第4話 胴元は帳簿を閉じない
頼まれて、の続きを、リュシー様はなかなか言わなかった。
カップの底を見て、膝を見て、それから包帯を見る。ようやく口が開いた。
「様子を、お伝えするように、と」
誰に、と聞くまでもない。どこにいて、何をしていて、生きているかどうか。それを毎日届けるように言われていたらしい。
なるほど。
「おいくらで」
「……え?」
「情報料です。いくらのお約束でしたか」
リュシー様が固まった。怒られる準備をしていた顔が、行き場をなくしている。
「お金では、なくて。配当を……私が最後まで残れたら、賭けの取り分を分けてくださると」
「安いですね」
「え、これでも多いと思って」
「安いです。私なら倍は取ります」
嘘だ。私に値段の交渉ができるわけがない。でもこの子は私が怒らなかったことよりも、値切られたことのほうに驚いている。そのほうが好都合だった。
「あら。ずいぶんお安く見積もられましたのね」
扉のほうから声がした。
閂が折れているというのは、つまりこういうことでもある。
栗色の巻き毛を跳ねさせて、帳簿を小脇に抱えた子が、勝手に敷居をまたいで入ってきた。ドレスに土ひとつついていない。この庭でそれはいっそ不気味だ。
「ごきげんよう。生きていらして何よりですわ」
「おかげさまで。2分は超えました」
「3分も超えていらっしゃいます。わたくし、3分より上に張りましたの。勝ちですわね」
靴の先まできれいだった。ここへ来るまでに、この子は一度も走っていない。
走らなくてよい道を、この子は知っている。
「ご用件は」
「情報を買いに参りましたの」
「私に売れるものは何も」
「ございますわ。あなた、昨日アデライド様とお話しになったでしょう」
背中が冷える。この子はどこから見ているんだろう。
「それで、何を」
「ご趣味を伺いました。剣の手入れだそうです」
ミレイユ様が帳簿を開き、羽根ペンを走らせた。本当に書いている。何を書いているのか覗こうとしたら、さりげなく体で隠された。
覗けたのは一行だけ。数字と、名前と日付が並んでいた。読めるのに意味がわからないという体験は、学園で成績表を受け取って以来になる。
「私の倍率は、いまいくつなの」
「180倍でしたのが、55倍に」
生きているから下がる。理屈はわかる。わかるけれど、自分の値段を人から聞かされる気分は妙だった。
「それに、買われましたわ。あなた」
買われた。人ではなく数字として、どこかの誰かの帳簿に載ったということだ。
「どなたかが、まとまった額であなたに張っておいでです。どなたかは存じませんけれど」
帳簿がめくれて、束のあいだから薄い紙が何枚か覗いた。文字の並びに見覚えがある。金の縁取りと王家の薔薇の封蝋。あの日、私の膝の上にあったのと同じ紙だ。
「それ、招待状?」
「写しですわ。どなたのお宅に、いつ届いたか」
「そんなものを、どうして」
「配るのは典礼省ですのよ。誰と誰を同じ回にお呼びするかを決めるのも」
言っている意味が半分もわからない。
わかったのは、この庭に集められた32人が、誰かの手で選ばれているということだけだった。
「お強い方ばかり集めても、お弱い方ばかり集めても、賭けは面白くございませんの。混ぜますのよ。ちょうどよく」
「……偶然じゃない、ということ?」
「偶然の茶会に、180倍という数字はつきませんわ」
私はポットに手を伸ばした。
「お茶でも」
「結構ですわ」
「まだ何も申し上げておりません」
「いただいたら、あなたに情のようなものを覚えるかもしれませんでしょう。勘定に感情が混ざると、数字が鈍りますの」
カップを持ったまま、私は少し感心していた。この子は自分の弱点を正確に把握している。私は自分の弱点なら、成績表の形で提出できる。
「ところで、これから回収がございますの。ご覧になります?」
何を回収するのかと聞くと、取引の履行ですわ、と返ってきた。
水差しが空だったので、私はついていくことにした。半分は口実で半分は本当だ。
迷路を抜けるあいだ、この子は一度も後ろを気にしなかった。足音を殺すこともしない。ここが誰も襲ってこない場所であることを、どうやってか知っている歩き方だった。
広場に出ると、令嬢が二人、噴水の縁に並んで座っていた。
