の死闘で壊れたなどと口が裂けても言えない彼は、苦し紛れに絞り出すように答えた。

「そ、それは……私の、傘に対する『愛』が……足りていなかったからかもしれない」

「あはは! 何それ、傘に愛って!」

 律花がツボに入ったのか、お腹を抱えてケラケラと笑い出す。弦は顔を真っ赤にして、「い、いや、物質に対する愛着というものは物理的な寿命にも影響を……」としどろもどろに弁解を始めた。

 その光景を少し離れたところから見ていた俺と拓海は、顔を見合わせてヒソヒソと囁き合った。

「なあ、奏。……あいつら、なんか距離近くね?」

「俺もそう思ってた。弦のやつ、律花の前だとペース崩されまくってるな」

「うおおお……俺の可愛い妹が、あんな胡散臭い傘男にたぶらかされてる……!」

「お前が引き合わせたんだろうが」

 頭を抱える拓海を小突きながら、俺は二人のやり取りを微笑ましく眺めていた。いつも張り詰めた『弦』のようにピリピリしているこいつが、律花の前だと普通の不器用な高校生に戻っている。

「じゃあ私、お昼食べるから戻るね! 霧雨先輩、今度の傘はちゃんと愛してあげてくださいね!」

「む……あ、ああ。善処しよう」

 律花がひらひらと手を振って教室を出て行く。

 彼女の足音リズムが廊下の奥へ消えた瞬間、俺と拓海は示し合わせたように弦の机に身を乗り出した。

「ヒューヒュー! 霧雨くん、ラブラブじゃーん!」

「俺の妹に手ぇ出したら承知しねえぞ、この愛が足りない男!」

 拓海と俺がニヤニヤしながら茶化すと、弦は耳まで真っ赤にして顔を背けた。

「う、うるさいッ! 貴様ら、低俗な冷やかしはやめろ!」

「いやいや、顔真っ赤だぞ? 律花のこと目で追ってたし!」

「愛が足りないとか、よく真顔で言えたな! お腹痛い!」

 俺たちがさらにヒートアップして囃し立てると、弦はついに机に両手をついてガバッと立ち上がった。

「ち、違う! そういうのではない! 私はただ……っ!」

 弦はギュッと目を瞑り、何かを耐えるようにワナワナと震えた後、蚊の鳴くような声で白状した。

「……同年代の女子と、あのようにまともに言葉を交わしたのが……初めてだったのだ」

「…………えっ」

 俺と拓海の動きが、ピタリと止まった。

「昔から周囲には気味悪がられ、孤独を愛していたゆえ……あのように屈託なく話しかけられると、どう応じていいか分からず……ペースが乱れる」

 弦が、消え入りそうな声でポツリと呟く。

 教室に、気まずい沈黙が降りた。

 俺と拓海は顔を見合わせ、同時にすーっと血の気が引くのを感じた。

(やばい。俺たち、初めて女の子と話せてドギマギしてる奴を、よってたかってイジり倒してたのか……!?)

「ご、ごめん……弦。俺、そんなつもりじゃ……」

「いや、俺が悪かった。マジでごめん。なんか……泣きたくなってきた」

 俺と拓海が本気で申し訳なさそうな顔で謝ると、弦はさらに居心地が悪そうに目を泳がせた。

「同情するな! 貴様らのその憐れむような視線が一番腹が立つ!」

「わ、分かった! なあ弦、今日の放課後、なんか美味いもん奢るよ! な!」

「俺も俺も! 購買のプリン、俺の分やるから機嫌直してくれ!」

 必死にフォローを入れる俺たちに、弦は「……二つとも貰おう」とため息をつきながら席に座り直した。

 平和な昼休み。

 俺たちの騒がしいノイズは、今日も心地よく教室に響いていた。

 ――しかし。

そんな陽だまりのような日常のすぐ裏側で、暗い影は確実にこの町を侵食し始めていた。

 鳴鐘町の外れにある、廃工場の地下深く。

 日の光が一切届かないコンクリートの空間に、重苦しい足音が響いていた。

「……報告書は読んだわよ。随分と派手にやらかしてくれたみたいね」

 闇の中から声が響く。アンティークの椅子に深く腰掛けた人影が、手に持ったタブレット端末を冷たい目で見下ろしていた。

 その前に片膝をついているのは、黒いスーツを着た大柄な男だ。

「申し訳ありません。我々の同志である久我が、何者かに叩き潰されました」

「久我……ああ、あの重力を操る単細胞ね。力任せの馬鹿だったけど、私が創り上げる『争いのない完璧な世界』のための、有用な駒だったのに」

 椅子に座った人影が、トントンと指先でタブレットの画面を叩く。まるで、世界そのものを自分の手のひらの上で転がしているような、絶対的な支配者の傲慢さがそこにはあった。

「最近、この鳴鐘町で妙な『残響』の波長が複数観測されているわ。私の美しい理想郷を乱す、不快なノイズ……」

「はい。調査によると、久我を潰したのは天音あまね高校の生徒である可能性が極めて高いかと」

「天音高校……。なるほどね」

 人影が、暗闇の中で妖しく口角を上げた。

「争いを生むすべての残響を、圧倒的な恐怖と力で統制し、完全なる平和をもたらす。それが私の使命よ。あの町で燻っている野良の能力者たちは、いずれすべて私の足元にひざまずかせるわ」

 椅子から立ち上がった人影の背後に、巨大なスクリーンが青白く光る。

 そこに映し出されていたのは、天音高校の校舎と、無作為にリストアップされた生徒たちの顔写真のデータだった。

「もう少し泳がせて、底を見極めるの。……私の完璧なシンフォニーに、不協和音は必要ないのだから」

 絶対的な自信に満ちた冷酷な声が、地下室の闇に溶けていく。

 この人物こそがすべての元凶であると、誰もが信じて疑わないほどの絶対的なカリスマ。

 俺たちがまだ何も知らないところで、強大な『残響』の組織の歯車が、ゆっくりと、しかし確実に回り始めていた。

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