第2話 単勝1.1倍のお客様
匂いがすごい、と言われた。
褒められてはいない。この人の目は私を見ていない。ポットを見ている。獲物の位置を報告する猟犬みたいな目つきだ。
「……アデライド様」
「知っているのか」
「単勝1.1倍の方を存じ上げない参加者は、おりませんので」
黒いドレスに飾りはひとつもない。下げた剣の先から、土がまた一粒落ちる。ここへ来るまでに誰かを倒してきた土だ。
逃げ場を探して、視線だけ動かす。窓は猫がやっと通る大きさで裏口はない。私の背中にあるのは素焼きの鉢の山と、火にかけたままのポットだけ。
「戦え」
開口一番がそれだった。
「無理です」
「なぜ」
「剣術・可。体術・可。魔法実技・不可でございます」
沈黙が落ちる。可という評価にどう反応すべきか、真剣に探している顔だ。ちなみに可は下から2番目で、その下が不可になる。
「ならば、なぜ生きている」
「まだ死んでいないからです」
「答えになっていない」
「では、運がよろしかったので」
剣を持ち替える音がして、私の膝が勝手に笑いだす。前世で乙女ゲームに何百時間を注ぎ込んでいようと、この距離で刃を持った相手に通る手札は一枚も配られていない。
だから、手のほうが先に動いた。
棚からカップをひとつ取って、ポットを傾ける。琥珀が細く落ちる。湯気が顔の高さまで上がってきて、そこでほどけた。小屋の空気が湯気の下から作り変えられていく。土と藁の匂いが押しのけられて、かわりに紅茶が降りてくる。
差し出す。
「どうぞ」
「……何のつもりだ」
「二杯目を注ぐところでしたので」
「毒か」
「毒は品位に欠けるそうです。第四条に」
受け取らない。受け取らないまま、カップと私の顔のあいだで視線が往復する。
琥珀の面が、細かく震えていた。カップが揺れているのではない。私が揺れている。
「飲まない」
「さようですか」
「毒がないなら、なおのこと飲まない」
理屈が呑み込めずに黙っていると、向こうが先に説明した。
「もらったものを腹に入れれば、借りができる。借りのある相手は斬りにくい」
「斬るご予定は、おありなんですね」
「今日ではない」
予定はあるらしい。
カップを引っ込めるのも失礼な気がして、私は両手で持ったまま突っ立っている。湯気が顔に当たって、まぶたが熱い。
アデライド様の視線が、小屋の中をぐるりと巡る。口を開けたトランク。火の入ったランプ。床に並べた茶器。
「それが持ち込みか」
「規約の範囲でございます」
「武具は3点までだ」
「武具については、そう書かれております。武具でないものについては、一行も書かれておりません」
彼女が初めて、ポットではなく私の顔を見た。
「屁理屈だな」
「社交儀礼は優でしたので」
遠くで何かが割れる音がした。鉢だろうか。二人ともそちらを見ない。
湯気はもう細くなっている。差し出したままのカップが、行き場を失って熱いだけになっていく。
「失礼を承知でうかがいますが」
「なんだ」
「ご趣味は」
「剣の手入れだ」
侍女の情報網は正確だった。もう少し外れていてくれてもよかったのに。
「……なぜ、ここへ」
「匂いだ」
即答だった。
鼻の穴が動いたのが見えた。もう一度、確かめている。
「生垣の外まで届いている。あれだけ漂わせておいて隠れているつもりなら、頭が悪い」
「隠れているつもりはございませんでした。喉が渇いていたので」
自分で言って、自分でうんざりする。喉が渇いたので湯を沸かしました。32人が潰し合っている庭で。
「お前は」
アデライド様の声が少しだけ低くなる。
「勝つ気がないのか」
「帰る気ならございます」
答えてから、まずかったかと思った。この人にとっては侮辱に近いはずだ。昨年から備えてきた人間の前で、何も備えていない人間が帰りたいと言うのは。
