ノイズと甘いクレープ
駅前のロータリー。オレンジ色に染まり始めた空の下で、俺――空色奏は、ズキズキと痛む両手をポケットに突っ込みながらため息をついた。
隣には、コンビニで買ったばかりの新品のビニール傘を、所在なげに握りしめている霧雨弦が立っている。
「……おい、空色。本当に俺もいていいのか?」
「今更何言ってんだよ。俺が奢るって言っただろ。それに、俺とお前で果たし状の後にそのまま帰るとか、気まずくて無理だ」
「しかし、お前の親友は俺のことを……」
「おーい! 奏ーっ!」
霧雨の戸惑いを掻き消すように、駅の改札から満面の笑みを浮かべた陽川拓海が手を振りながら駆けてきた。
だが、俺たちの顔を見るなり、拓海の足がピタリと止まる。
「……えっ。お前ら、顔どうしたの!? ていうか奏、手もハンカチ巻いて血滲んでるじゃん! そっちの……ええと、霧雨だっけ? 霧雨も顔面アザだらけだし!」
目を丸くして詰め寄ってくる拓海。俺は事前に霧雨と打ち合わせていた言い訳を、極めて自然なトーンで口にした。
「あー、いや。駅前の歩道橋あるだろ? あそこで俺が足滑らせて、下歩いてた霧雨巻き込んで派手に転げ落ちたんだよ。マジで最悪」
「はぁ!? お前ら何やってんの!?」
「で、そのお詫びに俺が傘弁償して、今からクレープも奢るってわけ。な、霧雨」
俺が横目で合図を送ると、霧雨はロボットのようにカクカクと頷いた。
「あ、ああ……。空色の不注意で、共に物理的な落下運動を経験した。そういうことだ」
(お前、嘘つくの下手すぎだろ……)
俺が冷や汗を流した瞬間、拓海は「ぶはっ!」と盛大に吹き出した。
「なんだよそれ! 階段から二人で落ちるとか、漫画かよ! ダッセー!」
腹を抱えて笑う拓海に、霧雨が目を白黒させる。
「いや、笑い事じゃ……俺たちは怪我を……」
「でも生きてんだろ? ならオッケー! いやー、奏がどんくさいのは知ってたけど、霧雨も災難だったな! よし、奏のお詫びってことなら、今日は遠慮なく一番高いやつ食ってやろうぜ!」
拓海はそう言うと、ごく自然な動作で霧雨の背中をバンッと叩いた。霧雨はビクッと肩を震わせたが、拓海は全く気にした様子もなく、「クレープ屋、こっちこっち!」と歩き出してしまう。
残された霧雨が、信じられないものを見るような目で俺を見た。
「……あいつは、いつもああなのか?」
「言っただろ? 能天気な馬鹿だって。でも、悪い奴じゃない」
俺が肩をすくめると、霧雨は手元のビニール傘をギュッと握り直し、「……そうだな」と小さく呟いて、拓海の背中を追いかけ始めた。
駅前の小さなクレープ屋は、学校帰りの学生たちで賑わっていた。
「おばちゃん! 俺、チョコバナナ生クリームのトリプルマシマシで! あと奏の奢りだから、こいつらも一番高いやつで!」
「拓海、お前マジで容赦ねえな……おばちゃん、俺は普通のシュガーバターでいいよ」
俺が財布を取り出しながら言うと、拓海が横から「えー、地味!」と茶々を入れてくる。
「で、霧雨はどうする?」
俺がメニュー表を指差すと、霧雨は真剣な顔で数十種類あるメニューを凝視していた。その目は、先ほどの路地裏で見せたような鋭い三白眼だが、視線の先にあるのは色鮮やかなクレープのサンプルだ。
「……この、『いちごホイップカスタードミルフィーユ仕立て・キャラメルソースがけ』というのは、どういう構造になっているんだ?」
「名前のまんまだよ! 霧雨、甘いもん好きなの?」
拓海がニヤニヤしながら聞くと、霧雨は少し頬を赤くして咳払いをした。
「そ、そういうわけではないが……カロリー摂取は効率的なエネルギー補給に繋がる。決して、いちごに惹かれたわけでは……」
「おばちゃーん! このいちごの長いやつ一つ追加で!」
「おい、俺はまだ決定を……っ、いや、ありがとう」
慌てる霧雨を見て、拓海がまたガハハと笑う。クレープを受け取った際、霧雨が店員のおばちゃんに向かって「丁寧な接客、感謝する。大切にいただこう」と深々と頭を下げたのを見て、俺は思わず吹き出しそうになった。
こいつ、根はめちゃくちゃクソ真面目で礼儀正しいやつなんじゃないか。
俺たちは駅前の小さな公園のベンチに座り(俺と霧雨の男三人で並んでクレープを食う光景は控えめに言って地獄だったが)、甘い匂いを漂わせていた。
