第6話 硝子の向こうは涼しいらしい
存じておりますわ。
あの一言を、私は一晩かけて噛んでいた。
朝になってもまだ噛んでいる。怒っているのかと聞かれたら、たぶん怒っている。でも矛先がうまく定まらない。あの子は嘘をついていない。聞かれなかったから答えなかっただけで、それは社交界ではむしろ礼儀に近い。
礼儀に殴られる日が来るとは思わなかった。
「セシリア様、お湯が」
「ありがとうございます」
リュシー様が火の入っていないランプの前で正座している。この子は本当に火を扱えないので、朝の点火はいつも私だ。それでも毎朝そこに座っている。
「ねえ、今日こそ鉢で飲ませてよ」
「まだカップが足りています」
「順番が長いんだもの」
「オルタンス様、さっき先に召し上がりましたよね」
「あれは味見。毒が入っていないか確かめてあげたの」
「入れる余裕がありません」
缶を開けて、今日も3人ぶん。カップは2つを順番に回す。
残りは29杯ぶん。1日に3杯ずつ使えば、あと10日ほど。10日で終わるとは、この小屋の誰も思っていない。
「今日はどちらへ」
ソフィ様が剣を磨きながら聞いてくる。毎朝磨く。使っていないのに磨く。
「水を汲んできます」
「またお一人で?」
「ご一緒してくださいます?」
「行きませんわ」
「では一人です」
「……そういうところが腹立たしいんですのよ」
「なんで腹が立つの?」
オルタンス様が本気で不思議そうな顔をした。
鉢の縁に腰かけて、踵で土をとんとん打っている。話の中身より、朝の退屈のほうが重そうだった。
「この方、助けてほしいと一度もおっしゃいませんの。言われたら断れますでしょう。言われないと、こちらが勝手に気にするしかありませんのよ」
「わたしは気にしてないけどな」
「あなたはそういう方ですものね」
「褒めた?」
「褒めておりません」
「セシリア様。あの、水汲みなら、私にもできます」
リュシー様が包帯の腕を隠すように後ろへ回した。
布はまだ白い。血が滲まなくなったぶん、この子は腕の置き場に困っている。
「腕が治ってからにしましょう」
「それでは間に合いません」
声が少しだけ硬い。
「役に立たないと、置いていただけないので」
「そういう決まりは、ここにはありませんよ」
「じゃあ、なんですか」
「湯を沸かしているだけの小屋です」
水差しを提げて、私は迷路へ入った。
朝の生垣はいちばん暗い。日が真上に来るまで、葉の底には夜の残りが溜まっている。足の裏で砂利が鳴らないように踵から置いて歩く。
その途中で走る足音がした。
追われている。私は葉の壁に背中を押しつけて息を止めた。足音が近づいて、行き止まりの手前で速度を落とさないまま、曲がる。
鈍い音がした。
覗きにいくと、そこは私の知らない道だった。生垣が途切れて、地面に丸い口が開いている。古い井戸だ。木の蓋が半分ずれて載っていて、その縁に令嬢が上半身をかけたまま動かない。
暗がりで足元が見えなかったのだろう。落ちきらなかったのは運がいい。
駆け寄って腕を引くと、今度はちゃんと動いた。重くない。水を吸っていないからだ。
引きずり上げて、頬を軽く叩く。息はしている。額が切れて、血が眉のところに溜まっていた。
「聞こえますか」
返事はない。
担架の足音はいつも早い。役人たちが来て、私を押しのけて、彼女を運んでいく。私は水差しを抱えたまま、そこに立っていた。手のひらに、まだ人の腕の重さが残っている。
竿のほうは見なかった。見なくても1本増えたことはわかるし、わかったところで手のひらの重さは減らない。
水を汲んで小屋へ戻る道で、私は途中から違う方向へ歩いていた。
硝子壁ぎわ。宮の南側。
