第5話 東の門には、机がある
辞退の書類って、どこに出すんでしょうね。
あの言い方が耳の裏に貼りついて剥がれない。
朝いちばんに、私は水差しと、何の役にも立たない剪定鋏を持って立ち上がった。
「どちらへ」
ソフィ様が剣を膝から下ろす。
「東の門を見てきます」
「正気ですの」
「たぶん」
「あの、私も」
リュシー様が腰を浮かせかけて、包帯の腕を押さえて座り直した。
「留守番をお願いします。藁を踏まないでいてくださるだけで助かります」
「それならできます!」
できることの水準が低い者どうしだと話が早い。
硝子宮の東側へは、まだ一度も足を向けていなかった。生垣を抜けると、レモンとオレンジの鉢植えが等間隔に並ぶ道へ出る。実がなっていた。誰も採らない。
葉のあいだから、白い建物の輪郭が見えてくる。門というより、小さな四阿みたいな造りだ。
その手前で私は足を止めた。
生垣の角で、飾りのない黒が動いた。
剣は鞘に入ったままだった。彼女の前で、令嬢が一人、両手を上げたまま後ずさっている。
アデライド様が一歩踏み出す。
膝が折れた。
悲鳴はない。刃も鳴らない。相手は手に提げていた棍を落としもせず、その場に座り込んで、それきり動かなくなった。降参の仕方すら忘れた顔をしている。
剣は最後まで抜かれなかった。
私は葉の陰で息を止めていた。打たれるより、こちらのほうが怖い。斬られたのなら痛みで済む。あの人がしたのは、相手に無理だと教えることだ。教えられた側はそのぶん立ち上がる理由まで持っていかれる。
こちらを向いた気がして身を縮めたけれど、向いていなかった。アデライド様は倒れた令嬢を一瞥もせずに歩き出し、生垣の向こうへ消えていく。
17本。残りは15人。
門の下には机があった。
机だ。事務机。天板に書類の束が積まれ、インク壺が置かれ、羽根ペンが2本立ててある。その向こうに典礼省の記章をつけた役人が座って、何かを書きつけている。ここが庭でなければ、王都の役所の窓口とまったく同じ光景だった。
さっきの令嬢が担架で運ばれてきた。
役人は立ち上がりもしない。彼女を椅子に座らせると、書類を一枚、机の上で滑らせた。
「こちらにご署名を」
彼女の目の焦点が合っていない。座らされた姿勢のまま、上半身がゆっくり傾いていく。
「あの、これは」
「所定の手続きでございます」
「読ませて、いただけますか」
「もちろんです。お時間の許すかぎり」
時間ならいくらでもあるはずだ。でも彼女の手はもうペンを握っていて、握った手のままでは紙をめくれない。頭の働かない人に紙とペンを差し出すというのは、つまり、そういうことだ。
私は表題を読んだ。
『家名返上に関する同意書』
足が勝手に前へ出た。
「待ってください」
役人が顔を上げる。柔らかい笑みだった。
「参加者の方は、書類にお触れになれません」
「触っていません。声をかけただけです」
「お声も、手続きの妨げにあたります」
「その方、いま読めていません」
「では、読み上げましょうか」
彼は書類を持ち上げて、抑揚のない声で読みはじめた。長い。単語が全部同じ大きさで並んでいて、耳に入った端から流れ落ちていく。半分まで来たところで、彼女がペンを紙につけた。
早く終わらせたかったのだと思う。
署名が済むと、役人は書類を束にしまい、担架の男たちへ合図を送った。門が開く。外の光は白くて、そこだけ空気の色が違って見えた。
彼女は振り返らなかった。
開いた門の向こうを、私は伸び上がって覗いた。白い天幕がひとつ。馬車の轍。それだけだ。迎えの列も家の紋章をつけた御者もいない。運ばれていった人は、あそこからどうやって帰るんだろう。
「あの、伺ってもよろしいですか」
「ご辞退のご希望ですか」
「違います。棄権すると、家名を返上することになるんですか」
「そのように定められております」
「規約のどこにも、そんな条文はありませんでした」
役人の笑みがほんの少しだけ広がる。