「んっま! やっぱ放課後はこれだよなー!」
口の周りに生クリームをつけながら、拓海が幸せそうにクレープを頬張る。
その隣で、霧雨は両手で大切そうにクレープを持ち、まるで高級なフランス料理でも食べるかのような慎重さで、一口ずつ味わっていた。
「……美味い」
ポツリと漏れた霧雨の声に、拓海が嬉しそうに身を乗り出す。
「だろ? ここのいちごクレープ、マジで絶品なんだよ! 霧雨、意外と甘党なんだな!」
「……甘党、という単語の定義が不透明だが。美味いものは美味いと認めるのがスジだろう」
霧雨はそう言いながら、クレープの包み紙が汚れないように器用に折りたたんでいく。所作がいちいち几帳面だ。先ほどまで俺を殺そうとしていた残響使いと同一人物とはとても思えない。
「そういやさ」
拓海がふと、ベンチの横に立てかけられた透明なビニール傘に視線をやった。
「霧雨って、なんでいつも傘持ってんの? 今日もずっと晴れてたじゃん。教室の時も、俺が蹴っ飛ばしちゃってめっちゃ怒ってたし……あ、あれはマジでごめん!」
その瞬間、霧雨の動きがピタリと止まった。
空気が少し張り詰める。無理もない。霧雨にとってあの「黒い傘」は、過去の象徴であり、自分を守る唯一の世界だったのだ。それを俺に壊されたばかりの今の彼にとって、その質問はあまりにも鋭かった。
俺が助け舟を出そうと口を開きかけた、その時だった。
「ま、いっか!」
拓海がクレープの最後の一口を飲み込みながら、あっけらかんと言い放った。
「え?」
霧雨が間の抜けた声を出す。
「いや、誰にでも一個くらい、変なこだわりってあるじゃん? 俺も昔、絶対にお気に入りのおもちゃの剣離さなくて、親に怒られながら寝てたし! 霧雨にとっては、それが傘ってだけだろ?」
「……俺の、こだわり……」
「そうそう! それに、奏が新しいの買ってくれたんだろ? 透明なのも似合ってるぜ。大事にしろよな!」
ニカッと笑う拓海。そこには一片の悪意も、深掘りしようとする詮索もなかった。ただ純粋に、霧雨の「傘を持ち歩く」という奇妙な行動を、「そういうやつなんだ」と丸ごと受け入れたのだ。
霧雨は目を丸くして拓海を見つめ、それから横に座る俺を見た。俺は小さく肩をすくめて、シュガーバターの端をかじる。
「……お前の言う通りだ、陽川」
霧雨はふっと表情を和らげ、ベンチの横のビニール傘の柄をそっと撫でた。
「こだわり、か。……そうだな。俺はただ、これが好きなだけなんだろう。新しいこの傘も……悪くない」
その口調には、路地裏で見せたような張り詰めた冷たさは微塵もなかった。ただの、少し不器用で、真面目な高校生の顔だった。
「だろ!? よし、食い終わったし帰ろうぜ! あー、奏の奢りだと一段と美味かったわ!」
「お前、次からは絶対自腹だからな」
「えー!? そこは階段から落ちたお詫び継続でしょ!」
沈みゆく太陽が、三人の影を長く伸ばしている。
前を歩く拓海が、後ろを振り返って大きく手を振った。
「じゃあな奏! 霧雨も、また明日な!」
「ああ、また明日」
俺が手を振り返すと、霧雨も少しだけ遅れて、ぎこちなく右手を上げた。
「……ああ。また、明日」
その言葉は、彼にとってとても新鮮な響きを持っていたように聞こえた。
拓海の背中が見えなくなってから、俺と霧雨は立ち止まった。
「……空色」
「ん?」
「今日は……色々と、すまなかった。そして、感謝する」
霧雨はまっすぐ俺を見て、深く頭を下げた。手には新しいビニール傘がしっかりと握られている。
「気にしてねえよ。俺もやりすぎたしな。……でも、一つだけ言っておく」
俺は自分の右手を軽く握りしめた。まだジンジンと痛むその手の中には、確かに『不協和音』のノイズが眠っている。
「俺の日常に巻き込んだんだ。これからは、くだらないことで悩むのも、あいつのペースに巻き込まれるのも、覚悟しておけよ」
俺の言葉に、霧雨は少しだけ目を細め、今日一番の穏やかな顔で笑った。
「……望むところだ。俺の新しい傘で、お前たちのノイズごと受け止めてやる」
そう言って背を向けた霧雨の足取りは、出会った時よりもずっと軽く見えた。
俺もまた、自分の家へと歩き出す。
ポケットの中で疼く怪我の痛みも、新しく加わった面倒な不協和音も。
不思議と、今の俺には心地よく響いていた。




