第8話 カップが足りません、鉢でどうぞ
生垣の切れ目から出てきた令嬢は、私の顔を見ても足を止めなかった。
止めずにそのまま小屋の前まで来て、それから立ち止まる。
両手はやはり空だった。昨日と同じで、指だけが小刻みに動いている。何かを握る形のまま、握るものがない手つきだ。
「……お茶を、いただけますか」
声が掠れていた。ひと晩じゅう、どこかで座っていたに違いない。
「どうぞ」
私は扉を大きく開けた。閉まらない扉なのだから、開けるという動作にほとんど意味はない。それでもそうしたかった。
「エロディです」
それだけ言って、あとが続かなかった。しばらくしてから、思い出したように付け足す。
「……ペラン。男爵家の」
昨日のことを誰も聞かなかった。オルタンス様ですら聞かなかったので、この人は本当は空気の読める人なんだと思う。
エロディ様は言われるまま小屋の隅に座って、膝を抱えた。ドレスの裾が裂けている。爪のあいだに土が入っている。剣は持っていない。落としてきたのだろう。
「セシリア様。カップ、足りませんよ」
リュシー様が遠慮がちに現実を突きつけてくる。
カップは2つ。人は6人。
算数の問題としては簡単だ。答えは「足りない」。
私は積み上がった素焼きの鉢を見上げた。園丁小屋なので、鉢だけは無尽蔵にある。大きいのと小さいの。欠けたのと底に穴の開いたの。
「……底に穴」
「植木鉢ですものね」
穴の開いていないものを選んで噴水まで運んだ。腕に4つ。重い。途中で誰かと出くわしたら、私にできるのは鉢を落とすことくらいだ。
広場は開会の日よりずっと広く見えた。人がいないからだ。
割れた鉢がそのままになっている。私が引き倒したレモンの木は、根が乾いて葉を丸めていた。花壇の縁は踏み荒らされて、白い石に細かい罅が入っている。誰も片づけない。片づける人はみんな硝子の外にいる。
水面に、レースの切れ端が浮いていた。
母のものだ。あの日に切って落として、それきり沈まなかったもの。まだ回っている。
拾おうとして、手が止まる。水を吸って泥をかぶって、もうレースには見えない。拾って、どうする。
水は冷たかった。指の先が赤くなるまで洗っても、土の匂いは抜けない。内側を撫でるとざらざらして、爪に細かい粉がつく。
振り返ると、生垣の切れ目にリュシー様が立っていた。ついてきたらしい。
「私、見張りならできます」
「では、お願いします」
この子は本当にうれしそうに頷いた。
鉢を抱えて小屋へ戻る。素焼きが4つとカップが2つ。数はこれでちょうど足りた。
缶を開けて、さじを4回。6人で回すのだから、一人ぶんは前より薄くなる。
残りは21杯ぶん。人が増えると減りが速くなる。当たり前のことなのに、指を折ってみるまで気づかなかった。
「これで、飲みますの」
ソフィ様の眉がこれまででいちばん高い位置まで上がっている。
「いやなら順番をお待ちください。4番目です」
「鉢をお借りしますわ」
「早い」
注ぐ。鉢に。
琥珀が素焼きに吸われて、縁のところで色が滲む。湯気だけはカップのときと同じ形に立ちのぼった。
「どうぞ」
そして、なぜか。
5人が揃って背筋を伸ばした。
膝を閉じ、片手を膝に置いて、もう片方で鉢を持つ。音を立てずに口をつける。床は土間で、ドレスはみんな破れていて、髪には藁がついている。飲んでいるのは植木鉢だ。それでも動作だけは、王宮の茶会と寸分の狂いもない。
「……なんですか、これ」
「なんでしょうね」
「わたくし、子どもの頃からこれを仕込まれましたのよ」
ソフィ様が鉢を持ち上げたまま言う。
「背筋を伸ばして、顎を引いて、音を立てずに。役に立つ日が来るとは思っておりませんでしたけれど」
「その仕込みで、いま植木鉢を持っていらっしゃいます」
全員が笑った。エロディ様だけが、笑い遅れて、それから小さく肩を揺らした。
笑い声は土壁に吸われて、すぐ終わる。誰も続けようとしない。続け方を忘れている。
「ねえ、優勝したら何がもらえるんだっけ」
オルタンス様が鉢の縁を舐めながら聞く。行儀の悪さがこの人だけ突出している。
「王太后陛下のお茶です」
「それ、ここで毎日もらってるやつ」
