第7話 背中を預けるという距離
「行くしかないのよ」
小柄な令嬢はもう一度そう言った。私にではなく、外の椅子に向かって。
その目は天蓋席のいちばん端に据わっている。そこには何もない。誰も座っていない椅子が朝から日を浴びて、影だけを長く伸ばしていた。
「合図が来る子は、行くしかないの。行かなかったら、帰ったあとが地獄だもの」
「あなたには、来ないんですか」
彼女がやっとこちらを見た。前髪を短く切りそろえていて、目のあたりに勝ち気さが残っている。ただし瞼が腫れていた。
泣いたあとを隠していない。隠す相手が、この庭にはいない。
「マルグリット・カレル。16歳。子爵家です」
「セシリア・ヴァルモントです」
「知ってます。180倍の方でしょう」
「55倍になりました」
「上がったんですか」
「下がったんです」
彼女はふん、と鼻を鳴らして、また外を見た。
「うち、誰も来てないの。父も、母も、兄も。開会の日から一度も」
空いた椅子の影が、さっきより少し短くなっていた。
「見られていないと、いないのと同じですわ。ここで倒れても、誰も知らないんですもの」
その言い方に、私はうまく返せなかった。慰めの言葉はいくつも浮かんだけれど、どれもこの人の欲しがっているものではない気がする。
だから、別のことを言った。
「お茶を淹れますけど、飲みます?」
「なんですか、それ」
「見ている人がいるところで飲めます。少なくとも4人は」
マルグリット様は、しばらく黙っていた。
「……お砂糖は?」
「ありません」
「ひどい茶会」
言いながら、彼女はもうこちらへ歩き出していた。
小屋に戻ると、オルタンス様が「増えた!」と叫び、ソフィ様が「またですの」と天を仰いだ。リュシー様だけが黙って鉢を積み直して、座る場所を作っている。
5人になった小屋は目に見えて狭い。
積んだ鉢を崩して座る場所を作ると、今度は足の踏み場がなくなる。誰かが寝返りを打てば誰かの背中に当たる。藁の匂いに人の匂いが混ざって、湯気がその上から降りてくる。
悪くない、と思っている自分がいる。殴り合いの真ん中で、外では今も誰かが倒れているのに。
缶を開けて、4人ぶん。カップは2つのまま。
残りは25杯ぶん。数え方がそろそろ嫌になってきた。
夕方、生垣の向こうで声が3つ、重なって聞こえた。
言い争いだ。中身までは聞き取れない。約束、という単語だけが二度、高いところで跳ねた。
それから短い悲鳴がひとつ。少し間が空いて、もうひとつ。
悲鳴の数だけ白が増える。21本。残りは11人。
水を汲む口実で、私は生垣の切れ目まで行った。
覗くと、令嬢が一人、立っていた。
両手に何も持っていない。剣は足元に落ちている。彼女は倒れた二人を見下ろして、それから天井の硝子を見上げて、また足元へ目を戻した。同じことを何度も繰り返している。
組んでいたのだと思う。3人で。ここまで来るあいだ、背中を預け合って水を分けて、たぶん名前で呼び合っていた。
最後にどちらが先に手を出したのかは私にはわからない。わからないままでいい。
声をかけようとして、やめた。
いま話しかけたら、この人は自分のしたことを言葉にしてしまう。言葉にしたら、たぶん戻れない。
私は水差しを抱えて、その場を離れた。
夜になった。
扉の外で足音が止まる。
閂は折れているのだから、押せば開く。押されない。代わりに板の向こうで衣擦れがして、それから何かが背中を預ける音がした。
「入らない」
「なぜ」
「中に5人いる」
「数えたんですか」
「匂いでわかる」
匂いで人数を数える人がいる。剣より、そちらのほうがよほど怖い。
中を振り返ると、4人が息を止めて固まっている。オルタンス様まで黙っているので、事態はそれなりに深刻らしい。
「お茶を淹れましょうか」
「いらない」
「もう沸いているんですけど」
「なら、そこに置いておけ」
