第3話 泣きながら刃を向けられましても
目が覚めて最初に考えたのは、水がない、ということだった。
その次に考えたのが、扉の外に人が座っている、ということ。順番がおかしいのは自分でもわかっている。わかってはいるけれど、閂が折れている以上、私にできる備えはひとつもない。相手が刃を持っていたら終わりだし、持っていなくても勝てないのだから、考える意味がない。
だから扉を押した。
薄桃色のドレスの子は、私が手をかけても振り返らなかった。
膝を抱えて、靴を履いていないほうの足を砂利に投げ出している。左の腕から肘へ、赤い筋が乾きかけていた。血の匂いは鉄に似ている。近づくと、そこへ湿った土の匂いが混ざった。
「あの」
肩が跳ねる。
振り返った顔は思っていたよりずっと幼い。前髪が汗で額に貼りついて、目の縁が赤い。学園の下級生の顔だ。入学して間もない、廊下で挨拶だけしたことのある――。
「リュシー・ロンサール様」
「……わたし、名乗っていません」
「顔と名前を覚えるのが仕事のようなものですから」
彼女がよろけながら立ち上がる。右手が背中から前へ回ってきた。
短剣だ。刃がまっすぐ私の胸を指して、そのまま震えている。上下に細かく。
「う、動かないで、ください」
「はい」
「あなたを、倒せば」
「はい」
「うちの家が、うちの、家は」
語尾が溶けた。
刃先の震えが大きくなって、それから彼女の顔がぐしゃりと崩れる。
「……っ、う」
「あの」
「ごめ、なさ、ごめんなさい、わたし」
「泣きながら刃を向けられましても」
「ごめんなさぁい」
困る。本当に困る。
私は短剣の柄を人差し指で押して、切っ先を下へ向けさせた。抵抗はない。
腕の傷は放っておける種類のものではなかった。切り口が浅くて長い。逃げるときに何かへ引っかけたらしい。
小屋を見回す。清潔な布らしいものはひとつしかない。
自分のドレスの、裾の内側。
裾を持ち上げると、縫い込んだものが指に当たった。招待状だ。ここへ来る前の夜、ハンナに頼んで内側へ縫いつけてもらった。あの裏面の一行がなければ、私はこの庭にいる理由も、いつ終わるのかも説明できない。焼けようが濡れようが、これだけは体から離さないと決めている。
布はその隣から切った。昨日レースを切ったのと同じ短剣で、今度は白いところを裂く。まっすぐ裂けずに斜めへ走って、余計に短くなった。もうこれを着て王都には帰れない。
「巻きます」
「え、あ、はい」
「痛かったら言ってください。やめませんけど」
「え、あの」
「やめたら血が止まりませんので」
巻いていくあいだ、彼女はしゃっくりみたいな息を何度も吸っていた。
布の白がみるみる赤を吸っていく。結び目を作ると、腕は驚くほど細かった。
「お茶を淹れます」
「お、おちゃ」
「水がありません。汲んできます」
「外、危ないです」
「ええ、そうですね」
そうですねと言いながら、私は水差しを持って立ち上がった。危ないのは知っている。知っていても水は湧いてこない。
二度目の迷路は一度目より嫌だった。道を覚えているぶん、どこで誰と鉢合わせるかまで想像できてしまう。葉ずれの音がするたびに足を止めて、それが実の落ちた音だと確かめてから、また歩く。
噴水に出る。
ここだけ天井が高い。真上から日が水面に落ちて、跳ね返った白が目を刺す。
水を汲もうとして、手が止まった。
縁の内側に人がいる。
水の中に膝をついた格好で、両手を石にかけている。橙色のドレスが水を吸ってふくらみ、彼女の腰から下に貼りついていた。上がろうとして腕に力が入り、そして肘から先が滑る。ぱしゃん、と水が跳ねた。
「あの」
声をかけると、彼女がこちらを見た。知らない顔だ。目だけが必死で、口は笑おうとしている。社交の癖が抜けていない。
「大丈夫ですの。すぐに上がりますので」
「お手を」
伸ばした手を彼女が握る。冷たい。私は引いた。
引いて、引いて、その布が石みたいに重いことを知る。
「――っ、は、はなして」
私は首を横に振った。指が滑る。もう一度、握り直す。
「あなたの手まで、っ」
背後で砂利を踏む音がした。