「飲み放題ではありません。あと21杯です」
「21杯!?」
オルタンス様が鉢を取り落としかけて、両手で抱え直した。素焼きが膝の上で鈍く鳴る。
私は缶を振ってみせた。中の葉が片側へ寄って、乾いた音が短く途切れる。振るたびに軽くなる。実際に減った量とは関係がない。
「じゃあ、なくなったらどうするの」
「葉っぱを煮ます。レモンの葉が、外に生えていますので」
「まずそう」
「まずいと思います」
昼のあいだ、小屋の中には奇妙な分業ができあがっていた。
ソフィ様は扉のそばで剣を磨いている。誰も来ないので、意味もなく磨いている。オルタンス様は外から戻るたびに何かしら持ってくる。誰がどこにいて、誰が誰を探しているか。マルグリット様は鉢を並べ替えていて、並べ替えるたびに座りやすくなるので、これがいちばん役に立っている。リュシー様は火の入らないランプの前で、今日も正座していた。
誰も頼んでいない。誰も命じていない。それぞれが勝手に、自分にできることを見つけてやっている。
私はそれを眺めながら、湯の音を聞いていた。
マルグリット様が鉢を置いて、私の顔をじっと見た。
「あなた、本気で最後までここにいるつもりなんですね」
「帰るためにいます」
「同じことでしょう」
「違います。ここにいるのは、帰り方がわからないからです」
言ってしまってから、少し後悔した。この場でいちばん言ってはいけないことのような気がする。
でも誰も何も言わなかった。マルグリット様は鉢を持ち直して、残りを飲み干した。
夜。
物音で目が覚めた。
布の擦れる音だ。誰かが荷物をまとめている。暗がりの中で、輪郭がひとつだけ動いていた。
「エロディ様」
動きが止まる。
「……起こしてしまいましたか」
「どちらへ」
「東の門です」
「棄権すると、家名を」
「知っています」
私は身を起こした。膝が藁を押して、音が立つ。誰かが寝返りを打った。
土間の冷えが膝から上がってくる。この時間になると、いつも足の指から感覚がなくなる。
「昨日のことでしたら」
「違います」
暗いのに、目のところだけがはっきり見えた。まっすぐこちらへ向いている。
「ここ、いい場所ですね」
「はい」
「いい場所すぎて、怖いんです」
言葉の意味がすぐには飲み込めなかった。
いい場所すぎて、怖い。褒められているのに、置いていかれる音がする。
「ここにいると、明日も生きていられる気がしてしまうんです。そう思ったら、私、また誰かと組みます。組んだら、たぶん同じことになります」
昨日、両手に何も持たずに立っていた人の指が、いまも同じ形に曲がっている。
「私、先に手を出したほうですから」
小屋の中が静かだった。誰も寝ていない。それでも誰も何も言わない。
「止めないんですね」
私はランプに手を伸ばして、また下ろした。いま火を入れる理由が思いつかない。
止めたい。喉のところまで来ている。
「止めたら、あなたはここに残ります」
暗がりで、荷物の紐がきゅっと鳴った。
結び直している。何度も。
「ここにいたら、あなたはまた同じことをすると、ご自分で思っていらっしゃる」
「……はい」
「では、止められません」
言ってから、喉の奥が焼けた。正しいことを言ったつもりはない。私はこの人を引き止める言葉を、ひとつも持っていなかっただけだ。
エロディ様は荷物を抱えて、扉に手をかけた。閂は折れているから、押せば開く。
「あの、セシリア様」
振り返らないままだった。
「お茶、おいしかったです」
「……植木鉢でしたけど」
「植木鉢でしたね」
彼女は少しだけ笑って、出ていった。
私は追わなかった。
鐘楼の竿に、旗が1本上がった。22本。残りは10人。
誰も口をきかない。藁の擦れる音だけがときどきする。
私はランプに火を入れて、湯を沸かしはじめた。誰も頼んでいないのに、手が勝手に動いている。
湯が沸くまで6分。
その6分のあいだ、小屋の中では誰ひとり喋らなかった。沸いた湯を、私はどこにも注がなかった。
夜が明けきる前に、生垣の外で足音がした。
令嬢の足音ではない。革の靴だ。何人かいる。
朝いちばんの光を受けて、典礼省の記章がひとつ、生垣の隙間で光った。




