不協和音と雨の傘
俺、空色奏の願いは、ただ一つ。どこにでもいる天音高校に通う普通の高校生として、ここ鳴鐘町で平穏な日常を送ることだ。
世の中には『残響』と呼ばれる異常な力を持つ人間がごく稀にいる。過去の強烈なトラウマや、煮え滾るような感情、あるいは純粋すぎる祈り。そういった人間の心の奥底に沈んだ重い記憶が、物理的なエネルギーの波となって現実に干渉する現象。それが残響だ。
かく言う俺も、その残響使いの一人である。
俺の残響は『不協和音』。手で触れたあらゆる残響の波長を乱し、弱体化させるという、ただそれだけの地味で泥臭い力だ。派手な炎を出すわけでも、空を飛べるわけでもない。だからこそ、俺はこの力を隠し、誰にも知られずに生きていこうと決めていた。
「おーい奏! 今日の放課後、駅前のクレープ屋寄って帰ろうぜ!」
教室の後ろから、大きな声で俺を呼ぶ男。陽川拓海。
こいつは俺の親友で、良くも悪くも裏表が一切ない、太陽みたいな奴だ。残響なんていう裏の世界とは無縁の、俺が守りたい「普通の日常」の象徴でもある。
「お前、昨日もそれ言って結局ゲーセン行っただろ」
「今日はマジ! 俺の奢りだから!」
ガハハと笑いながら歩いてくる拓海。だが、よそ見をしていたそいつの足が、ふいに教室の隅の席に置かれていた「黒い傘」を思い切り蹴飛ばしてしまった。
カランッ、と乾いた音が教室に響く。
「あ、わりぃ!」
拓海が軽く謝りながら傘を拾い上げようとした瞬間――教室の空気が、急激に冷え込んだ。
「……触るな」
地を這うような低く冷たい声。その声の主は、同じクラスの霧雨弦だった。
霧雨はいつも一人で、晴れの日でも雨の日でも、狂ったようにその黒い傘を持ち歩いている少し変わった奴だ。だが、今の霧雨から立ち上っている気配は、ただの「少し変わった高校生」のそれではない。
背筋が凍るような、重く湿ったプレッシャー。間違いない、こいつから漏れ出ているのは『残響』の波長だ。
(マズい、このままじゃ拓海が巻き込まれる)
霧雨が拓海の腕を掴もうと手を伸ばした瞬間、俺は二人の間に割り込み、霧雨の肩をガシッと掴んだ。
「ごめんな霧雨。こいつ、マジで前見てなくてさ。傘、汚れてないから許してやってくれ」
俺は笑顔を作りながら、霧雨の肩を掴んだ手にほんの少しだけ『不協和音』を流し込んだ。ピーガァァッという不可視のノイズが、霧雨から漏れ出していた危うい波長を強制的に乱し、霧雨の残響を霧散させる。
霧雨は弾かれたように俺の手を振り払うと、鋭い三白眼で俺を睨みつけた。
「……お前」
何かを察した霧雨の瞳に、明確な敵意が宿る。しかし、俺がただ静かに見つめ返すと、霧雨は無言で黒い傘を拾い上げ、そのまま教室を出て行った。
「なんだあいつ、すっげぇ睨んでたな。俺が悪いんだけどさ」
頭を掻く拓海を見て、俺は小さく息を吐いた。とりあえず、その場は収まった。平穏な日常は守られたのだ。
……そう、思っていた。
その日の放課後。下駄箱を開けた俺は、思わず天を仰いだ。
上履きの上に、古風な筆文字で書かれた『果たし状』が置かれていたからだ。
「奏、どうした?」
「あ、いや。ちょっと野暮用ができた。クレープは明日な!」
不満そうな拓海を宥めすかし、俺は一人、果たし状に指定された場所へと向かった。
夕暮れ時。少しカビの匂いがする、人気のない薄暗い路地裏。
コンクリートの壁に囲まれたその閉鎖空間の奥で、霧雨弦は黒い傘をステッキのように地面に突き立てて待っていた。
「遅かったな。空色奏」
「律儀に果たし状なんて入れやがって。……そんなにあの傘が大事かよ」
「俺の過去を、俺の世界を、あの能天気な馬鹿が汚した。そしてお前は……俺の残響に、妙なノイズを混ぜたな」
霧雨が黒い傘をスッと横に構える。その瞬間、傘の表面に尋常ではない量の残響エネルギーが収束していくのが見えた。ただの布と骨組みでできた傘が、まるで鋼鉄の塊のような圧倒的な質量と硬度を放ち始める。
「俺の視界から消えろ、空色ッ!」
霧雨が地を蹴った。路地裏の空気を切り裂き、鋭い刺突となって黒い傘が俺の顔面へと迫る。あまりの速度に、避ける暇はない。
「っ……!」
俺は両手に『不協和音』の残響を全開にして纏わせ、迫り来る鋼の傘を素手で正面から受け止めた。
ギィィィンッ!!という金属が軋むような轟音が路地裏に響く。
「なっ……素手で俺の傘を!?」
驚愕に目を見開く霧雨。俺の手のひらから放たれる不協和音のノイズが、傘に込められた極限の硬度を無理やり弱体化させ、ギリギリのところで威力を削ぎ落としていた。
俺の平穏な日常に、お前らみたいな厄介な火種を持ち込ませるわけにはいかないんだよ!