自分でもよくわからない。外が見たかったのかもしれない。外の、誰も倒れていないほうの世界が。
壁は厚い。手を当てても思ったほど冷たくなかった。日を浴びているぶん、むしろぬるい。
向こうには芝生が広がっている。天蓋つきの椅子が並んで、日傘が咲いて、細い脚の卓に葡萄酒の瓶が冷やしてある。膝に双眼鏡を載せた紳士が、隣の紳士に何か言って、二人で笑った。
声は聞こえない。
こちらの音もたぶん向こうへは届かない。硝子は厚くて、私たちは水槽の中にいる。餌をやられていない魚だ。
その端に、立っている人がいた。
座席ではない。日陰にもならない、いちばん端の場所。侍女のお仕着せのまま、両手を前で組んで、こちらをまっすぐ見ている。
ハンナ。
私は走った。走って、硝子に手をついた。
「ハンナ」
届かないとわかっている。わかっていても口が動く。
「ハンナ!」
彼女は一度だけ頷いた。
それから懐から紙を出して、硝子に押しつける。
文字は大きく、太く、あの几帳面な字で書かれていた。
『かえって』
がんばれ、ではない。
喉の奥が塞がった。私は硝子に額をつけて、しばらく動けなくなった。ぬるい硝子が額の熱をゆっくり吸っていく。頬を伝ったものが顎の先まで来て、落ちる。
顔を上げると、ハンナが真顔で首を振っていた。泣くな、という意味だと思う。
私は指で、硝子に文字を書く真似をした。
「かえる」
伝わったかどうかはわからない。ハンナは瞬きを一度して、それから紙を裏返し、また貼りつけた。
『お茶をご用意しておきます』
お茶。この状況で、お茶。
私はもう一度、硝子に指を当てた。書いたのは数字だった。5と5。私の単勝はそこまで下がっている。
ハンナが紙の隅に何か書き足して、また押しつける。
『それでもわたくしは、アデライド様に賭けたままでございます』
薄情な侍女だ。薄情な侍女が日陰にもならない場所に、朝からずっと立っている。
硝子の内側を誰かが歩いてきた。
小柄な令嬢だ。私と同じように壁へ近づいて、外を探している。すぐに見つけたらしい。顔が明るくなった。
つられて、私もそちらを見る。
天蓋席の前列で、恰幅のいい紳士が立ち上がっていた。彼は娘に向かって手を上げ、それから――指を差した。
指の先は生垣のほうを向いている。
令嬢が首を傾げた。紳士がもう一度、同じ方向を差す。今度は腕ごとはっきりと。
彼女の顔から明るさが引いていく。
「……お父様」
声は届かない。硝子は厚い。
紳士が親指を立てた。行け、という意味の合図だ。市場の人足が使う仕草を、この人は自分の娘に向けている。
令嬢が振り返って、生垣を見た。手にしているのは短い棍が1本きり。持ち方が振り方を知らない持ち方だった。
行った先に何がいるかを私は知っている。さっき水を汲んで戻るとき、生垣の入口に扇の令嬢が立っていた。私の首の高さを、あの日水平に切っていった人だ。
「待って」
言葉が音になったのかどうかも怪しい。
彼女は振り向かなかった。ドレスの裾を持ち上げて、走り出す。走り方は素人の走り方だった。それでもまっすぐだった。
短い音がひとつして、それきり静かになる。
鐘楼の竿で旗が1本。19本。残りは13人。
私はまだ硝子に手をついたままだった。手のひらが白く潰れている。ここから3歩も動けなかった。
天蓋席の紳士はもう座って葡萄酒を飲んでいる。
「あの子、行かなくてもよかったのに」
声に出したつもりはなかった。
「行くしかないのよ」
背後で誰かが言った。
振り返る。
生垣の切れ目に、小柄な令嬢が立っていた。腕を組んで外を見ている。私ではなく、外を。
その視線の先には誰も立っていない。空いた椅子が並んでいるだけだった。