どちらも武具を提げていて、どちらも肩で息をしている。片方の胸当てが大きくへこんでいた。追われて、逃げて、ここで力が尽きたという格好だ。
「お待たせいたしましたわ」
ミレイユ様が声をかけると顔が上がる。そして――笑った。
「ほんとうに、よろしいのね?」
配当の話は短かった。おふたりぶん、たしかにお約束いたします。優勝者が決まりましたら、ご自宅までお届けにあがりますわ。
痩せたほうが、こんなところで倒れるのは嫌なのだと言った。倒れませんわ、門をくぐるだけですもの、とミレイユ様が返す。門をくぐる。そう言って済ませるのだと思った。
彼女たちが立ち上がる。砂を払って、髪を直して、そのうちの一人が私を見た。
「あら、ヴァルモント様。ごきげんよう」
私の口が、習ったとおりの形に動いた。声は出なかった。
「あなたも、お早くお帰りになったら? こんなの、馬鹿げておりますわ」
馬鹿げている。
その言葉の形に覚えがあった。父が書斎で口にした母の言葉と同じ形をしている。
彼女たちは笑いながら東へ歩いていった。荷物を提げて、背筋を伸ばして、茶会が終わったあとの帰り道みたいに。
東の門は生垣の向こうにある。ここからは見えない。何が置いてあるのかも、誰が待っているのかも私は知らない。知らないまま、遠ざかる背中を見送っている。喉の奥に小骨のようなものが引っかかったけれど、名前がつけられなかった。
鐘楼の竿で旗が2本上がる。
16本。残りは16人。ちょうど半分だ。
あの人たちは何を差し出したのか。尋ねると、ミレイユ様は帳簿から目を上げないまま答えた。
「棄権の書類に、ご署名を一筆」
生垣の陰に人が立っていた。
背の高い令嬢だ。深緑のドレスの上に革の胸当て。抜き身の剣を提げて、切っ先はまだ土についていない。彼女は東の門のほうを見ていて、あの背中が消えるまで動かなかった。
ソフィ・ドラエ様。剣術の実技で、いつも最初に名を呼ばれていた。
名を呼ぶと、ゆっくり振り返る。目が赤い。泣いているのではなく、寝ていない顔だ。
「あの二人、わたくしが追っておりましたの。追いついたら斬るつもりでした。斬らずに済んでよかったと思っているわたくしが、いちばん気持ち悪い」
剣先がようやく土に触れた。切っ先の下で砂が小さく崩れる。この人は剣を提げているのが自然な人で、私はそれを持ち上げることすらできない人だ。
「あなた、噂の方でしょう。小屋でお茶を淹れているという」
噂になっているらしい。この庭で、私の名前が誰かの口に上っている。
「腹立たしいことに、この庭じゅうに届いておりますわ」
言い返す暇もなかった。
「わたくし、剣術は優ですのよ。ここにいる方の半分には勝てます。それなのに、あなたのところへ行けば楽になれると、頭のどこかが申しますの」
彼女は剣を握り直した。
「甘やかさないでくださいまし。戦いに来たんですから」
「では、お茶だけどうぞ」
「聞いていらして?」
結局、ソフィ様は小屋までついてきた。抜き身を提げたまま歩いて、扉の前で舌打ちをして、それでも入ってくる。
小屋の空気が入れ替わった。革と鉄の匂いがして、それが紅茶の湯気と正面から喧嘩をしている。嗅ぎ慣れない匂いのほうが強い。
リュシー様が壁際まで下がった。
「あの方、大丈夫なんですか」
「危ないと思います」
「思うんですか!?」
缶を開けて、茶葉をふたさじ。カップに注いで、それぞれの前へ置く。
残りは35杯ぶん。減り方はまだ数えられる範囲にある。
数えられるうちは大丈夫だと思っていた。数えられなくなったときのことは、この日の私はまだ考えていない。
ソフィ様は剣を膝に載せたまま、しばらくカップを睨んでいた。それから、心底まずそうな顔で一口飲んだ。
「……悔しいですわ」
「わかります」
「わかりませんわよ」
戸口ではミレイユ様が帳簿に何かを書き込んでいる。書き終えて、閉じて――閉じない。この子は帳簿を閉じない。開いたまま小脇に挟んで、空いた手で髪を直した。
「では、わたくしはこれで」
「お茶を召し上がらないのに、どうしてここへいらっしゃるの」
「数字が動く場所には足を運ぶことにしておりますの」
彼女は敷居をまたいで、それから振り返った。
いつもの商売の顔ではない。もっと軽い、何かのついでみたいな顔で。
「ところで」
開いたままの帳簿が、脇の下で少しずれた。
「辞退の書類って、どこに出すんでしょうね」