「よそ見すんな!」
傘を受け止めた反動を利用し、俺は思い切り踏み込んで、右の拳を霧雨の頬に叩き込んだ。
「ガッ……!」
よろめく霧雨。しかし、こいつもただの能力頼みの素人じゃない。倒れ込みながらも体勢を立て直し、すぐさま傘を大上段から振り下ろしてくる。
そこからは泥沼の殴り合いだった。
霧雨の強化された傘の連撃を、俺は両手で必死に弱体化させながら捌き、隙を突いてカウンターの拳を叩き込む。俺の手は傘の衝撃で赤く腫れ上がり、霧雨も顔中にアザを作って息を切らしていた。
「なぜだ……! なぜお前は、それほどの力を持っていながら、あんな馬鹿の隣でヘラヘラ笑っていられる!」
霧雨が血を吐き捨てるように叫ぶ。
「俺の世界は、いつも雨が降っていた! この傘だけが、俺を雨から守ってくれる唯一の存在なんだよ!!」
霧雨の感情が爆発し、残響の波長が限界を超えて膨れ上がった。路地裏の空気がビリビリと震え、霧雨の黒い傘が異様なオーラを纏って軋み始める。
「お前のそのノイズごと、粉砕してやる……!」
霧雨が傘を頭上に掲げる。それは、自らの残響の器である傘そのものを破壊する代償として、莫大な破壊力を生み出す捨て身の必殺の一撃だった。
「すべてを壊せ……『崩傘・黒雨』!!」
黒い暴風のような一撃が、俺の頭上から叩き落とされる。路地裏のコンクリートの壁が、その余波だけでひび割れていく。
避ければ殺される。俺は逃げずに、両足でしっかりと地面を踏みしめた。
(俺の、拓海との平穏な日常を……壊させてたまるかよ!)
俺は全身の力を両手に込め、自分の中にある最大の『不協和音』を引きずり出した。
振り下ろされる必殺の傘を、俺は下から両手で挟み込むようにして受け止める。
――バチィィィィンッ!!!!
凄まじい衝撃波が吹き荒れた。俺の両手から放たれた極大の不協和音が、霧雨の生み出した途方もない破壊力の波長に食らいつき、噛み砕き、強引に相殺していく。
そして、俺の手のひらを通過した破壊力だけが完全に消失し――残響の反動の行き場を失った『傘』だけが、限界を迎えた。
メキッ……バキバキバキィッ!!
悲鳴のような音を立てて、霧雨の黒い傘が真っ二つにへし折れた。
布は破け、骨組みはひしゃげ、破壊力は霧散し、ただの壊れたゴミと化した傘が、路地裏の冷たい地面にカランッと転がった。
「…………え」
俺は無傷で立っていた。
霧雨は、地面に落ちた自分の傘の残骸を見つめ、膝から崩れ落ちた。
「俺の……傘が……俺を、守ってくれるものが……」
その声は、迷子になった子供のように震えていた。こいつにとって、あの傘は本当に過去の象徴であり、自分を守る世界そのものだったのだろう。
夕闇が迫る路地裏で、絶望に暮れる霧雨。
俺は小さくため息をつくと、腫れ上がった右手をポケットに突っ込み、もう片方の手を霧雨の目の前に差し出した。
「わりぃ、やり過ぎた。傘、ぶっ壊しちまったな」
霧雨が、信じられないものを見るような目で俺を見上げる。
「今から買いに行こうぜ。俺が弁償してやるよ。拓海も呼んで、ついでにクレープも奢ってやる」
俺は笑いかけた。
お前のちっぽけな傘が壊れたなら、俺たちの騒がしい日常に巻き込んでやる。
それが、俺流の『不協和音』だ。
唖然としていた霧雨は、やがて何かを諦めたように小さく息を吐き、俺の差し出した手を力強く握り返した。




