春の章 多生之縁 7
クリスさんが本来の姿になり剣たちの滞在している島に飛んでくる。
本来の姿とは剣こと不動明王の化身、黒い龍、俱利伽羅竜王だった。
登場人物紹介
在原 朝臣
旧姓は九条。現在は母方の姓を名乗っている。
悲運なのか不運なのか運命なのか、彼の血筋には代々運ばされている「恨」があった。
父は九条 忠。元統合幕僚長。10年前に謎の死を遂げている。
母は在原 高子。小笠原のとある島で療養中に行方不明になる。
大自在天に意識を支配されている。
王生 剣
王生家の中心人物。現在に目覚めた不動明王。普段は天然で抜けているふりをしているが、先見の明を持っており何事も卒なくこなす正に聖人君子。
職業は仏像学芸員。
各務 恵光
M.C.H.の館長。剣とは公私共に面識あり。
彼は現在に目覚めた恵光童子。剣に仕える立場の人物である。
直江 菱耶
大耶の実父(現在の剣の妻、愛の元夫)。警視総監。
何故か剣の良き理解者。
クリスさん
王生家で飼っている白毛のアイヌ犬。三世のお目付け役でもある。
ベアドッグ、セラピードッグ、レスキュードッグ、医療アラート犬。
正体は俱利伽羅竜王。
143年前は剣の愛馬として登場。
北緯27.〇〇〇…度、東経142.〇〇〇…
午前4時30分
間もなく小笠原諸島の地平線に太陽が昇る。
突然 上空から猛スピードでカツオドリのように何かが海へダイブする。
明らかにその物体はカツオドリより桁違いに大きく、周辺の海域には大きな寄せ波が発生する。
波は間断なく岸壁に激しく当たり、飛沫が高く上がる。
急変した海の様子に地元の漁港では漁師たちが出漁するか迷っていた。
「おい、急に波が高くなったぞ。今日は見合わせた方がいいんじゃないか?」
「珍しく風が冷たいな」
「おい、磁石岩の裏側がまた変色してるってよ」
「まじかよ。今日はやめとこうぜ」
島の東側にある奇岩、磁石岩の岩陰から姿は在原のままで意識を支配した大自在天が躊躇なく海に潜る。
海の中は地上と違い穏やかだった。
潜水中考える余裕すらある。
ここ数日やたらと人目が気になる。
本土から警察の者が上陸したとの噂を耳にした。
恐らく五大明王の誰かが私を追って島に来ているのだろう。だが、気配を消していてわからない。
それはお互い様か。
大自在天は水深30メートルまで潜り、迷うことなく突如口を開けた横穴に入っていく。
起伏があり熟練したダイバーでなければ通れない海中トンネルだ。
慎重にトンネルを抜けると透明度の高い洞窟湖に出た。視界が開け湖面にゆっくりと浮上する。
そこは不思議な洞窟だった。
人間のあばら骨のような洞窟の内部。
外の世界とは切り離された環境。
植物は枯死しており目視できる生物は見受けられない。
大自在天は陸に上がり防毒マスクを装着する。
──こういう時人間の体は不便だな。
大自在天の目の前には心臓のような深紅色の臓器の塊があばら骨のような奇岩に張り付いていた。
塊の中には不気味な人面…"恨"がうごめいていた。
阿鼻叫喚の光景。
辛苦の塊の中には狂ったように泣き叫ぶ者、そこから我先に逃げようと殴り合う者、誰と言わけでもなく睨みつける者。
そこにいたのは三毒を具象化した"恨"だった。
驚くことに その塊からは地中や岩に染み入るように血管が張り巡らされていた。
長い年月をかけて地球を優に一周できるほどの"恨"が地上に浸透していたのだ。
大自在天は表情一つ変えず、"恨"を見ていた。
変化なしか…。遥か昔より貯めこんだ“恨”。世に放つにはまだ何かが足りない。
功名利禄しか頭にない九条家の末裔、九条道隆、九条忠。二人分でもまだ満たされないとは…。
「おい、そこの二人あまり上に行くなよ。心房は壁が薄いんだぞ」
九条道隆と忠の"恨"か…。謀略家め。突き破って飛び出したら全てが水の泡だ。
「烏摩妃よ、私だ。姿を見せてくれ」
大自在天が湖面を見つめ呼びかける。
その時、水飛沫を上げて湖面から姿を見せたのは烏摩妃ではなく急浮上してきた黒い龍だった。
激しく飛び散る水飛沫で発生した煙幕の中から金色の眼をした黒い龍が姿を現す。
大自在天は夕立の中で立ち尽くしているように唖然としていた。
「何だ!?」
剣は宿の窓から薄明の空の下の外海を眺めていた。
「遂に見つけた。奴の棲家だ」
龍の眼で見たものは現在に目覚めた不動明王である剣にも見えていた。
白毛の北海道犬、クリスさんは現在での仮の姿で、真の姿は黒い龍。
それは不動明王の化身とされる俱利伽羅竜王だった。
倶利伽羅は洞窟内で体をくねらせながら全方位を探り始める。
──胎内樹型のような空間だな。恐らく太古の昔に噴火した時に形成されたんだろう。
あれは何だ?人間の心臓のように見えるが…相当デカいぞ。
中に見えるのは顔?人面痩?
