陽だまりの少女と重圧の残響
昨日の死闘が嘘のように、教室には穏やかな昼休みの光が差し込んでいた。
俺――空色奏は、自分の席で購買のパンを齧りながら、隣の席で一心不乱に「傘の手入れ」をしている霧雨弦を眺めていた。
「……霧雨、それコンビニの五百円のビニール傘だぞ。そんなに拭くところないだろ」
「馬鹿を言え。安価な素材だからこそ、日々のメンテナンスが寿命を左右するんだ。……見てみろ、この透明度。空の青が透けて見えるようだ」
弦は真剣な顔で、教室の隅に立てかけてあった透明な傘を布でキュッキュと磨き上げている。どうやら昨日の「クレープ和解」を経て、こいつの極端な性格は「不気味な隣人」から「面白い変人」へと俺の中でクラスチェンジしたらしい。
「おーい、二人とも! 飯にしようぜ!」
拓海が自分の机をガタガタと引きずってきて、俺たちの間に割り込んだ。その瞬間、教室の入り口から「あ、お兄ちゃんいた!」という小鳥のような明るい声が響いた。
入ってきたのは、一人の女子生徒だった。
緩くウェーブのかかった栗色の髪。拓海によく似た真っ直ぐな瞳。一年生の制服を少し着崩したその姿に、俺は思わず声を上げた。
「律花? どうしたんだ、こんなところに」
「あ、奏くん! 久しぶり。……じゃなくて、お兄ちゃん! これ、また忘れてたでしょ!」
陽川律花。拓海の妹であり、俺にとっては小学生の頃からの腐れ縁だ。彼女は拓海の机に、少し大きめの弁当箱をドスンと置いた。
「うわっ、マジ!? 助かったー! 律花、愛してるぜ!」
「うるさい、キモい! お母さんに言われたから来ただけ!」
律花はぷいっと顔を背けたが、ふと、拓海の隣に座る見慣れない人物――霧雨弦に視線を止めた。弦はちょうど、磨き終わった傘を大事そうに両手で抱えているところだった。
「……お兄ちゃん、この『傘の人』、誰?」
律花の目が明らかに警戒の色を帯びる。無理もない。弦の三白眼と、教室で傘を抱きかかえる異常な行動は、初対面の女子高生からすれば「関わってはいけないタイプ」そのものだ。
「ああ、こいつは霧雨! 昨日、奏と一緒に階段から落ちた仲間だ!」
「階段から……? 奏くん、変な人と付き合ってない?」
律花は俺の後ろに隠れるようにして、じーっと弦を観察する。弦は律花の視線に気づくと、椅子から立ち上がり、深々と頭を下げた。
「……霧雨弦だ。陽川の妹君……陽川律花、だな。廊下を歩いてくる君の足音には、乱れのない心地よい『律』があった。礼節をわきまえた素晴らしい少女だ」
「えっ……足音?」
真面目な顔で褒めちぎる弦に、律花は一瞬呆気にとられたように固まり、それから「ふふっ」と小さく吹き出した。
「何それ、変な褒め方。奏くん、面白い友達作ったんだね。……でも、悪い人じゃなさそう」
律花は警戒を解き、弁当袋の中から予備の割り箸を弦の机に置いた。
「これ、使って。お兄ちゃんみたいに手掴みで食べちゃダメだよ」
「あ、ああ。感謝する」
「じゃあね奏くん! また今度ゆっくり遊ぼうね!」
嵐のように現れた律花は、小気味良い足音を響かせて教室を去っていった。
「……いい妹だな、拓海」
「だろ? 俺の自慢なんだよ。……って、おい霧雨、それ俺の唐揚げだぞ!」
「エネルギー補給は公平に行われるべきだ。……美味いな、この味付け」
賑やかな昼休み。だが、その平穏は、廊下から響く無遠慮な足音によって唐突に破られた。
「おい……空色奏、と霧雨弦。ちょっと面貸せよ」
現れたのは、三年の久我という先輩だった。ガタイが良く、鋭い目つきをした学校でも有名な不良だ。その後ろには、昨日の路地裏での騒動を目撃していたらしい取り巻きが数人立っていた。
「久我先輩。……何の用ですか」
