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どうぞ潰し合ってくださいまし。わたくしはお茶を淹れております 〜負けても死にません。ただ、家がなくなるかもしれません〜  作者: 夜凪 蒼


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9/12

第8話 カップが足りません、鉢でどうぞ

生垣の切れ目から出てきた令嬢は、私の顔を見ても足を止めなかった。


 止めずにそのまま小屋の前まで来て、それから立ち止まる。


 両手はやはり空だった。昨日と同じで、指だけが小刻みに動いている。何かを握る形のまま、握るものがない手つきだ。


「……お茶を、いただけますか」


 声が掠れていた。ひと晩じゅう、どこかで座っていたに違いない。


「どうぞ」


 私は扉を大きく開けた。閉まらない扉なのだから、開けるという動作にほとんど意味はない。それでもそうしたかった。


「エロディです」


 それだけ言って、あとが続かなかった。しばらくしてから、思い出したように付け足す。


「……ペラン。男爵家の」


 昨日のことを誰も聞かなかった。オルタンス様ですら聞かなかったので、この人は本当は空気の読める人なんだと思う。


 エロディ様は言われるまま小屋の隅に座って、膝を抱えた。ドレスの裾が裂けている。爪のあいだに土が入っている。剣は持っていない。落としてきたのだろう。


「セシリア様。カップ、足りませんよ」


 リュシー様が遠慮がちに現実を突きつけてくる。


 カップは2つ。人は6人。


 算数の問題としては簡単だ。答えは「足りない」。


 私は積み上がった素焼きの鉢を見上げた。園丁小屋なので、鉢だけは無尽蔵にある。大きいのと小さいの。欠けたのと底に穴の開いたの。


「……底に穴」


「植木鉢ですものね」


 穴の開いていないものを選んで噴水まで運んだ。腕に4つ。重い。途中で誰かと出くわしたら、私にできるのは鉢を落とすことくらいだ。


 広場は開会の日よりずっと広く見えた。人がいないからだ。


 割れた鉢がそのままになっている。私が引き倒したレモンの木は、根が乾いて葉を丸めていた。花壇の縁は踏み荒らされて、白い石に細かい罅が入っている。誰も片づけない。片づける人はみんな硝子の外にいる。


 水面に、レースの切れ端が浮いていた。


 母のものだ。あの日に切って落として、それきり沈まなかったもの。まだ回っている。


 拾おうとして、手が止まる。水を吸って泥をかぶって、もうレースには見えない。拾って、どうする。


 水は冷たかった。指の先が赤くなるまで洗っても、土の匂いは抜けない。内側を撫でるとざらざらして、爪に細かい粉がつく。


 振り返ると、生垣の切れ目にリュシー様が立っていた。ついてきたらしい。


「私、見張りならできます」


「では、お願いします」


 この子は本当にうれしそうに頷いた。


 鉢を抱えて小屋へ戻る。素焼きが4つとカップが2つ。数はこれでちょうど足りた。


 缶を開けて、さじを4回。6人で回すのだから、一人ぶんは前より薄くなる。


 残りは21杯ぶん。人が増えると減りが速くなる。当たり前のことなのに、指を折ってみるまで気づかなかった。


「これで、飲みますの」


 ソフィ様の眉がこれまででいちばん高い位置まで上がっている。


「いやなら順番をお待ちください。4番目です」


「鉢をお借りしますわ」


「早い」


 注ぐ。鉢に。


 琥珀が素焼きに吸われて、縁のところで色が滲む。湯気だけはカップのときと同じ形に立ちのぼった。


「どうぞ」


 そして、なぜか。


 5人が揃って背筋を伸ばした。


 膝を閉じ、片手を膝に置いて、もう片方で鉢を持つ。音を立てずに口をつける。床は土間で、ドレスはみんな破れていて、髪には藁がついている。飲んでいるのは植木鉢だ。それでも動作だけは、王宮の茶会と寸分の狂いもない。