午前4時40分
水平線から太陽の上辺が顔を出し始めた。
「日の出…時間が足りなかったか」
日の出と同時に剣は死角から殺気を感じた。
「!?」
洞窟内では霊体の烏摩妃が凍てつくような冷たい体で倶利伽羅を追い払おうと体当たりしていた。
烏摩妃の体が倶利伽羅目掛けて何度もぶつかっては地面に落下する。
一方、炎を身にまとい防御していた俱利伽羅は無傷だった。
「烏摩妃!」
大自在天は地面に叩きつけられた烏摩妃に駆け寄り抱き上げる。
手からすり抜ける冷たい気体。霊体は辛うじて人型を保っている。
「顔はどこだ?お前の美しい顔だよ。今すぐ元通りにしてやるからな」
必死に気体を掻き集め真言を唱える。
「オン・マケイシバラヤ・ソワカ、オン・マケイシバラヤ・ソワカ」
倶利伽羅は容赦なく口から火炎の弾を二人に向けて放つ。
大自在天は自分を盾にして烏摩妃を守る。
「憎い、憎い、憎いぞ!俱利伽羅いや不動明王!」
大自在天が咆哮をあげる。
窓際に立っている剣の顔に朝の光が当たる。
完全に日が昇ってしまった。
やはり北海道からここまで来るには限界があったか…。
「倶利伽羅、日の出だ。戻ってこい」
倶利伽羅の黒い体は白い霧となって瞬く間にどこかに消えた。
俱利伽羅竜王…不動明王が私を追って来たとはな…。降三世明王は温存か?
──王生家。家族の絆…か…。
「うっ…」
右目が疼く。意識は支配できても何故体は吸収できないんだ。
在原の悪足搔きか?
冷たい烏摩妃の手が大自在天の顔を優しく包む。
大自在天はその手を握り返す。
「家族の絆…家族愛…そうだ、私にはお前がいる…」
大自在天が突然 不敵な笑みを浮かべる。
「おい。九条 忠。こっちを見ろ!お前だよ!何故そこにいるか分かるか?息子の朝臣、妻の高子を愛したことがあったか?」
塊の中にいる九条 忠と思われる顔が大人しくなり大自在天を凝視する。
「病んでる妻を一度も看ることなく放っておいただろ?朝臣の将来の夢を聞いたことがあるか?」
九条は何も答えない。
「私は妻とこれから生まれる子を永遠に愛す」
烏摩妃の顔が元通りの美しい顔に成形される。
「紹介しよう。妻の烏摩妃だ」
──!?
九条が驚くのも無理はない。間違いなく烏摩妃の顔はかつての妻、高子だった。
息子である在原朝臣の顔をした大自在天と妻の高子の顔をした烏摩妃が目の前で抱擁する。
「あと少しだ。あと少しで長年ため込んだ"恨"を現在に放ち私が世の支配者となる」
大自在天は防毒マスクを外し烏摩妃の冷たい唇と濃厚な口づけを交わす。
「九条 忠よ。どうだ?もっと"恨"を増幅させろ!」
大自在天は見せつけるように烏摩妃の首筋から耳をねぶる。
そしてマスク無しで生存できる限界までお互いの唇を濡らし続けた。
塊の鼓動が急に激しくなり、血管が膨張する。
その時、脆い岩盤にひびが入り天井から小礫が落ちてきた。
早朝の防波堤には地元の釣り人がぽつぽつ竿を出していた。
紛れて恵光もここぞとばかりに遠投する。
「いやぁ見たこともない魚が釣れるんで楽しいですね」
「どっから来たんだい?」
「北海道です。ホッケとかヤナギノマイって知ってます?美味しんですよ」
「変わった名前の魚だなぁ」
ホッケを知らない!?同じ暖流でも対馬海流と黒潮では獲れる魚が違うのか…。
無性にホッケが食べたくなってきた。
「大変だー!また磁石岩の裏で鳥がいっぱい死んでるぞ!」
「また洞窟で硫化水素が発生したんじゃないか?」
「海水も変色してたしな」
港がやけに騒がしくなってきた。
地元では猛毒の硫化水素が発生しているという情報は常に共有しているようだ。
「あの…洞窟っていうのは?」
恵光が尋ねる。
「海底洞窟だよ」
「海底…洞窟?」
「神の回廊で地上とつながっている前人未踏の洞窟」
釣り人は竿先から目を外さず話を続ける。
「そんな神秘的な洞窟があるんですか?」
「人間いや、命あるものは近づけない場所だよ。回廊の水流は速いし、壁は凸凹でタンクがぶつかったりしたら命を落とす。たどり着いても恐らく硫化水素が貯まっているから呼吸できなくなって即死かもな」
「即死…」
地元の釣り人から身の毛がよだつような話を聞かされる。
「お兄さん、竿先が揺れてるよ」
「え?大物が来たかな?」
一匹の白い犬が剣たちがお世話になっている宿の前に座っていた。
剣が急いで出迎える。
「クリスさん。長旅ご苦労」
屈んで優しく耳の後ろを撫でる。
「疲れただろ?ご主人にメカジキの中落ちで朝のスープでも作ってもらおうか。採れたてトマトも美味しいぞ。そうだ!恵光が何か釣ってくるかも」
──ハイプレミアムよりこっちがいいかも。
「それまでどこにいる?流石に外じゃ可哀そうだよな…」
──流石に24時間外にいるのは無理です。
「そうだ。警察犬ということにしよう。早速、菱耶に力になってもらおう」
──明日の日の出時刻調べておいてくださいね。
「わかってるって」
時刻はまだ4時50分。
菱耶はまだ部屋で爆睡中。
読んでいただきありがとうございます。
ホッケ買わないと…。冷凍庫にあるのは鮭ばかり。あと湯煎して食べる魚料理…。
クリスさんは僅かな時間しか本来の姿になれない設定です。
なんか書いているとそうなってしまいました。
磁石岩……蛇紋岩で崩れやすく磁石のようにつきやすいという設定。