インク壺の縁に、乾いた黒が層になってこびりついていた。何年ぶんだろう。
「よくお読みですね」
「はい」
「追補がございます」
「規約は必要に応じて改められるものですから」
どなたが改めるんですか、と聞く前に、彼はもう次の書類へ目を落としていた。
帰り道、レモンの木の陰から声がした。
「見ちゃったでしょ」
跳び上がった。
鉢植えのあいだに、蜂蜜色の髪の令嬢がしゃがんでいる。ドレスの膝が土だらけなのを気にもしていない。にっと笑うと八重歯が見えた。
「オルタンス・ベルニエ。19歳。伯爵家の次女で、体術は良、あとは全部可」
「……自己紹介が速いですね」
「時間が惜しいでしょ。こんなところだと」
彼女は立ち上がって、ドレスの土を叩き落とした。武具らしいものは何も提げていない。
「あなた、噂の紅茶の人よね。ねえ、あそこ、まだ入れる?」
「どうぞ、と申し上げたいところですが」
「けど?」
「カップが足りません」
「わたし、順番待ちは得意よ」
返事に迷いがない。
オルタンス様は歩きながらずっと喋っていた。どの生垣が歩きやすいか。どの水がぬるいか。誰と誰が組んでいて、どちらが先に裏切りそうか。
情報の量が明らかに多い。
「よくご存じですね」
「暇なのよ。じっとしているのが嫌いなの」
笑った顔から、一瞬だけ温度が抜けた。抜けて、すぐ戻る。見間違いかもしれない。
小屋に着くと、リュシー様が飛び出してきて、オルタンス様を見て固まった。
「大丈夫です。たぶん」
リュシー様が包帯の腕を胸に抱え直した。
ソフィ様は壁に寄りかかったまま、目だけを動かした。
「増えましたのね。ここは何ですの、避難所?」
「園丁小屋です」
缶を開けて、茶葉をすくう。ひとさじ、ふたさじ、みさじ。
カップは2つしかないので順番に回した。飲み終わった人が噴水の水ですすいで次の人へ渡す。誰も文句を言わない。言う相手がいないからだ。
残りは32杯ぶん。
それから私は東の門で見たことを話した。机のこと。書類のこと。表題のこと。
話し終えると、小屋の中が静かになった。藁の沈む音が聞こえるくらいに。
「じゃあ」
リュシー様が包帯の腕を抱える。
巻き直したばかりの布は、もう端がほつれていた。
「ほんとうに、書かせるんですか。倒れたばかりの方に」
「はい」
「読めないのに」
「読めないうちに、です」
この子の顔から色が引いた。自分がもし門をくぐっていたら、という想像が追いついたのが目を見ればわかる。
「降りたら、家がなくなるんですか」
私はうなずいた。缶の蓋を持ったままだった。
閉めるのを忘れている。缶の口から、乾いた葉の匂いが立っていた。
「降りなかったら」
「最後の一人になるまで、終わりません」
「……どっちも、だめじゃないですか」
だめだ。私にもそう思える。
ソフィ様が壁から背中を離した。
「わたくしは、はじめからそのつもりでおりますけれど」
「戦うほうですか」
「ええ。勝てば家は残りますでしょう」
「では、負けたら」
「そのときはそのときですわ」
言い方が軽い。軽く言えるようになるまでにこの人が何を置いてきたのかを私は知らない。
オルタンス様だけが、積み上がった鉢の縁を指で叩いて笑っていた。
「重いなあ。もっと楽しい話をしましょうよ」
その一言で、全員が少しだけ息をした。この人の明るさに、私はいま本気で助けられている。
外へ出ると、生垣の切れ目にミレイユ様が立っていた。帳簿を開いて、羽根ペンを動かしている。
「あら。何かございました?」
「東の門を見てきました」
「まあ。ご感想は」
「机がありました」
ペンが止まらない。
「役人が座っていて、書類を出していました。表題は、家名返上に関する同意書」
止まらない。
「棄権すると、家がなくなります。みなさん知らずに署名をなさいます。さっきの方も、読めておりませんでした」
羽根の先が紙を滑る音だけがする。
顔を上げないまま、ミレイユ様が言った。
「存じておりますわ」