「……なんですか、これ」


「なんでしょうね」


「わたくし、子どもの頃からこれを仕込まれましたのよ」


 ソフィ様が鉢を持ち上げたまま言う。


「背筋を伸ばして、顎を引いて、音を立てずに。役に立つ日が来るとは思っておりませんでしたけれど」


「その仕込みで、いま植木鉢を持っていらっしゃいます」


 全員が笑った。エロディ様だけが、笑い遅れて、それから小さく肩を揺らした。


 笑い声は土壁に吸われて、すぐ終わる。誰も続けようとしない。続け方を忘れている。


「ねえ、優勝したら何がもらえるんだっけ」


 オルタンス様が鉢の縁を舐めながら聞く。行儀の悪さがこの人だけ突出している。


「王太后陛下のお茶です」


「それ、ここで毎日もらってるやつ」


「飲み放題ではありません。あと21杯です」


「21杯!?」


 オルタンス様が鉢を取り落としかけて、両手で抱え直した。素焼きが膝の上で鈍く鳴る。


 私は缶を振ってみせた。中の葉が片側へ寄って、乾いた音が短く途切れる。振るたびに軽くなる。実際に減った量とは関係がない。


「じゃあ、なくなったらどうするの」


「葉っぱを煮ます。レモンの葉が、外に生えていますので」


「まずそう」


「まずいと思います」


 昼のあいだ、小屋の中には奇妙な分業ができあがっていた。


 ソフィ様は扉のそばで剣を磨いている。誰も来ないので、意味もなく磨いている。オルタンス様は外から戻るたびに何かしら持ってくる。誰がどこにいて、誰が誰を探しているか。マルグリット様は鉢を並べ替えていて、並べ替えるたびに座りやすくなるので、これがいちばん役に立っている。リュシー様は火の入らないランプの前で、今日も正座していた。


 誰も頼んでいない。誰も命じていない。それぞれが勝手に、自分にできることを見つけてやっている。


 私はそれを眺めながら、湯の音を聞いていた。


 マルグリット様が鉢を置いて、私の顔をじっと見た。


「あなた、本気で最後までここにいるつもりなんですね」


「帰るためにいます」


「同じことでしょう」


「違います。ここにいるのは、帰り方がわからないからです」


 言ってしまってから、少し後悔した。この場でいちばん言ってはいけないことのような気がする。


 でも誰も何も言わなかった。マルグリット様は鉢を持ち直して、残りを飲み干した。


 夜。


 物音で目が覚めた。


 布の擦れる音だ。誰かが荷物をまとめている。暗がりの中で、輪郭がひとつだけ動いていた。


「エロディ様」


 動きが止まる。


「……起こしてしまいましたか」


「どちらへ」


「東の門です」


「棄権すると、家名を」


「知っています」


 私は身を起こした。膝が藁を押して、音が立つ。誰かが寝返りを打った。


 土間の冷えが膝から上がってくる。この時間になると、いつも足の指から感覚がなくなる。


「昨日のことでしたら」


「違います」


 暗いのに、目のところだけがはっきり見えた。まっすぐこちらへ向いている。


「ここ、いい場所ですね」


「はい」


「いい場所すぎて、怖いんです」


 言葉の意味がすぐには飲み込めなかった。


 いい場所すぎて、怖い。褒められているのに、置いていかれる音がする。


「ここにいると、明日も生きていられる気がしてしまうんです。そう思ったら、私、また誰かと組みます。組んだら、たぶん同じことになります」


 昨日、両手に何も持たずに立っていた人の指が、いまも同じ形に曲がっている。


「私、先に手を出したほうですから」


 小屋の中が静かだった。誰も寝ていない。それでも誰も何も言わない。


「止めないんですね」


 私はランプに手を伸ばして、また下ろした。いま火を入れる理由が思いつかない。


 止めたい。喉のところまで来ている。


「止めたら、あなたはここに残ります」


 暗がりで、荷物の紐がきゅっと鳴った。


 結び直している。何度も。


「ここにいたら、あなたはまた同じことをすると、ご自分で思っていらっしゃる」


「……はい」


「では、止められません」


 言ってから、喉の奥が焼けた。正しいことを言ったつもりはない。私はこの人を引き止める言葉を、ひとつも持っていなかっただけだ。


 エロディ様は荷物を抱えて、扉に手をかけた。閂は折れているから、押せば開く。


「あの、セシリア様」


 振り返らないままだった。


「お茶、おいしかったです」


「……植木鉢でしたけど」


「植木鉢でしたね」


 彼女は少しだけ笑って、出ていった。


 私は追わなかった。


 鐘楼の竿に、旗が1本上がった。22本。残りは10人。


 誰も口をきかない。藁の擦れる音だけがときどきする。


 私はランプに火を入れて、湯を沸かしはじめた。誰も頼んでいないのに、手が勝手に動いている。


 湯が沸くまで6分。


 その6分のあいだ、小屋の中では誰ひとり喋らなかった。沸いた湯を、私はどこにも注がなかった。


 夜が明けきる前に、生垣の外で足音がした。


 令嬢の足音ではない。革の靴だ。何人かいる。


 朝いちばんの光を受けて、典礼省の記章がひとつ、生垣の隙間で光った。

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