「すっとぼけんな。昨日、俺のシマの路地裏で派手にやり合ったらしいじゃねえか。挨拶もなしか?」
久我が不敵な笑みを浮かべる。その体からは、どす黒い『残響』が漏れ出していた。
「……奏、霧雨。まさかお前ら、本当に喧嘩を?」
拓海が不安そうに俺たちを見る。俺は拓海の肩を軽く叩き、笑顔を作った。
「いや、ただの『話し合い』の続きだよ。……弦、行こうか」
「ああ。私の新しい傘の、初陣といこう」
連れて行かれたのは、放課後の旧体育館裏だった。
「さて、一年坊主。まずは教育から始めてやる」
久我が一歩踏み出した瞬間、俺たちの周りの空気が一変した。
「ぐっ……身体が、重い……!?」
突如として全身にのしかかる、圧倒的な重圧。久我の残響能力は『重力密度』。彼が意識を向けた範囲の重力加速度を強制的に引き上げる能力だ。
「どうした、膝が笑ってるぜ? 俺の残響の前じゃ、お前らみたいな小細工は通用しねえ」
久我が悠々と歩み寄ってくる。俺は地面に膝をつきそうになりながらも、弦を見た。弦もまた、五百円のビニール傘を杖のように地面に突き立てて、必死に立ち上がろうとしていた。
(あのビニール傘じゃ、昨日のような極限の防御(盾)は使えない。真っ向勝負は無理だ)
「弦、初めての『共同作業』だ。……作戦は分かってるな?」
「ふん、言われるまでもない。お前が『道』を作れ、空色!」
俺は全身の力を振り絞り、両手を地面に叩きつけた。
「『不協和音』!!」
俺の拳から放たれたノイズの波が、地面を伝って周囲の重力場へと干渉する。久我の放つ「重い」波長を、俺の「乱れた」波長が強引に噛み砕き、中和していく。
「なにっ、重力が……軽くなった!?」
「今だ、弦!」
俺の合図と共に、弦が地を蹴った。
本来なら重力下で動けないはずの身体が、俺の中和によって一時的に自由を取り戻す。弦はビニール傘を握り直し、流れるような動作で久我の懐へと滑り込んだ。
「舐めるなァッ!」
久我が重力を纏った強烈な拳を振り下ろす。弦はそれを傘で受けることはせず、傘の表面を滑らせるようにして攻撃の軌道を逸らした。ミシッ、と安いビニール傘の骨組みがきしむ。
そのまま弦は反転し、傘の「柄」を久我の足首に引っ掛け、全体重を乗せて強引に足払いを決めた。
「ぐあああっ!?」
体勢を崩した久我。そこに俺が追い打ちをかける。
「奏、仕上げだ!」
「分かってる!」
俺は倒れ込む久我の胸ぐらを掴み、その身体に直接『不協和音』を叩き込んだ。
「お前の残響を、ここで『弱体化』させる!」
ピーーーッという耳鳴りのようなノイズが久我の全身を駆け巡り、彼の重力能力を大幅に削ぎ落とす。
重力から解放された一瞬、弦の傘が閃いた。
特別な破壊力はない。だが、剣術のように研ぎ澄まされた純粋な「刺突」が、閉じた状態のビニール傘の先端から真っ直ぐに放たれ、久我の鳩尾を正確に射抜いた。
「がっ……は……!」
久我の巨体がくの字に折れ曲がり、そのまま体育館の壁に背中を預けるようにして沈黙した。
静寂が戻った体育館裏。俺と弦は、肩で息をしながら互いを見た。
「……初めてにしちゃ、悪くないコンビネーションだったな」
「安い傘は骨が曲がりやすいのが難点だな。だが……お前のノイズは、相変わらず耳障りだが使い道はあるようだ」
弦は少しだけひしゃげたビニール傘を愛おしそうに撫でてから、服の汚れを払った。
「さて、空色。腹が減ったな。……律花が、夕飯はコロッケだと言っていた気がする」
「お前、いつの間にそんな情報まで仕入れたんだよ。……まあいい、今日は俺がコロッケ、追加で買ってやるよ」
俺たちは沈み始めた夕日に背を向け、校門へと歩き出した。
不快な重圧の残響はもう消えていた。
代わりに、新しく加わった「騒がしい日常」の足音が、心地よく響いていた。