板一枚を挟んで私も床に座った。背中を扉につける。あちら側の重みが、木を通してかすかに伝わってくる。
夜の硝子宮は思っていたより音が多い。葉が擦れて、どこかで水が落ちて、遠くで誰かが咳をする。天井の硝子に星は見えない。曇っているのか、明かりのせいなのか。
背中の板はあちら側の体温をひとかけらも通してこなかった。木は厚い。硝子も厚かった。私は今日、二度も壁越しに人と話している。
「今日、東で3人落ちた」
「二人です」
「1人はまだ立っているだけだ。数には入る」
「厳しいですね」
「事実だ」
葉ずれの音がする。夜の生垣は昼より騒がしい。
噴水の音も夜のほうが大きい。昼は誰かの足音に紛れている。
「アデライド様は」
「なんだ」
「どうして、勝ちたいんですか」
板の向こうで、しばらく音がしなかった。
節穴から入る空気が、私の首の後ろだけを冷たくしている。板一枚向こうには届いていない。
「うちは典礼省と揉めている」
典礼省。東の門の机に座っていた男の、襟の記章が浮かぶ。
「領地の割り振りの話だ。父が反対している。反対しているのは、うちだけだ」
「それと剣に、何の関係が」
「私が勝てば、うちの言うことに重みがつく。負ければ、つかない」
「そんな理由で剣を振るんですか」
「理由はいらない。振れるから振る」
「では、勝てなかったら」
「家ごと消える」
あっさり言った。剣の手入れの話をするときと同じ調子で。
私は膝を抱えた。土間の冷たさが布越しに這い上がってくる。
「私の母は」
「聞いていない」
「伺ったぶんは、お返しします」
板の向こうで鼻で笑う音がした。
「母は、この茶会の話を聞くたびに笑っていたそうです。馬鹿げている、と」
「賢い方だ」
賢い方だった、と言い直すのが正しい。私が生まれてすぐに亡くなったので、顔は知らない。知っているのは、父がその言葉を口にしたときの、間の置き方だけだ。
板の向こうで、剣の柄が鞘に当たった。膝を組み替えたのだ。
「父は、勝たなくていいから帰ってこいと言いました」
「甘いな」
私は認めた。認めたうえで、あの言い方はずるいと思っている。勝たなくていい、と言われたら、勝てない人間は逃げ道を全部ふさがれる。
「お前は、それを守れると思っているのか」
「いいえ」
「なら、なぜ湯を沸かす」
「他にできることがないので」
沈黙が落ちた。それから、板がわずかに軋む。体重のかけ方が変わったらしい。
「……答えとしては、悪くない」
私は立ち上がって、昼に沸かしたぶんを火にかけ直した。新しく茶葉は使わない。使えない。ぬるくなったものを温め直すと、香りだけが先に飛んで、色ばかりが濃くなる。
それをカップに注いだ。
扉の隙間は拳ひとつぶんくらい開いている。そこへ静かに差し入れて、外の床板に置いた。
「置きました」
「頼んでいない」
「飲めとも言われておりません」
「賢いな」
「12年、そればかりやってまいりましたので」
笑い声がひとつだけ聞こえた気がした。たぶん気のせいだ。板の向こうにいる人は、そういう音の出る作りになっていない。
しばらくして足音が遠ざかり、板から重みが消えた。背中が急に軽くなって、私は前へ倒れそうになる。人が寄りかかっていたぶんの重さを、体のほうが覚えていたらしい。
朝、扉を開けた。
カップは置いた場所にそのままあった。
中身は減っていない。表面に埃が一粒だけ浮いて、縁のあたりに夜の冷たさが溜まっている。指をつけると、芯まで冷えきっていた。
カップを持ち上げると、底に沈んだ茶葉がゆっくり動いた。誰にも飲まれなかった紅茶は、色のついた水でしかない。私はそれを外の土へこぼした。土が黒くなって、すぐに乾く。
外の砂利には人が座っていた跡が残っている。
それを見下ろしていたら、生垣の向こうから足音がした。
昨日、両手に何も持たずに立っていた令嬢が、こちらへ歩いてくる。