典礼省の記章をつけた男が二人、担架を提げて歩いてくる。急いでいない。慣れた足取りだ。慣れているのがいちばん嫌だった。
彼らは私を押しのけて、水の中の彼女を両側から抱え上げる。抵抗はない。橙色の布から水が垂れて、白い石の縁を暗く濡らしていった。
鐘楼の竿で、白い旗が1本増える。
14本。残りは18人。
私は濡れた手を見下ろしていた。甲に細い引っ掻き傷がある。血は出ていない。この人はきっと私の手を離すために引っ掻いたのだ。
水差しに水を汲む。同じ噴水の、同じ水を。
迷路へ入ってしばらく歩いてから、水面が揺れているのに気づいた。私の手が震えているせいだ。止めようと思って力を入れると余計に揺れる。
助けられなかった、という言葉が浮かんで、私はそれを飲み込んだ。助けようとした、でもない。あの人の手を握って引っ張って、それで終わり。淑女選抜戦に人助けの実技があるなら、私の評価はここでも不可だと思う。
小屋へ戻ると、リュシー様は同じ場所に座っていた。私の顔を見て、何か言いかけて、やめる。
ランプに火を入れる。指の火傷がまだ痛むので、今日は慎重にやった。ポットを置いて、水を注いで蓋をする。
湯が沸くまでおよそ6分。
この6分が私にはどうにもならない。剣も振れず走りもしない人間にとって、湯が沸くまでの時間は世界でいちばん長い。誰かが扉を蹴破ってきたところで、私に言えるのは「お待ちください、あと4分です」くらいのものだ。
「あの、あと何分ですか」
「4分ほどです」
リュシー様が包帯を巻いた腕を抱えたまま小屋の中を見回した。積み上がった鉢。壁に並んだ道具。床の藁。開いたままのトランク。
「これだけ、ですか」
私はトランクの中身を床へ並べてみせた。缶。ランプ。カップと受け皿。並べても、床はほとんど埋まらない。
「持ち込みは3点まで、ですよね。武具は」
「短剣が1本だけ。レースと包帯を切るのに使いました」
彼女が口を半分開けたまま固まる。そのままの顔で、しばらく私を見ていた。
ポットの底で、細かい泡が集まりはじめている。まだ音にならない。
「……勝つ気、ないんですか」
「昨日も同じことを聞かれました」
「なんとお答えに」
「帰る気ならある、と」
湯が細く鳴りはじめる。音が太くなるまであと少し。
「変な人ですね」
「よく言われます」
缶を開ける。茶葉をひとさじ。
ふたさじ目へ伸びた手が止まる。
この缶の中身は増えない。持ち込みは3点で、補給の欄は招待状のどこにもなかった。
昨日までに私が2杯。この子に1杯。40杯ぶんあったものが、これで37杯になる。
注いだカップを彼女の前へ置く。
リュシー様は両手で受け取って、しばらく湯気を見ていた。それから、一口。
「……熱い」
「熱いです」
「熱い、です」
繰り返して、彼女はまた泣いた。今度は声を出さずに、カップの中へ落としている。
落ちた雫のぶんだけ、湯気の形が崩れる。私は見ていないふりをして、自分のぶんを注いだ。
「お名前を伺ってもよろしいですか」
「ご存じでしたよね」
「知っているのと、名乗っていただくのは違いますので」
「……リュシー・ロンサールです」
それから、聞かれてもいないことを続けた。15歳。男爵家の三女。上に姉が二人いて、二人とも優秀なのだそうだ。自分のことになると、私は何も、と言いかけたところで口を閉じた。
カップの縁を、親指が何度も往復している。学園なら誰かが注意しただろう。ここには誰もいない。
「あの、ヴァルモント様は」
「セシリアで結構です」
「どうして、私を」
「手当てしたのはなぜか、ですか」
「……はい。私、刃を向けました」
「昨日から慣れております」
「そんな」
「それに、目の前で人が血を流していると、お茶がまずくなるので」
「そんな理由ですか」
嘘ではない。半分は。
残りの半分はたぶん、この子の手の震え方だった。剣を持ったことのない人間の震え方で、私が昨日していたのとよく似ていた。
彼女がカップを置く。空になっている。底に茶葉が一枚だけ残って、白い陶器に貼りついていた。
「あの、私、実は」
言葉が続かない。指がドレスの膝をつまんでねじっている。
「ミレイユ様に、頼まれて」