でも彼女は怒らなかった。怒るより先に、興味を失った顔になる。
剣が鞘に戻る。かちり、と鳴って、それきり抜かれない。
「あの」
「なんだ」
「お飲みにならないなら、閂を直していただけませんか」
「断る」
取りつく島もない。
扉のほうへ歩きかけて、彼女が足を止めた。振り返らないまま言う。
「ここは、私が通った場所だ」
「……と、おっしゃいますと」
「言葉のとおりだ」
黒いドレスが生垣の切れ目の向こうへ消えていく。
残されたのは半分ひらいたままの扉と、手の中でぬるくなっていくカップだけだった。
閂を見にいく。木が縦に裂けて、金具ごと垂れ下がっている。押しても引いても、扉はもう噛み合わない。
「……閉まらないんですけど」
誰も答えない。
裂けた木は押さえているあいだだけは形になる。手を離すと落ちる。壁の道具の並びから針金を一本もらってきて、金具に巻きつけてみた。巻いた先からほどけていく。指の腹がずきずきする。さっきランプの火に押しつけたところが、赤く膨れてきていた。
しばらく格闘して、私は針金を床に置いた。
「……お直しは、専門の方に」
誰もいない小屋で敬語を使っている自分がいちばん怖い。
言葉のとおり、と言われても困る。
通った、とはどういう意味だろう。通ったからここは自分のものだ、という宣言なら、私は明日にはここにいられない。通ったからもう用はない、という意味なら――ここは漁ったあとの場所になる。誰もわざわざ来ない場所に。
見逃されたのだとは思いたくなかった。そう思ったとたん、私は誰かの気分で生きていることになる。
その日の残りを、私は扉の内側に座って過ごした。剪定鋏を膝に置いてみたけれど、これで何ができるのかは考えないことにする。人を刺すためのものではないし、私も人を刺すためのものではない。
昼のあいだ、硝子の天井には容赦がない。板壁が内側から熱を持って、小屋の中まで温まる。藁が乾いた匂いを出しはじめて、私は襟のリボンをゆるめた。汗が背中を伝う。隠れるにも逃げるにも、この庭は明るすぎる。
夕方、外で音がした。
最初のは短い。金属が一度だけ高く鳴って、あとは布の落ちる音がして、それきり静かになる。
二度目は長かった。走る足音が生垣を叩いて、叩いて、途中でぷつりと止まる。悲鳴はない。声を出す暇があるほど、あの人は手加減をしない。
私は膝を抱えて、目を閉じたまま音を追っていた。見ないですむぶん、耳のほうがよく働いてしまう。
扉の隙間から、鐘楼のてっぺんが少しだけ見える。竿に白い旗が並んでいた。誰かが脱落するたび、審判官が1本ずつ上げていく決まりらしい。開会のときは何もかかっていなかったのにいまは13本。
32から13を引く。19。
引き算を終えてから、自分が何をしたのかに気づいた。
私はいま、人が減った数を数えて、少しだけ安心している。
カップを置く。中身はすっかり冷めて、表面に薄い膜が張っていた。誰も飲まなかった二杯目を、立ったまま飲み干す。ぬるい紅茶は渋みばかりが大きな顔をする。
水差しを傾けると底が見えた。噴水から汲んできたぶんは、ポットを2回満たしただけでほとんど消えている。明日は汲みに出なければならない。汲みに出るというのは、あの生垣をもう一度歩くということだ。
夜は長い。閂のない扉は板の隙間を抜ける空気のたびに軋んで、そのたびに心臓が跳ねる。うとうとしては目を開けて、そのうち数えるのをやめた。
朝は、暑さのほうが先に来た。
顔の左半分だけが温かい。扉の開いているほうだ。私は顔をしかめながら身を起こした。首が痛い。鉢の山に寄りかかったまま眠っていたらしい。
扉が半分ひらいている。
その隙間に影がある。
朝の光が逆光になって、輪郭しか見えない。膝を抱えて、こちらに背を向けて、動かない。裾の色は薄桃で片方の靴がない。
誰かがそこに座り込んでいた。




